尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

藤村 作が論じる英語教育の価値

2017-02-18 11:28:08 | 

 前回(2/11)は、藤村作の「中学英語科全廃論」(一九三八)の冒頭で終ってしまい、著者の紹介もしませんでした。今回はまずここからです。藤村 作(ふじむら・つくる:1875~1953)は、『デジタル版日本人名大辞典+plus』によると、≪明治~昭和時代の国文学者。明治8年5月6日生まれ。七高、広島高師の教授などをへて、大正11年母校東京帝大の教授となる。のち東洋大学長。近世文学を学問の対象としてとりあげた先駆者。「日本文学大辞典」を編集。国語教育学会会長、日本文学協会会長。昭和28年12月1日死去。78歳。福岡県出身。著作に「上方文学と江戸文学」「訳註西鶴全集」。≫という人物です。「近世文学を学問の対象としてとりあげた先駆者」という評価が書いてありますから、彼の「中学英語科全廃論」(一九三八)は、国文学サイドから見た英語教育論なのだな、という予想がたちます。

 また前回引用の最後に英語科同様、数学科も教育制度改革のための教科目検討の対象に含まれていたことに驚きます。驚いたのはこれも時間数短縮や廃止の議論の対象に含まれているのではと思ったからですが、そうではないはずだと棚上げして、藤村の文章の続きを読んで行きましょう。彼の文章は論理的かつ煽動的です。そのあたりを意識して引用してみましょう。藤村作は、英語の教育価値はその実用価値と教養価値によって決まり、すべての教科目の存置(そんち:残すか廃するか)と時間数は、両価値の秤量によって決定できると書いたあと、それぞれについて論じてゆきます。(漢字と仮名遣いは現代ふうに改めてあります。)

  

≪まずその実用価値に就いて考えよう。国民普通教育に於ける教科目の実用価値は、国民としての実際生活に於て必要とされる程度に依って定められる。国語科の如きすべての国民が一日もそれを用いずしては、国民としての実際生活が成立し難い国語を取扱うものと、仏語科(仮にこれが教科目となるとして)の如き、現在国民の大多数が、国民生活上必要としていない仏語を教えるものと比較すれば、頗る明瞭なことである。国語科がすべての国民普通学校の教科目として採用されているのに、仏語科が僅々一二の中等学校の教科目たるに過ぎないのは、誰しもこれを当然とするであろう。この立場に於て英語科の実用価値を考えれば、中等学校を以て学校教育を卒(オ)えて実務に就くものの十中九分九厘までは卒業後英語をその実際生活の上に役立てているものはないのである。これを実際に役立てているものは、官署、図書館、会社に於ける英文タイピストたる女であるとか、印刷所に於ける英文の選文、植字、校正に従事するものとか、外国書肆(ショシ:書店)に勤務する店員とか、その範囲はきわめて狭小であるであろう。かかる少数者の為に他の大多数者を犠牲にして、多数の時間を英語科に費すことの不合理なことは恐らく異論を容るるの余地はない筈である。≫(川澄哲夫編『英語教育論争史』五三一~二頁)

 

 もうお気づきだと思いますが、藤村の論じ方です。我が国における国民生活上の実用価値がずっと低いとわかる仏語の例をもってきて英語も同じだ結論づける論法です。これは英語が日本人にとって独自な大きな存在だったという議論を完全に無視しています。無理な比較をしているわけです。しかし自分がやっておきながら、今度はこの正しくない比較をしているのは英語必要論者だといって批判するのです。漢文科との比較です。英語科には教養価値があるゆえに必要だと論じるやりかたと、漢文科には道徳価値があるゆえ必要だと論じるやり方は似ている。だが教養価値と道徳価値を混同してはいけないと、書いています。

 

≪抑々(ソモソモ)英語科の教養価値を定むるには、その教科用書の内容を検討して見なければならないが、ここにそれを詳述することは出来ない。併(シカ)し教科用書に多くの国民の教養価値ある内容が含まれていることがわかっても、それが直ちに英語科の教科目としての価値とはならない。その内容の性質次第では、これを国文に記しても同様の価値を持ち得るものは、これを国文で教授する方が国民教育の上では順当のことであるから、そういう性質の内容はこれを除外して考えるのが正しい。そこで英語科の教養価値を定むる為にする教科書の内容検討は、わが国語では表すことの出来ない、英語の形を透さねばどうしてもわかり難い内容のみを取り出してしなければならない。そうすれば、英国民性の具現たる英語そのものの持つ特長、及び高級な英文学の持つ感じ、においは、到底他国語に移すことの出来ないものであるから、それだけを取り出して見て、それが果してどれだけの、我が国民教育上に教養価値を持つかを検討することが本当に英語科の教養価値を決定する道である。この点に於いて従来英語科必要論者は、恰(アタカ)も漢文科の必要を唱える漢学者と同様の誤謬に陥っていたと思う。英語教科書中に多くの教養価値を含んでいるから、英語科が教科目として必要だというのは、漢学者が教科書たる漢籍は国民道徳を養うに足る価値あるものであるから、漢文科が教科目として必要であるというのと甚だ相近い。同じ内容ならば外国語を透して学ぶよりは、自国語に依って学ぶ方が、遥かに容易でもあり、又国民教育に於ては自然である。余はここに外国語、外国文の教科目としての価値を論じて、その教養価値を考える人は、必ずこの混同をしないように注意することを重ねて勧告しておく。

 英語科の持つ教養価値を右の如く限定して見れば、英語という言語から、英国民の特殊なる国民性、国民精神を知ることは、我が国民に取って無用ことでは勿論ない。また英文学から我々日本人の精神内容を豊富にし、高尚ならしむべき幾多のものの得らるべきことも論はないが、さてそれを収得し得る為には相当の語学力を必要とする。この語学力は中学校の五年間の勉強では、到底望めない。現に中学を出てもそれを実際に役立て得ていないのでもよくわかる。こういう不充分な語学力で英語の語感まで透して、細かに英文学の精神を把握するということが、中学生又はその卒業者に望まれることであろうか。思想感情の大体を理解することは、必ずしも原語に依らないでも済む。それを飜訳し、書き替えた自国語でも出来るということは、我々が昔から漢文を漢語として読まず、訓読して理解して来た経験の上でもよくわかる。我々日本人は多年訓読に依って支那思想、印度思想を十分に吸収して来ているのである。現今我が日本人の大多数の要求する英国精神の理解はこの程度のものでよいのではあるまいか。よく細かに知るに越したことはないが、そういうことは、学者、外交官、その他特殊な少数者のこととしても、我が国家の損失はない筈である。それよりはこういう少数者の便宜の為に、他の大多数の学生に、多くの時間と、大きな労力を空費せしめている損失の方が大きいのである。≫(同前 五三三頁)

 

 たしかの英語の教養価値は学ぶ必要・意義があるが、原語でなければ学ぶことが出来ないものに限って検討されるべきだ。こう大向うを肯かせておいて、そのようなことは漢文を訳読(日本語化)して理解してきた我々の従来のやりかたにならえば、英語も飜訳(日本語化)でわかる程度で十分ではないか。どうしても原語で英語の教養価値を学ばせたいというなら、それも結構。ただし中等学校レベルでは無理でしょう。ならば、中等教育の英語科は廃止していいのではないか、じゃなくて廃止すべきだと、オトシどころを予め用意している論法といえます。要するに、少数の便宜のために大多数に多くの時間と労力を空費させるのは改善すべきだという結論にもっていきたいのです。