尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

天保四年(一八三三)巳年のけかち(飢渇)

2016-10-13 11:07:02 | 

 前回(10/6)は、青木美智男「天保一揆論」(『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九)で、天保前半期における一揆・打ちこわしが、全国化するわけ(意味)をたしかめ、その展開的記述を読むための覚書を書いてみました。おそらく、この全国化する記述の中に、この期の「歴史的段階」について認識を深めるための残る二つの視点(②在方町・宿場町・港町に集中していること、③領主の飢饉対策や殖産政策などの諸政策と深いかかわりがあること)が実現されていると思われます。さっそく著者の記述を読んでいきます。今回は、蜂起の発端となった天保四年の「巳年のけかち(飢渇)」と呼ばれる羽州(出羽国=山形・秋田両県)における村山郡における大凶作についてです。

 

≪これまで述べてきた村落・都市の変質が、ますます深刻化しようとしているなかで、諸藩は、依然、「困窮なるがゆえに米穀其外諸産物を他国へ送り出す」(『世事見聞録』)、いわゆる「国益」政策を押し進めていたし、地域的市場の形成をみた諸地域では、労働力の販売に大きく依存し「買い喰い」をしなければならない貧しい百姓が激増し、都市でもまた村落から流入する貧民層の割合が増大し、かれらもまたその食糧の大部分を購入しなければならない状況を生み出していた。この結果、特産物地帯のなかには、たとえば、羽州村山郡の紅花生産地帯のように、平年でさえ「夫食(フジキ)払底の土地柄に付き、最寄の村々より買足し致し相続候」(『山形市史編集資料』四)食糧事情の村々が生まれることになる。しかも、奥羽・北関東地方は、関東以西が「お蔭参り」に浮かれている文政の末年、すでに慢性的な凶作に見舞われていたので、毎年のように米不足に悩まされ始めていた。村山地方では、「天明三卯年の他前後不覚之値段」といわれるほどの米価高騰を招いたため、「買い食の者夫食に差支え候えども、元より根米(備蓄)これなき故、売出し米一向にこれなくば、三度の食事にも事欠き」(同)といわれた貧しい百姓たちによって即座に、安い米価維持のたたかいが組織されるほどの状況に立ちいたっていた。

 これに対し、天明飢饉以来設けられていた各領村役人代表の執行機関「郡中議定」が、郡外への米穀移出差留めや、廻米削減を領主層へ求めて一応米価を維持してきたが、それでも無理な場合は、廻米を江戸蔵前で「買米」してでも、郡内の「米穀確保」に奔走しなければならないほどの状態に立ちいたっていた。各地の特産物地帯などでも、右のような状況ほど極端ではないにせよ、多かれ少なかれ似たような問題をかかえていた。そして、この動きは、まもなく江戸・大坂をはじめとする多くの都市の食糧問題にはねかえり、とくに米穀移入量の減少が米騰となってあらわれることになった。≫(前掲書 二三三~四頁)

 

 ここでいったん切ります。上の引用では、「巳年のけかち」以前から全国の諸藩では、「米穀其外諸産物」を売って藩収入を確保していたし、百姓は自分らの食糧を購入しなければならなかったし、都市部でも町民はもちろん収入を求めて流入してくる百姓もその食糧を購入するしかなかった。すなわちどこでも食糧(米)は購入するしかない状況にあった。こんなときに凶作となれば結果は目に見えています。自分らの命を繋げる食糧が手に入らない事態が出現し、「安い米価維持のたたかいが組織されるほどの状況」に立ちいたっていたのです。また「郡中議定」は、領主に対して「郡外への米穀移出差留め」や「廻米削減」を求めてゆきます。これが無理なら、今度は江戸まで出かけて「廻米」を購入して郡内の米穀を確保しなければならなくなります。 

 

 天保四年(一八三三)の、世に有名な「巳年のけかち」といわれる大凶作は、深刻な矛盾を一挙に露呈することになった。それは、極度の財政難におちいっていた諸藩が、大凶作によって飢えに苦しむ領内の貧しい百姓や貧民層を即座に救済しうる財政力を保持していなかったことによるのだが、どちらかというと、藩財政を支えてきた城下の特権商人や村方の地主・豪農に生まれていた、米の買い占めや売り惜しみによる米価のつり上げ、他領への搬出による利潤追求の野望を抑える能力を失い、逆にかれらに便乗して差益を得、窮乏する財政を補充する藩さえ存在したので、凶作の報が伝わるや、米価は異常な値上がりをみせ始めた。

 この結果、すでに長年の凶作で苦しんでいた前述の羽州村山地方では、即座に困苦のどん底に突き落とされる者があらわれた。そして七月には、天童周辺の米穀商いを兼ねた豪農たちへ、数か村の貧しい百姓たちが打ちこわしに立ち上がったのをはじめとして、経済的発展によって、いちじるしく階層分解をみた商品生産地帯や、分解のしわ寄せで貧民層の人口流入をみた宿場や在町、そして、特産物生産による利益が「国益」の名の元に収奪され、結局は困苦のどん底に突き落とされていた長州藩と類似の諸藩の人民が、全国でほぼ同時に続々と米価の安値売りを求めてたたかいに立ち上がった。それは、困窮の元凶であり、食糧の買い占め売り惜しみ策動しているとみられた特権的豪農・豪商への打ちこわしと、殖産政策の転換を求めて産物会所を襲撃し、関連する諸帳簿類を破棄する行動を伴うもので、ときには「世直し」をスローガンにする一揆も組織されるにいたった。≫(前掲書 二三三~五頁)

 

 上の引用では、天保四年の大凶作になると、藩は領民を即座に救済する能力が欠けていたことがはっきりしますが、問題なのは米価高騰に拍車をかける特権商人や村方の地主・豪農が、米の買い占め売り惜しみなどによる米価のつり上げや他国への搬出で儲けようとする動きを抑える能力を失っていたことです。こうなると、もうどん底です。だれも助けてくれる人々が存在しません。最後の段落には打ちこわしに至るまでが描かれています。ここで、打ちこわしの頻発地帯に在方町、宿場町、港町が挙げられていたことを思いだすと、これらの町が困窮した百姓が流入してくるばかりでなく、米穀流通の結節点だったことがわかります。いいかえれば、在方町、宿場町、港町こそ食糧騒擾(米騒動)の発生地だったのです。しかし、以上のような理論的な把握だけではなく、「天保四年巳年のけかち」における実態をもっと知りたいものです。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ハナシの発生を説く 歴史的... | トップ | 少年兵への憧れ 三つの動機 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。