尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

昭和期五十年 「女のことばの何が変わったのか」(一九七八)

2017-07-14 14:59:58 | 

前回(7/7)は、牛島義友『農村児童の心理』(巖松堂書店 一九四七)の第四篇「都市との接触」の第十五章「村の変貌」、第一節「村の変貌」を読み終えました。そこでは、戦前戦時における農村の変貌を、まずは経済生活上の変化を押さえ、次に農村生活のさまざまな局面に表われた変化を見てきました。私がそこで考えたことは、農村生活の変貌を見るモノサシの存在です。私の親世代(昭和一ケタ生まれ)の戦前戦時下の暮しを知るためには、どこに着目すればよいか。この本の記述をたどるなかで思いついたのは、「ラジオ」と「ことばの変化」という観点でした。

そこで「ラジオ」は後に回して、後者については手元にあった、大石初太郎ほか『ことばの昭和史』(朝日新聞社 一九七八)で調べてみると予告しました。まだ直接、戦前戦時下の「農村の変貌」をうつしとったと思われる「ことば」をみつけることができないでいますが、およそ昭和五〇年間のことばの歴史に触れたいくつかの論考のなかで、最初に私の関心を惹いたのは、寿岳章子(じゅがく あきこ)さんの「女性語にとっての昭和」でした。今回はこれを読んでみます。引用紹介するには第四節「女のことばの何が変わったのか」ですが、ここまでの議論の要点を整理しておきます。

第一節「戦前、戦後の鮮やかな分断」では、敗戦を境にしたことばの鮮やかな対比が可能であること、第二節「世界の中での日本の女性語」では、男のことばが見せた昭和五十年間の変化の程度とは比較にならぬほどの激変があったことを、第三節「近ごろの・・・「変わり」の評価」では、女のことばの変化は「女らしさ」の変化と、その意味では「好ましからぬ変化」と受けとめられたこと、が説かれています。そこで第四節「女のことばの何が変わったのか」です。冒頭では、男のことばも変化しているのに、もっぱら女のことばの変化に力点がおかれるのは、量的にも質的にも女の側の変化が目立つことこと。また男のことばの変化は日本語変化一般の議論に還元されてしまうし、女のことばとの関連で処理されてしまう面が特に多いからだと説いています。昭和史における「ことばの変化」の問題は、女のことばの変化に集約されてしまうようです。ならば、昭和期五十年の間に、女のことばのどこが、どう変わったのかを説かないといけません。

 

変わった項目の筆頭に何をあげるべきであろうか。はっきりどこがどうと指摘することが可能な変化もあろうし、どこがどうとあらわに指示できぬにしても、たしかに「何となく」変わったというような言いかたで射止められるものもある。/私の母は、明治三十四年生まれである。明治・大正・昭和を生きぬいてきた。はたち頃、大正末に結婚し以後ものかきをしながら家庭を経営してきた。ことばについての感覚は鋭い。彼女は時々、近ごろの若い女のことばはほんとうに変わったと述懐する。善悪を言うべき筋合いではないことは十分承知しているから、まったく述懐でしかありえない。しかしとにかく変わったとしみじみ思わずにはおれない。五十歳前後の女性のことばはそれほど変わったとは思えないが、若い女たちのことばはちがうと思う。では、どこがどう変わったのか。はっきりとは言いにくいが、話しことばにおける、「情味」とでも言いたいものが失せたのではなかろうか。パサパサして木で鼻くくったようだ・・・しっとりとした味わいがない・・・あいそがない・・・こうした表現で示される変化だ、と彼女は評する。「まあ言うてみたら『すぼっこい』ちゅうようなことやなあ」と母はしめくくりをした。「すぼっこい」とは言い得て妙な評語である。関西方言であるから(すぼっこい=そっけない。愛想のない。兵庫県明石郡)(すぼっこ=愛想のないさま。無愛想なさま。京都地方でいう)、その語の雰囲気は、この語を知らぬ人にはわかりにくいことであるが、ほんとうにその通りである。

その「すぼっこさ」が昔は女のことばに一様ではなく、逆に現在は若い世代の女にほぼ一様であるということは、総じて言えばどのような変化であるのか。それはすなわち、昭和の五十年の果ての女のことばの変化が、ことばのどの面にあらわになってきたかを適切に物語る。それは、女のことばの論理的な面、通達的な面での話ではない。つまり、話の論理的内容にはあまりにかかわらず、その言いかたのようなものが変わったのである。文法が変わった、発音が変わったというたぐいとちがい、その言語表現が与える感情的価値のようなものがちがうのだ。

考えてみれば女性語というような捉え方じたいがきわめて感化的な存在なのである。それだからこそ、その部分での何かの変わりようがひどくこたえるのだろう。日本における期待される女性像のようなものを多分に下敷きにして、長い歳月をかけて作り上げた女のことばは、甘美な情緒の霧でうるおっている。それがどんどん干上がってくるとあっては、男にも女にもかなり深刻な問題となることは当然であろう。≫(大石初太郎ほか『ことばの昭和史』朝日新聞社 一九七八 九七~九頁)

 

「すぼっこい」とは初めてきく方言です。素朴(そぼく)が変化したのかな、などと思いましたが、意味は引用にあるとおりです。よく言えば飾り気がない、悪くいえば愛想がない言いかたのようです。女のことばは、昭和期五十年の間に「情味」を失い「すぼっこく」なったといわけです。では「情味」とは何か。辞書には、「①あじわい。おもむき。②人間らしい思いやりやあたたかみ。人情味。」(広辞苑第六版)と書いてあります。辞書的な意味では、好ましい心のありようを指していることがわかります。ことばではなく「心」の変化を言いたかったわけです。著者のことばを使えば、「言語表現が与える感情的価値のようなもの」が変化したことです。戦後よく話題にされた「嫁姑」問題も、互いに心持ちのちがいを自覚できないことに始まるのかも、などと思いました。

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