尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

コトワザは口と耳で「ヨム」ものだった

2016-12-28 06:00:00 | 

 前回(12/21)は、前代の読み書き教育はその期間も短かったけれども、優秀者だけを抜擢するような教育ではなく、土地で正しいとされている言葉と、嘲り笑われるような間違いの言葉とのけじめをできるだけハッキリと心づかせることに目的が置かれたこと、そのために「笑いの利用」に走ったことを読み取りました。「笑いの利用」とは、まちがったことを言って笑われるのはイヤだけども、人の間違いが面白かったときにはみんなで笑うという群の心理を活用することでした。柳田國男は、こういう笑いは慎みが足りないけれども、みんなと共に笑えるということは、孤立の危険を回避する必要な手段であったこともつけくわえていました。

 前回は心づきませんでしたが、柳田が言いたかった「笑いの利用」とは、他人の間違った言葉づかいを馬鹿にして笑うことではなく、面白いから笑うということだったのではないかと思います。昨晩『ビリギャル』という映画を見ましたが、中学高校とまったく勉強をしなかった主人公さやか(有村架純)が、大学受験をこころざし個人指導の予備校に通い始めたころの、間違って覚えていたことの数々を想像していただくとよいと思います。あるいは『男はつらいよ』の寅さんの言い間違いなどがピッタリかも知れません。しかしどのような笑いであれ、一般には間違いに気付くことは、恥ずかしく辛いことであることはまちがいありませんが──。さて、今回はこの群(むれ)の心理を活かして効果をあげた昔の国語教育の紹介です。

 

≪こういう群心理を教育の上に利用したもので、何よりも有効であったかと思われるのはコトワザである。聴いて誰一人会得せぬ者はない土地の言葉で、短く調子よく気の利いた文句を、しかも多分の滑稽味(こっけいみ)を含めて、物のたとえや人の批判に用いるという技術が、よそでは見られぬ程度にわが邦には発達しているとしても、それは少しも偶然な現象ではない。単に物ずきな退屈凌(しの)ぎに、これほど数多くの俚諺を作り、または暗記している者はあり得ない。一方に響きの声に応ずるごとく、これを聴いて破顔する者の群があるとともに、たまたまその笑いの対象となって、孤立の不快と寂寞とを痛感し、それに懲りて再び同じ失敗をくり返すまいとする覚悟が、当の本人は申すに及ばず、傍にあってもさも心なげに、クツクツ笑っている者の腹の中にも、生ずることを期していたからである。何百年の長い期間にわたって、昔のコトワザの数多く伝わっているのは、必ずしも最初の考案者の力ではなかった。後々これを覚えていて、ちょうど似合いの場所に応用する者が絶えなかっただけでなく、さらにその周囲の人々がこれを牢記(ろうき:しっかり記憶する)し、また警戒していた結果でもある。だから、「焼鳥に綜緒(へお:小鷹の脚に結びつけるヒモ)つける」という無益の念入りをひやかした諺の意味を忘れてしまって、今では「焼鳥に塩」という者が多いように、誤解を重ねつつもなお残っているものもあるのである。技術や天候の判断に関する多くの知識は、諺と同じ形にして与えればよく保存せられた。つまりは一度も口にすることのない人々までが、始終心の中で熟読し、玩味しているものが諺であって、それが我々の言語生活を豊富にしたことは、かえって民謡のごとく聴けばすぐに合唱するものよりも、また一段と有力だったのである。弊はもちろん免れなかったことと思うが、とにかく効果は現代の教科書よりも、何倍か根強くかつ持続していた。

 ヨムという動詞は、文字が国語に利用せられる以前から存在した。たとえば南方の島々では雀(すずめ)をヨムンドリ、長い歌物語をユンタという処もある。歌をよむというのは高らかに唱えることであったらしく、物の数を算えることもまたヨムで、目的はやはり誤りのないことを確かめるにあった。お経を読むというのも、中身とは関係がなく、元は一つ一つの文字に宛てていうこともできない空読みの徒さえ多かった。近世はもっぱら素読(そどく)とこれを呼んでいる。何を書いているのやらも知らずに、口だけ動かすということは無駄な労力のようだが、もともと知る前からの尊信が深かった上に、こうして飽きずにくり返しているうちには、いつかはおいおいにその内容をわが物にし得るという希望を、小さな頃から諺などの例によって経験していたのである。≫(柳田國男「昔の国語教育」一九三七/ちくま文庫版『柳田國男全集』第二二巻 百九~百十一頁)

 

 学校の国語教育で使われる「読む」とは、教科書の文章(文字)を口に出して読む(音読)、目で字面を追って読む(黙読)などを指します。しかし、柳田が言うには、文字が使われる以前からヨムという言葉はあって、その意味は「誤りのないことを確かめる」ことにあったというのです。ピンと来ない方もいらっしゃることでしょう。でも、音読が教科書の文字列の読み方を間違えていないかどうか耳で確かめ、黙読が文字の形や意味を間違えていないか目で確かめることだと言えば、納得していただけるかも知れません。これは現代ふうの理解の仕方ですが、おなじく「(読むとは、)誤りのないことを確かめる」ことだといっても、昔の国語教育は違っていました。どう違っていたのでしょうか。

 コトワザを教科書にしながら「読み方」を鍛えたのです。どのように鍛えていたのか。 ── 「一方に響きの声に応ずるごとく、これを聴いて破顔する者の群があるとともに、たまたまその笑いの対象となって、孤立の不快と寂寞とを痛感し、それに懲りて再び同じ失敗をくり返すまいとする覚悟が、当の本人は申すに及ばず、傍にあってもさも心なげに、クツクツ笑っている者の腹の中にも、生ずることを期」する方法です。なんだか、難しい物言いですが、どこか心惹かれる一節です。いわゆる柳田の文学的表現というやつかも知れません。この一節の勘所は、群の教育にあります。また個々には口で笑われることを畏れ、コトワザ(教科書)を「始終心の中で熟読し、玩味」することです。これが「ヨム」こと、つまり「誤りのないことを確かめる」ことなのです。私も上記の太字にした一節をさっそく「ヨンデ」みたい。 ── ヨムことは本質的に繰り返しを要求することが実感できます。そうそう、もうひとつ大事なことを記録しておくことをわすれました。柳田國男においては、「読む」こともこころ(肚)でするものらしいことです。

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