尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

赤木春之「戦車の重要性」(1)戦車前史

2017-02-24 11:32:22 | 

 前回(2/17)は、園田晟之助大佐の講演「軍機械化の急務」を紹介しました。そこでは、国家総力戦と化した近代の戦争において、国民は「軍の機械化時代」をどう迎えるべきかとテーマに、昭和十四(一九三九)年一月十一日、東京日比谷公会堂でも催された「戦車大講演会」での一幕です。講演は陸軍省兵器局機械課長という立場からなされたもので、整理すると「科学と精神」の二つの力を養えということでした。

 前にも書きましたが、前年昭和十三年五月十七日の西住戦車長の戦死からおよそ七ヵ月後、部隊長細見大佐による十二月二十六日の全国ラジオ放送「軍神西住大尉」まで、この間七~八月の張鼓峯事件におけるソ連機械化軍団との軍事衝突を挟んで、年が明けて矢継ぎ早に開催された「戦車大展覧会」(朝日新聞社主催陸軍省後援 一月八~十五日 靖国神社)、この展覧会に合せて戦車百五十台が銀座街を通る「戦車大行進」(一・八)、そして「戦車大講演会」(一・十一)と、新聞社と陸軍が一体となった戦車関係の啓蒙が続きます。

 その後、この昭和十四年は軍神西住戦車長関係の出版が続きます。久米元一『昭和の軍神 西住戦車長』(五月)、講談社の絵本『軍神西住大尉』(久米元一文・伊藤幾久造絵 五月)、富田常雄『軍神西住戦車長』(六月)などの児童・幼児向けの出版。大人向けでは菊池寛『昭和の軍神 西住戦車長伝』(九月)などが続きますが、今回紹介する一書は、同じく大人向けの赤木春之『戦車の華軍神西住大尉』(天松堂書店 昭和十四年二月十五日発行)です。一連の戦車関係の催し物から一ヵ月後の発行です。当時としては驚くほど早いと思います。というよりか、前もって準備していたと思われます。この本には著者の短篇「戦車の重要性」が収録されています。今回はこれを紹介します。なぜ戦車が必要とされてきたのか、さらに戦車をどう実践に活かすか、など分かりやすい文章です。原文は総ルビですが、必要と思われる箇所にのみつけ、漢字や仮名遣いは現代ふうに変えてあります。〔 〕内は引用者による注です。

 

≪欧州大戦に列強を相手に、独逸(ドイツ)が、各地で縦横無尽の健闘をやりぬいたが、結果としては、──勝って敗けた──次第であった.が、これはカイザー〔ドイツ皇帝〕が、独逸の科学陣が、世界を相手にしても、不屈尖鋭なものであることを信じたからであった。

実際、近代戦は、自国の科学能力にあるといっても過言ではないのである。

今度の支那事変でも、外面的に最も重要な役割を演じているのは、戦車と飛行機と火砲との立体トリオである。

中でも戦車の威力は隠れているが実にめざましい、すさまじいものだ。

欧州大戦は、歩兵の強襲によって敵陣を突破するという所謂(イワユル)強襲観念をもって開始されたが、双方とも堅固なる塹壕(ザンゴウ)を構築するに及んでこの戦術は脆(モロ)くも失敗した。

その結果大砲兵戦術思想に変化した。──重砲、野砲等凡(アラ)ゆる巨砲をもって攻撃して敵陣を破砕して打撃を与え、そのあとから歩兵は前進した。然しなおその際どうしても機関銃だけは破砕し得られずに残るため、如何(イカン)とも突撃出来ず、如何(イカ)に無限に砲弾を送っても効なく、再び歩兵思想に還元し歩兵砲の出現となったがこれも空しかった。

こうした苦悶の結果現れたのがイーブル戦場における化学奇襲、即ち毒ガス戦術であった。

然しこれも大砲や重砲弾の被害に比し、僅か二十分の一の効果しか収められず、防護法を施されて深い処に徹底せず遂に、失敗に終ったのである。

かくて戦術は行き詰まってしまった。

ここに打開をすべく生まれたのが戦車であった。

西方戦場カンブレー会戦において数百台の戦車が同盟軍陣を蹂躙(ジュウリン)し、ヒンテンブルク(将軍)をして「その日はドイツにとって暗黒の日であった」と嘆息を洩らさせたほどだった。

従ってこの事実から、戦車さえあれば歩兵力は十分の一で同じ戦果が収められることが明らかになった。

更に戦車を分けず一キロに十台も二十台も密集せしめ大戦車部隊を結成して歩兵を追随せしめる戦術に一変した。また敵陣の障碍物を破壊するにしても、大砲ならば鉄条網二間を破壊するのに距離二千メートルをもって二・三百の砲弾をうちこまねばならないのに、戦車ならば一度無限軌道〔キャタピラ〕をもって蹂躙すれば足るので、幾ら経済的であるかわからない。この強力なる破壊力と経済的な二大武力を有(アリ)つ新兵器戦車をもって武力戦を解決しようとしているうち休戦となった。

しかし如何に戦車を重視するに至ったかは、列強のつくった戦車の数でも明らかである。仏軍三千五百、英軍千五百、さらに米軍は二万一千台をつくる計画を持っていた。

のみならず大戦が続行すれば、連合軍は西方戦場において三万輌の戦車を以て強襲せんと計画していたとのことであった。

休戦と共に各国共鋭意これが発達を志し飛行機と共に目覚しき進歩を遂ぐるに至った。同時に単に攻撃力のみならず大戦中に起った機械化、自動車化或は装甲化がこれと平行して戦車の発達を助けた。

即ち軍隊の機械力を増進せしむるため凡(あら)ゆるものを運搬するに、徒歩では間に合わぬ。輓馬(ばんば)、駄馬を以てしては軍需品輸送にもことを欠くところより絶対に自動車化の必要となり、ここに機械化は絶対不可欠の条件として、空軍と共にこれが充実に各国とも全力をあげて傾注してきたのである。≫(赤木春之・前掲書 一六一~四頁)(この引用は次回に続く)

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