尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「帰納法の危うさ」という気づき

2017-07-12 15:24:30 | 

前回(7/5)は、栗原文夫著『文章表現の四つの構造』(右文書院 二〇一七)のだいたいの作りを紹介しました。

本書の構成は、序章と第一部と第二部の三つに大別でき、序章では文章研究の先駆者からの学びと批判による自説の提示、第一部は自説(文章表現の原理となる四つの構造)の詳しい説明、第二部ではその原理から導かれる多様な文章形式が論じられます。前回は序章からその原理の定義を引きましたが、もっとも言いたかったことを述べないままで終わったのでここで追加しておきます。それはこの定義のすばらしさです。すべての文章表現には、対立、類同、抽象の各構造があり、それを統一する命題の構造を含めて四つの構造がある、もっと短く「文章表現には原理となる四つの構造がある」と言われたら、国語教材として文章を自力で解読し授業に活かしたいと考える先生たちにとっては大変な朗報ではないでしょうか。少なくとも私なら、これを聴いて教材研究の指針が得られたことを、主体性回復のチャンスだと受けとめます。たった四つの構造で文章表現の原理を掴まえられるとなれば、俄然教材研究への姿勢が変わってくるはずです。つまり(小学校の現場しか知りませんが)、学校では手本とすべき解釈、模倣すべきだとする指導法(民間の「こうすればうまくいく」式の授業プランも含めて)ばかりが「横行」しており、主体的に文章表現を研究しようとする人材は多くないのです。だからこの原理は朗報なのです。

さて、今回は第二部から私の蒙を啓いてくれた議論をまず一つ紹介します。第十二章「帰納と演繹」です。著者は冒頭でこう書いています。

 

「帰納と演繹」は、<抽象の構造>の忠実な応用形式である。/我々の常識的な理解では、「帰納」とは、具体的な諸事例からそれらに共通する一般的な命題を導くことを言い、「演繹」は、一般的な命題に基づいて具体的な問題に対する判断を下すことをいう。帰納法は具体から抽象に向かい、演繹法は抽象から具体に向かう。文章表現において表現主体(書き手・話し手)が何らかの確かな主張を行なおうとする場合、依拠し得る思考の形式はこのいずれかであると一般には考えられている。≫(前掲書 一四四頁)

 

ここに「<抽象の構造>の忠実な応用形式である」、また「帰納法は具体から抽象に向かい、演繹法は抽象から具体に向かう」と書いてあるように「帰納と演繹」という思考形式が<抽象の構造>と関係づけられていることは明瞭です。著者がどのように<抽象の構造>を導きだし、応用の形式である「帰納と演繹」を位置づけているのか。これは他の三構造の導き方同様その論理の立て方に表われています。そのさわりだけを紹介しますと、ことばは対象に関する概念を表現したものだという本質規定から始まります。その概念形成は抽象によって行なわれること、そのために抽象の仕方の違いから抽象度の異なる多種多様の概念が形成されそれらを表すことばがやはり多種多様に存在すること、文章(談話)の書き手・話し手は、抽象度の異なることばどうしを結び付けることで、ある対象とそれ以外の対象との間に多様な関係を表現することが可能になる、これが<抽象の構造>です(詳しくは本書の第四章「抽象の構造」と第十章「抽象化と概念化」をごらん下さい)。では、ここから「帰納と演繹」はどう位置づけられるのかといえば、帰納法は抽象度の低い具体的な諸事例から抽象度の高い命題へ、演繹法は抽象度の高い命題からその低い具体的な諸事例へと関係づけられる、というわけです。

さて、引用にあった「帰納と演繹」についての「我々の常識的な理解」には私も含まれますが、これを「狭義」だとみなせば、これとは異なる「広義」の理解の仕方があるというのです(『岩波 哲学・思想事典』の「演繹」の項)。それは現代論理学でいう「推論」に関わる議論のうちにあります。論理学でいう「推論」とは、前提から結論(帰結)を引き出す活動もしくはその過程を指しますが、前提と帰結の関係が必然的なもの、つまり前提が正しければ必ず帰結も正しいといえる推論だけを「演繹」と呼ぶそうです。これに対し「帰納」の方は、前提が正しくても帰結が正しくないことがありえる、不確かな推論を呼ぶのだそうです。なんだか、帰納法が不当に評価されているような気がしてきます。そこで、著者は狭義の「帰納法」の文章例を求めていきます。まず、柳父(ヤナブ)章『翻訳語成立事情』(一九八二)から辞書の記述を具体的事例として、そこから「自然」という語が名詞として使用される時期を帰納的に推論している事例を紹介しています。これはたった三つの事例によって推論した文章例です。つぎに白州正子『近江山河抄』(一九七四)の最初の章の一節を取り上げ、こうまとめています。

 

十を超える具体的事例は、筆者の主張を導き出す根拠として不足はないだろう。「帰納法」という観点から見たとき、この文章は十分な周到さをもって書かれていると言える。/しかし、このこと必ずしも、筆者が「帰納法」という意識をもってこれを書いたことを意味するものではない。これらの事例は、単なる根拠として抽象的な結論に従属しているのではなく、一つ一つが自立した話題として丹念に読まれることを求めているように見える。むしろ、そうであるからこそこの文章は「帰納法」の優れた文章例として読める、と言ってもよいだろう。≫(同上 一四九頁)

 

根拠をあげることを目的に具体例を挙げたのではない、というところに何やら意味がありそうです。最後に、正岡子規の『歌よみに与ふる書』(一八九八)から「古今集」を取り上げます。命題は「『古今集』はくだらぬ集に有之候」であって、これを根拠づけのような文章だとみえますが、著者はこう述べています。

 

実際に子規の結論が一首一首の吟味から帰納的に導かれたとは考えにくい。むしろ、詩人の直観が大胆な断定を生んだと解釈するのが妥当であろう。その直観的な結論に根拠を与えるために帰納法的な論法がとられた、というのが実際のところではないかと推測される。≫(同上 一五一頁)

 

ならば、私たちは「帰納法」を使いこなすにはどうしたらいいのでしょうか。それは「帰納法の危うさ」を常に自覚して語り、筆記するということです。

 

このようにして帰納法の文章を探してくると、帰納法の典型例は予想外に少ないことに気付く。考えてみれば、「物価が上がった」という結論にために、異なる時期に、すべての物の値段を調べて比較するようなことを、人はまず行なわない。そのような比較は、通常の文章というより調査の統計的な処理になるだろう。もう一つ気付くことは、それにもかかわらず帰納的な文章は至る所にある、ということである。つまり、二、三の具体例を挙げて、そこから高次の命題を抽象することを人は好んで行なう。青果店で大根が高くなり、鮮魚店で秋刀魚の値段が上がれば、たいていの人はこのごろ物価が高くなったと考える。/ここから我々は、文章を読むときの大事な教訓を得ることができるだろう。それは、具体例を根拠とする結論が直ちに正しい結論であるとは断言できない、ということである。提示された具体例から本当にその結論が引き出せるのか? 同じ問題について別の具体例がないのか?その新たな具体例によって異なる結論が導かれる可能性はないのか? 帰納法による文章を読むとき、問題を正しく考え抜くためには、常にこのような批判的な問いをもつことが必要となる。/同様の自覚は、もちろん、文章を書く側にも求められる。ある具体例を根拠とする場合、その具体例から引き出せる以上の一般的な結論は真であることを保証されない。このことを、文章を書く者は常に自覚する必要がある。我々は、日常生活において一部商品の値上がりを見て物価全体の上昇という結論を導くように、特称判断(主語の一部についてのみ当てはまる判断)として語るべきことを、しばしば全称判断(主語の全体に当てはまる判断)として語っている。≫(同上 一五一~二頁)

 

ブログの書き方について反省する良い機会になりました。この文章を読んだことが、この本に出会った仕合せを最初に感じる出来事になりました。

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