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2017-07-29 14:38:37 | 日記
安倍晋三
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日本の旗 日本の政治家
安倍 晋三
あべ しんぞう
Shinzō Abe April 2015.jpg
2015年4月撮影
生年月日 1954年9月21日(62歳)
出生地 日本の旗 日本 東京都新宿区
出身校 成蹊大学法学部政治学科卒業
南カリフォルニア大学政治学中退
前職 神戸製鋼所従業員
安倍晋太郎(実父)秘書
所属政党 自由民主党(細田派)
称号 政治学士(成蹊大学・1977年)
配偶者 安倍昭恵
親族 佐藤信寛(五世祖父)
佐藤信彦(高祖父)
佐藤秀助(曾祖父)
安倍慎太郎(曾祖伯父)
安倍寛(祖父)
岸信介(祖父)
佐藤榮作(大叔父)
安倍晋太郎(父)
安倍寛信(兄)
岸信夫(弟)
公式サイト 衆議院議員 安倍晋三 公式サイト
日本の旗 第96-97代 内閣総理大臣
内閣 第2次安倍内閣
第2次安倍改造内閣
第3次安倍内閣
第3次安倍第1次改造内閣
第3次安倍第2次改造内閣
在任期間 2012年12月26日 -
天皇 今上天皇(明仁)
日本の旗 第90代 内閣総理大臣
内閣 第1次安倍内閣
第1次安倍改造内閣
在任期間 2006年9月26日 - 2007年9月26日
天皇 今上天皇(明仁)
日本の旗 第72代 内閣官房長官
内閣 第3次小泉改造内閣
在任期間 2005年10月31日 - 2006年9月26日
日本の旗 衆議院議員
選挙区 (旧山口1区→)
山口4区
当選回数 8回
在任期間 1993年7月19日 - 現職
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安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年(昭和29年)9月21日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8期)、第96・97代内閣総理大臣(再登板)、第25代自由民主党総裁(同)。

内閣官房副長官、内閣官房長官、内閣総理大臣(第90代)、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第21代)を歴任。

目次

1 概要
2 来歴
2.1 政界入りまで
2.1.1 生い立ち
2.1.2 学生時代
2.1.3 会社員時代
2.2 政界入り
2.2.1 秘書時代
2.2.2 衆議院議員
2.2.3 内閣官房副長官
2.2.4 自民党幹事長
2.2.5 内閣官房長官
2.3 最初の内閣総理大臣就任
2.3.1 第1次安倍内閣
2.3.2 参議院議員選挙(2007年)での敗北
2.3.3 体調の悪化と総辞職
2.3.3.1 突然の辞任への反応
2.3.3.2 辞任の原因
2.4 内閣総理大臣退任後
2.4.1 体調回復と活動の再開
2.4.2 2度目の総裁就任
2.5 内閣総理大臣に再就任
2.5.1 TPP問題
2.5.2 労働市場の構造改革(日本版「ワッセナー合意」)
2.5.3 日台漁業交渉問題
2.5.4 参議院議員選挙(2013年)での勝利
2.5.5 2020年東京オリンピック招致
2.5.6 特定秘密の保護に関する法律
2.5.7 普天間基地移設問題
2.5.8 消費税増税
2.5.9 参議院議員選挙(2016年)での勝利
2.5.10 東京都議会議員選挙(2017年)での敗北
3 政権・政策
3.1 皇室
3.2 国家観
3.3 地方自治
3.4 外国人政策
3.5 憲法
3.6 外交
3.7 安全保障
3.8 尖閣諸島問題
3.9 教育
3.10 民法論議・家族制度
3.10.1 夫婦同姓規定
3.10.2 離婚後300日規定
3.10.3 婚外子規定
3.10.4 性的少数者対策
3.11 公務員改革
3.12 労働政策
3.13 治安政策
3.14 社会保障
3.15 経済政策
3.15.1 原発政策
3.16 財政再建
4 歴史観
4.1 安倍談話
4.2 村山談話
4.3 慰安婦問題
4.3.1 河野談話
4.3.2 日米首脳会談での言及
4.3.3 日韓合意
4.4 靖国神社参拝
4.4.1 首相在任中の靖国神社初参拝
4.4.2 世論調査・ネット調査
4.4.3 批判
5 エピソード
5.1 政治資金
5.2 後援会事務所等への被害
5.3 災害への対応について
5.4 福島第一原発事故
5.5 都議選における公職選挙法違反容疑
6 発言
6.1 マスコミ報道への反論
7 人物
7.1 人物像
7.2 関係団体
7.3 交流関係
7.4 家族・親族
7.5 系譜
8 略歴
9 受賞・栄典
10 著作
11 出演
11.1 TV
11.2 ラジオ
12 所属団体
13 脚注
13.1 注釈
13.2 出典
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク

概要

成蹊大学を卒業後に米国留学、その後に神戸製鋼所社員、外務大臣秘書官を経て衆議院議員となる。内閣官房副長官、自由民主党幹事長(第37代)、同幹事長代理、内閣官房長官(第72代)などを歴任。2006年(平成18年)9月26日に戦後最年少の52歳で自由民主党総裁(第21代)、内閣総理大臣(第90代)に就任するも、2007年(平成19年)に第21回参議院議員通常選挙での敗北と、体調の悪化を理由に同職を退任。2012年(平成24年)9月、自由民主党総裁に就任、同年12月26日に内閣総理大臣に就任した(他の内閣をまたいで再度就任した事例は、1948年(昭和23年)の吉田茂以来64年ぶり)。
来歴
政界入りまで
生い立ち

1954年(昭和29年)9月21日、当時毎日新聞記者だった安倍晋太郎と、その妻・洋子の次男として東京都で生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)である。父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相・岸信介で、大叔父にはやはり後の首相・佐藤栄作がいる、政治家一族であり、安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している[1]。幼い頃は野球選手やテレビを見て刑事になることに憧れていた[2]。
「自由民主党#閨閥」も参照
学生時代

成蹊小学校、成蹊中学校、成蹊高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業した。

小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間は平沢勝栄が家庭教師についていた[1][3]。高校ではクラブは地理研究部に所属[4]。高校卒業後成蹊大学に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーだった[5]。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという[4]。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った[6]。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され留学した[7]。
会社員時代

1979年(昭和54年)4月に帰国し、神戸製鋼に入社。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した[1]。加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点[8]」、あるいは「私の原点[9]」だったと回顧している。
政界入り
秘書時代

神戸製鋼に3年間勤務した後、1982年(昭和57年)から当時外務大臣に就任していた父・晋太郎の下で秘書官を務める[10]。1987年(昭和62年)6月9日、当時森永製菓社長だった松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と新高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた。媒酌人は福田赳夫夫妻が務めた[11]。

1987年、参議院議員・江島淳の死去に伴う補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長・二木秀夫が出馬を表明したことから晋太郎に断念するよう説得され立候補を見送った[12]。
衆議院議員

1991年(平成3年)に総裁候補の最有力と目されていた父・晋太郎が急死。1993年(平成5年)に父の地盤を受け継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選。当選後はかつて父・晋太郎が会長を務めた清和政策研究会に所属する(当時の会長は三塚博)[要出典]。1994年、羽田内閣施政下、社会党の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加[13]。首班指名選挙では村山富市に投票し自社さ連立政権・村山内閣樹立に貢献[13]。1995年(平成7年)の自民党総裁選では小泉純一郎の推薦人の一人になった。[14]
内閣官房副長官
アメリカ合衆国国務副長官ロバート・ゼーリックと握手を交わす(2006年1月)

派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年(平成12年)の第2次森内閣で、小泉純一郎の推薦を受け[15]、政務担当の内閣官房副長官に就任。第1次小泉内閣でも再任した。

2002年(平成14年)、水野賢一が外務大臣政務官在任中に台湾訪問拒否され同辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を繰り返し主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した(この拉致問題への対応により、内閣官房長官だった福田康夫との関係に亀裂が入ったといわれる)[15]。西岡力は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている[16]。

また、北朝鮮対策として通信傍受法の要件緩和・対象拡大を主張した[17]。
自民党幹事長

2003年(平成15年)9月、小泉によって、閣僚未経験者ながら自民党幹事長に抜擢された。事前には筆頭副幹事長もしくは外務大臣への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。同年の総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党の単独過半数はならなかった。

幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年(平成16年)4月の埼玉8区補欠選挙では、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格した柴山昌彦が当選)。

同年夏の参議院選挙では目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長・武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。
内閣官房長官
大相撲九月場所表彰式に出席(2006年9月24日、両国国技館)
「麻垣康三」も参照

2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣で内閣官房長官として初入閣。2006年9月1日に総裁選への出馬を表明。憲法改正や教育改革、庶民増税を極力控えた財政健全化、小泉政権の聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を

2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣で内閣官房長官として初入閣。2006年9月1日に総裁選への出馬を表明。憲法改正や教育改革、庶民増税を極力控えた財政健全化、小泉政権の聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を示す。
最初の内閣総理大臣就任
「第1次安倍内閣」、「第1次安倍内閣 (改造)」、「2006年の政治」、および「2007年の政治」も参照

2006年9月20日、小泉の任期満了に伴う総裁選で麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名される。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。
第1次安倍内閣
2006年のAPECにて

就任表明では、冒頭に小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示し[注 1]、国家像として「美しい国」を提示した。

安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に就任後の初外遊先となった中国・北京で胡錦濤国家主席と会談、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。

北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、対北強硬派のジョン・ボルトンらと連携して国連の対北制裁決議である国際連合安全保障理事会決議1718を可決させ、個別でより厳しい経済制裁措置も実施した。

同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言える郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が肝煎りで任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、佐田玄一郎内閣府特命担当大臣(規制改革担当)兼国・地方行政改革担当大臣が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。この後、閣内でスキャンダルが続いた。
ハイリゲンダム・サミットで各国首脳らと
記者会見時にアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと握手を交わす安倍(2007年4月27日)

2007年3月、安倍の北朝鮮による日本人拉致問題に対する非難と従軍慰安婦問題への謝罪に消極的であることが「二枚舌」とワシントンポストに批判された[19]が、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。参議院沖縄県選挙区補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補の島尻安伊子の応援演説を行うなどのバックアップおこなった(島尻は当選し、その後自民党に入党)。

5月28日、以前から様々な疑惑のあった松岡利勝農水大臣が議員宿舎内で、首を吊って自殺[注 2]。

こうした中、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアで大きく報じられた。同月6日 - 8日には首相就任後初のサミットであるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。7月3日には久間章生防衛大臣の原爆投下を巡る「しょうがない」発言が問題化。安倍は当初続投を支持していたが、批判の高まりを受け久間に厳重注意を行った。久間は直後に辞任し、後任には小池百合子が就任した。
参議院議員選挙(2007年)での敗北
詳細は「第21回参議院議員通常選挙」を参照

2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙へ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの事務所費問題が発覚。選挙中に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。同年の参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」[22]と楽観視していたとも言われるが、結果は37議席と連立を組む公明党の9議席を合わせても過半数を下回る大敗であった。これまで自民党が強固に議席を守ってきた、東北地方や四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。
体調の悪化と総辞職

参院選直後の7月31日の自民党総務会において、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(安倍おろし)[23]。 同日、アメリカ下院では慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と自民党内からも批判された[24]。

広島平和記念式典に行く前日の8月5日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになる[25]。そして、8月19日から8月25日のインドネシア・インド・マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた[22]。しかし、慶應義塾大学病院の主治医によると、(17歳のときに発症したという)潰瘍性大腸炎の血液反応はなく、機能性胃腸障害という検査結果であったという[26]。
アジア太平洋経済協力首脳会議にて、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと握手を交わす安倍(2007年9月8日)

選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(第1次安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。9月9日、オーストラリア・シドニーで開催された APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良により APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した[27]。

2007年9月10日に第168回国会が開催され、安倍は所信表明演説の中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。[注 3]

2007年9月12日午後2時(JST)、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行った[29]。また、理由についてはテロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした[30]。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。

退陣表明の翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に緊急入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。

安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とのメッセージの下、これをもって最終号を迎えた[31]。

なお、病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした。[注 4]9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった[32][出典無効]。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた[33][出典無効]。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた[34][出典無効][注 5]

9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した[35][出典無効]。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた[36][出典無効]。

9月25日、安倍内閣最後の閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での首班指名選挙にも出席した。安倍内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相の親任式に出席し正式に辞職、その後、再び病院へと戻った。なお、第1次安倍内閣の在職日数は1年余りとなる366日であった。第1次安倍改造内閣は31日の短命に終わった。
突然の辞任への反応

小川栄太郎によると、多くの国会議員は、記者から安倍が退陣表明をすると聞かされた。亀井静香が記者に向かって「えっ嘘でしょ。これから代表質問だよ。何かの間違いでしょう」と驚く映像は、繰り返し放送されたという[26]。

安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。一方、自身の健康への不安のためとする理由も、与謝野馨(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。

もともと胃腸に持病を抱えており[37]、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でも持病に触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している[38]。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしている[39]。

臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した[40][41]。与党側でも驚き[42]や批判[43]の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た[44]。

9月13日に朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している[45]。

安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(アメリカCNN)などと報じた。欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった[46]。
辞任の原因

「腹痛辞任」「不祥事続きでストレスによる腹痛で辞めた」「子供みたい、お腹痛くなっちゃって辞めたって」などと腹痛を理由に総理の座を投げ出したとして、様々なメディアで批判が相次いだ [47]。

2007年当時の医師の診断ではカルテ上は「腸炎、または急性腸炎」で一般に言う「腹痛」であったが、実際には、当時は一部の医師にしか理解がなかった「潰瘍性大腸炎」の症状悪化による辞任であった[48]。またその後に潰瘍性大腸炎は難病指定もされている。

潰瘍性大腸炎の病状
小川栄太郎によると、安倍は17歳のときに潰瘍性大腸炎を発症した[26]。自民党国体副委員長となり、食事ができずに三ヶ月入院して点滴の日々で体重激減した頃が、最も症状が重かった[26]。このとき、「癌でこの先長くない」という噂も流れる[26]。妻の昭恵をはじめ、病名を公表すべきとの意見もあった[26]が、安倍は、官房副長官時代の2000年に症状が出て以降は、幹事長・官房長官などの激務にも体調は万全だったため、2007年8月の段階までは病気を克服できたと判断していた[26]。

麻生・与謝野クーデター説
安倍の辞任において、幹事長の麻生太郎と官房長官の与謝野が安倍を辞任表明に追い込んだとする「麻生・与謝野クーデター説」が自民党の新人議員の一部によってメディアを通じて広められた。
また、遠藤武彦農相に不正な補助金疑惑が発覚した際、遠藤の辞任の流れを与謝野馨内閣官房長官と麻生幹事長の2人だけで決めて安倍を排除したことから、安倍が「麻生さんに騙された」と発言したと言われる[49]。
この「麻生・与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した[50][出典無効][51][出典無効]。

内閣総理大臣退任後
在日本アメリカ合衆国臨時代理大使ジェームス・ズムワルト(右から1人目)と安倍(右から2人目)(2009年6月20日、東京都内)
創生「日本」の演説にて(2010年6月、池袋駅)
体調回復と活動の再開

その後、入院していた慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った[52]。

11月13日に新テロ特措法案の採決を行う衆議院本会議に出席し、賛成票を投じた後、福田康夫首相や公明党の太田昭宏代表へ体調が回復したことを伝えた[53]。

2007年末、『産経新聞』のインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」[54]と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」[54]と答えている。

2008年1月、『文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている[55][56]

2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した[57][出典無効]。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」[58]と語り、同懇話会の座長に就任した。3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」[59] と述べて所属議員に謝罪した。

第45回衆議院議員総選挙直後に行われた2009年自由民主党総裁選挙では、麻生太郎とともに、平沼赳夫の自民党への復党と総裁選挙への立候補を画策したが、平沼が難色を示したため実現せず、西村康稔を支援した[60]。

2010年4月義家弘介が初代塾長の信州維新塾開講式や6月(後に最高顧問に就任する)J-NSC自民党ネットサポーターズクラブ設立総会にゲスト参加。10月25日、インドのマンモハン・シン首相を来賓として迎えて開かれた日印友好議員連盟の会合で「(日印両国は)民主主義と法の統治を共有する同盟に近い関係だ」と述べた[61]。
2度目の総裁就任
2012年自由民主党総裁選挙 街頭演説会にて演説を行う安倍(2012年9月16日、長野県長野市)

2012年9月12日、谷垣総裁の任期満了に伴って行われる2012年自由民主党総裁選挙への出馬を表明。自らが所属する清和会の会長である町村信孝の出馬が既に取り沙汰されていたこともあり、前会長の森からは出馬について慎重な対応を求められていたものの、これを押し切る形での出馬となった。当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされた事や5年前の首相辞任の経緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった石破茂、党内重鎮からの支援を受けての出馬となった石原伸晃の後塵を拝していると見られていた。しかし、麻生派、高村派が早々と安倍支持を表明した事などが追い風となり、9月26日に行われた総裁選挙の1回目の投票で2位に食い込むと、決戦投票では、1回目の投票で1位となっていた石破を逆転。石破の89票に対し108票を得て、総裁に選出された[62]。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は1956年12月自由民主党総裁選挙以来となった[63]。
内閣総理大臣に再就任

2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、政権与党に復帰。同年12月26日、安倍が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田茂以来2人目である[注 6]。
「第46回衆議院議員総選挙」も参照

首相再登板後は、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示す。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、アベノミクスと称される。「アベノミクス」は2013年新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍が受賞した[64]。
2013年の訪米時(アメリカ合衆国ワシントン)
TPP問題

2012年11月14日の野田佳彦首相の解散表明により選挙の争点として浮上した環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)について、当初の自民党はASEANでのTPP参加表明に反対し、「聖域なき関税撤廃」を前提とした交渉参加には反対するとしていたが[65]、安倍は日本商工会議所会頭の岡村正との会談で交渉に含みをもたせ、「TPP推進に対して強い交渉力を発揮して頂けるという強い意気込みは感じたので心強く思う」と評価された[66]。この岡村とのやりとりについて、経団連会長の米倉弘昌も「いいことだ」[67]と歓迎している。しかし、その後の記者会見では「交渉参加に前向きというのはあくまでミスリードだと思います。」[68]と否定し、その結果として衆院選では160人超の候補者が、TPP交渉参加反対を訴える農協(JA)系の政治団体から推薦を受け当選した[69]。

しかし、農水大臣に農政になじみの薄い林芳正を起用し[70]、甘利明、麻生太郎など経済関係の主要閣僚にもTPP賛成派を配置[71]。さらに外交政策に関して助言を行う内閣官房参与には、日本はTPPに参加すべきとの発言をおこなっていた[72][73]谷内正太郎を起用した。また、TPP賛成派の岡素之や大田弘子をそれぞれ内閣府規制改革会議議長及び議長代理とし、さらに新設の日本経済再生本部に設置された産業競争力会議のメンバーにも日本維新の会と関係の深い[74]TPP賛成派の竹中平蔵[75]や、TPP早期実現要請を行なっていた三木谷浩史[76]を加えた。経済全般のマクロ政策を決める経済財政諮問会議の民間議員も全員TPP賛成派で、高橋進は構造改革派の論客として野田佳彦民主党政権の方針を力強く後押ししていた人物[77]。伊藤元重にいたっては「TPPに参加できないなら、農村部にある多くの工場は閉鎖を余儀なくされる」[78]というのが持論で、野田佳彦民主党政権の「社会保障制度改革国民会議」のメンバーでもあった[79][80]。

2013年2月23日、日米首脳会談後に共同声明を出した。それまでの関税に関する見解(カークUSTR代表と玄葉外務大臣との会談)は「物品関税の最終的な扱いについてはTPP交渉プロセスのなかで決まっていくもの」[81]であったが、今回の共同声明は「一方的に全ての関税を撤廃することをあらかじめ約束することを求められるものではないことを確認する」[82]との表現になった。この会談の結果、主要全メディアにおいてTPP賛成が増加し、共同通信63%[83]、FNN53%[84]、テレビ朝日51%[85]、日本経済新聞47%[86]などとなった。

2013年3月8日、日本政府が野田佳彦内閣当時の昨年3月の段階から『TPP交渉参加後発組に出された3条件』を把握していたにもかかわらず、国民に条件を告知することなく交渉参加を推進していたことが判明した[87]。安倍はこの問題に関して衆院予算委員会で答弁を拒否し、質問した日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長が「政府が交渉参加のルールを探って議会に説明するのは当然の責任だ」と批判した[88]。また岸田文雄外相は「少なくともわが国には、そうした条件の提示は全くない。引き続き情報収集に全力を挙げる」と答弁していたが、9日になって安倍は「ルールを作っていく上で、最初に入った人たちが後から入った人に議論を覆されたら困るというのは、それはそうだろうと思う」と述べた[89]。安倍政権はこの3条件を政権移行直後に把握したが公表はしていなかった[90]。

2013年3月14日、自民党のTPP対策委員会が「重要5品目等や国民皆保険制度などの聖域の確保を最優先」し、それが確保できないと判断した場合は「脱退も辞さない」とする決議をまとめた。ただ自民党執行部はこの決議に関して「彼らも地元に帰って反対してきたと言えるだろう」と慎重派のガス抜きであることを認めており、政府高官は今後の政府の交渉を縛らないと明言している[91]。

「交渉参加に前向きというのはあくまでミスリードだと思います。」との発言からちょうど120日目にあたる2013年3月15日、TPP交渉参加という形で決着が図られることとなった[92]。

2013年4月12日に決着したTPP交渉参加に向けた日米事前協議は大手各紙上でも『高い「入場料」』という言葉が飛び交い、米側に譲りに譲ったもの[93][94][95]となった。日本政府のTPP交渉担当者が「なんとしても7月中には交渉に加わりたいのだが……」とあせりの色を隠せない中での事前協議であり、交渉に入る前から通商条件で大幅な譲歩を迫られる可能性があった[96]が、現実のものとなった。焦点の自動車・保険分野では双方とも大幅譲歩であり、自動車分野では自動車関税について当面は乗用車・トラックの関税を維持した上、撤廃時期はTPPが認める範囲で最大限遅らせることで決着[97]、保険分野ではかんぽ生命のがん保険など新商品の申請を事実上凍結したため、投資家に訴える新規事業への参入が不可欠な2015年秋までの株式上場は計画の見直しが不可避[98]となり、政府が復興財源として期待していた日本郵政株式の売却収入4兆円が見通せなくなってしまった[99]。のみならず、非関税措置について9つの分野で日米間で継続協議[100]とされたため、1990年代に経験した日米構造協議、包括経済協議と同様に2国間の枠組みを使って日本に市場開放の圧力をかける構図が繰り返されることになった[101]。

2013年9月25日、ニューヨーク証券取引所で行った講演で、「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。世界の成長センターであるアジア太平洋。その中にあって、日本とアメリカは、自由、基本的人権、法の支配といった価値観を共有し、共に経済発展してきました。その両国が、TPPをつくるのは、歴史の必然です。」との見解を示した[102]。

2016年12月9日、参議院本会議で記名投票による採決を行い、TPP参加が決議された[103]。

しかし、2017年1月20日、第45代アメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプは、同日TPP離脱を表明した[104]。TPP発効条件が加盟12か国のGDPの85%以上を占める6か国以上の国内批准であり、アメリカのGDPは全加盟国の約60%を占めることから、TPP発効は困難となった。

日本政府はTPPに代わる域内経済協定を検討、2017年2月10日(米国時間)、安倍は初の日米首脳会談において、日米間の経済対話、これをさらにアジア太平洋地域に拡大する方向性を話し合った。訪米に同行した財務省関係者は、二国間自由貿易協定(FTA)に発展する可能性を否定しなかった[105]。

2017年3月1日の参議院予算委員会で、安倍は米国のTPP離脱に関し「日本の求心力を生かし、今後どのようなことができるかを米国以外の各国とも議論したい」と語った[106]。
労働市場の構造改革(日本版「ワッセナー合意」)
安倍晋三, 役所広司, トム・ハンクス, 三谷幸喜, ポール・グリーングラス於第26回東京国際映画祭

企業が賃上げを促進し、政府は賃上げ企業への優遇や失業者対策を進め、労働者は労働市場流動化に同意し失業増を受け入れるという日本版「ワッセナー合意」が構想されていることが明らかになった。ただし、オランダで起こったワッセナー合意は「労組は賃金の抑制」「政府は企業の社会保障負担を低減し労働者のための減税を実施」「経営者は仕事を分かち合い雇用を確保」という内容的には逆とも言えるものである[107]。

日本版「ワッセナー合意」は、むしろ第1次安倍内閣で提唱された労働ビッグバン(日本版オランダ革命)に近いものであり、日本維新の会のブレーンで小泉構造改革の中心人物であった産業競争力会議メンバー竹中平蔵の主張である「再就職支援金の支払いを条件に従業員の解雇を認めるといった解雇ルール」や「正規と非正規の中間的な雇用形態の導入」などが盛り込まれている。これについては、失業増を受け入れる労働組合はもちろん経済界も難色を示しているとされる[108][109]。竹中平蔵は第1次安倍内閣の際には、著書の中で「既得権益を失う労働組合や、保険や年金の負担増を嫌う財界の反対で頓挫した」と述べていた[110]。
「正規社員の解雇規制緩和論」も参照
日台漁業交渉問題
「日台漁業取り決め」も参照

2013年4月に台湾との間で尖閣諸島沖の漁業範囲に関する取り決めを行った。この協定は官邸の独断で成立が決定されたため、水産庁や外務省などと事前協議を行っていた地元の漁協は強く反発し、「いずれこの漁業範囲から日本船が締め出され中国船や台湾船しかいなくなる」、と強い懸念を出している[111][112]。実際に台湾漁船は当協定の成立が決定すると、協定の発行前から認められる予定の漁業範囲さえ超えた範囲で操業を開始した[113]。
参議院議員選挙(2013年)での勝利
「第23回参議院議員通常選挙」も参照

第1次安倍政権時に大敗を喫した第21回参議院議員通常選挙(前述)以降、参議院では政権与党が過半数を下回るねじれ国会が続いていた(2009年の第45回衆議院議員総選挙から2010年の第22回参議院議員通常選挙までの期間を除く)。2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙で、政権与党の自民・公明両党が合わせて過半数を超える議席を獲得し、「ねじれ」は解消した。
2020年東京オリンピック招致
「2020年東京オリンピック構想」も参照
リオ五輪の閉会式でスーパーマリオに扮して土管から登場する安倍晋三

2013年9月7日、ブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会において東京都が2020年夏季オリンピックの開催地に選ばれた。安倍は前年12月の首相就任以降、東京招致委員会の最高顧問として各国首脳との会談や国際会議の際に東京招致をアピールした。さらに、2013年3月に来日したIOC評価委員会との公式歓迎行事では演説を行い、歌を披露する場面も見られた。安倍は首相就任後、1964年東京オリンピックの開催が決定した当時の首相が祖父である岸信介であることを持ち合いに、自らがIOC総会に出席してプレゼンテーションを行う意欲を見せていた。これにより開催地決定の直前である9月5日と6日にロシアのサンクトペテルブルクで開催されたG20を途中で切り上げ、6日にブエノスアイレスに到着しIOC委員へ東京支持を呼びかけた[要出典]。

7日の総会では東京のプレゼンターの1人として演説を行い、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」と発言[114]。演説後の質疑応答では総会直前に明らかとなった福島第一原子力発電所の汚染水漏れ[115][116]に関する質問が出た。これに対し安倍は「結論から言うと、まったく問題ない。(ニュースの)ヘッドラインではなく事実をみてほしい。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」、「健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題ない。完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」と答え[117]、「子供たちの将来や日本にやってくるアスリートに対する責任を完全に果たしていく」と述べた。しかし、その後の汚染水漏れのニュースは後を絶たず[118]、安倍の発言が東電の公表している状況とも異なっているなど[119]、状況は統御されていない事実が明らかになった[120]。このことは国会でも追及されており、安倍は追及に対して「事態は掌握しているし、対応はしている、という意味でコントロールと発言した」と抗弁している[121]。

なお、9月19日に福島第一原子力発電所を視察した際、安倍は東電幹部に「0.3(平方キロ)は(どこか)」と尋ね、実際の範囲がどの程度か理解しないまま発言していた可能性があると共同通信に報じられた[122]。

ちなみに、開催決定後、文部科学大臣の下村博文を「東京オリンピック・パラリンピック担当大臣」に任命し、内閣官房に推進室を設置して各省庁との調整を行う組織を新設することを固めている。
特定秘密の保護に関する法律
2013年中旬から安全保障などの情報のうち「特に秘匿するが必要あるもの」を「特定秘密」と指定し、情報にアクセス出来る者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めた特定秘密保護法の検討を開始した。当法案には国内外で議論を呼び、報道各社が行った世論調査では廃案・見送りが多数を占めるものが大勢を占めたが[123][124][125][126][127][128][129]、一部賛成が反対を上回るものもあった[130]。法案は、2013年11月に衆議院で、12月に参議院で採決された[131]。衆議院では与党に加えみんなの党も賛成したが、参院では直前の与党議員の発言などを受け[132]全ての野党が賛成しなかった[133]。その後、安倍政権の支持率は急落した[134][135]。この法案に対しては国連が重大な懸念を表明し[136][137]、海外メディアからは「報道の自由及び民主主義の根本を脅かす悪法」[138]、「日本で内部告発者を弾圧する立法が成立した」[139]、「日本が報道の自由を制限」[140]などと報じられた。元アメリカ国防次官補のモートン・ハルペリンは「知る権利と秘密保護のバランスを定めた国際基準を逸脱している」と法案を批判した[141]。一方で、アメリカ合衆国国務省副報道官のハーフは記者会見で、日本で特定秘密保護法案が成立したことについて「情報の保護は同盟における協力関係で重要な役割があり、機密
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