尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

ノモンハン事件前後と軍神の形成過程は重なっている

2016-12-02 13:42:31 | 

 前二回(11/18、11/25)で、西住小次郎戦車長がどのようなマスコミを通じて軍神となったのかを紹介しました。服部裕子「子ども向け伝記『軍神西住戦車長』論──軍神の形成と作品の特徴──」の記述をそのまま引用したので、気づきにくかったと思いますが、以下のように、西住小次郎大尉の戦死から七ヶ月後の一二月一七日、部隊長だった細見大佐の講演があると、これを契機にマスコミによって喧伝され、各種イベントが連続して行われていく期間が異常に短いのです。

 一九三八(昭和一三)年五月一七日に日中戦争徐州戦で戦死すると、七ヶ月後の同年師走の一七日に、部隊長の細見惟雄大佐による西住戦車長を顕彰する講演が陸軍省記者倶楽部で行われます。すると翌一八日に東京朝日新聞、東京日日新聞が一斉に西住大尉について書き立てました。そして同月二六日夜には細見大佐による講演がラジオで放送されます。年が明けるとすぐに東京朝日新聞社主催、陸軍省後援の「戦車大博覧会」が靖国神社で一月八日~一五日の八日間にわたり開催されます。これに合わせて初日の八日には銀座通りで一五〇台の戦車による「大行進」が行われます。また一一日には日比谷公会堂で「戦車大講演会」が催されています。そして三月になると、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊紙上で、菊池寛の「西住戦車長伝」の連載が始まります。五月になると子供向きにはじめて・久米元一『昭和の軍神 西住戦車長』と講談社の絵本・『軍神西住大尉』が、六月には富田常雄『軍神西住戦車長』などが連続して刊行されることになります。

 このように、一九三八(昭和一三)年一二月~翌一九三九(昭和一四)年の前半までに注目すると、マスコミによる西住戦車長関連の動きが連続しているのです。この動きを先導していたのは表向きは新聞社ですが、一二月一八日の新聞報道からおよそ二十日間で「大博覧会」開催はいかにも早過ぎると思います。西住戦車長が乗っていた銃痕だらけ戦車が日本に運び込まれたりすることを含めた「大博覧会」の準備に思い当れば、西住大尉の戦死から細見大佐の講演までの七ヶ月間、おそらく陸軍省内部での緻密な計画があったことはおそらくまちがいないでしょう。しかし、なぜこの時期だったのか、これがまだ分かりません。

 これを考えているうちに気づいたのですが、私は、ノモンハン事件は西住戦車長が軍神として形成される前に起きたものだと勘違いしていました。調べてみると、この事件は満州国(中国東北地方)とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境ノモンハンで一九三九年五~九月に起きた日ソ両軍の国境紛争事件です。つまり軍神・西住戦車長の物語が形成される途上に起きていたのです。もうすこし辞書的な知識を見てゆくと、「ノモンハン地域の不明確な国境線をめぐって日本とモンゴルが対立し、一九三九年五月、日本軍は軍事行動を開始。モンゴル側を援助するソ連軍と対戦し、日本の関東軍はソ連機械化部隊により壊滅的な打撃を受け、死傷者約二万人余。この結果、九月に停戦協定が成立し、以後日本は対ソ開始に慎重となり、陸軍の機械化に努力した」(旺文社日本史事典 二〇〇〇)。「ソ連機械化部隊」にはもちろん戦車部隊も含まれます。つまりこの衝突で、日本の近代兵器の劣勢があきらかになったわけです。この大敗北の事実は秘密にされていましたが、その影響は軍神・西住戦車長の形成を推進していた陸軍内部にも微妙な影響を与えたはずです。

 というよりか、私はこの物語の形成そのものが、陸軍がノモンハン国境で画策していた事件に合わせた、国民への戦時高揚(世論操作)策であったのではないかという疑いを持ちました。西住大尉が戦死してからの七ヶ月、来たるノモンハン国境で紛争を起こし近代兵器として戦車重視の世論を作ろうとしていたのではないか。ノモンハンの戦果によって近代兵器・戦車の大幅増産のための予算獲得が狙いではなかったかと想像します。しかし、ソ連の戦車部隊によって日本の戦車は壊滅的な打撃を受けます。こうなれば急いで近代兵器への改良が緊急課題となったはずです。しかし米英ソに比べれば予算も生産力も劣っている当時の日本では限界がある。そこでまず少年兵の養成を目的とする陸軍少年戦車兵学校の設立へ向って方針転換され、いずれ本来の狙いである戦車増産の予算獲得に向おうとしていたのではなかったか、またその結果、軍神・西住戦車隊長への陸軍の干与は少年戦車兵募集に動員されることになったのではないか、このように考えられます。なお、もっと調べてみなければなりませんが。


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