徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

翔ぶが如く3

2017-01-04 17:45:13 | 日本文学散歩

 「翔ぶが如く」を読み終わりました。

 「日本の統治機構は、政府というべきなのか、それとも「官」といったほうが語感として本質に近いものなのか」

 司馬遼太郎が後書きのなかで書いている疑問が西南戦争とどのように関わりがあるのか、ということについて私なりに考えたことを書いてみたいと思います。
 
 司馬遼太郎が後書きで書いている「官」とは太政官のことです。明治新政府は幕府という統治機構の代わりに古代日本の太政官制度を再び立ち上げました。それまでの将軍に代わって天皇を中心とする統治機構を作り始めたのです。この機構が太政官です。藩籍奉還、廃藩置県、地租改正といった改革が行われていくなかで士族の特権は廃止され、農民は米に代わって現金で税金を納めることとなりました。全国に新政府の政策に対する不満が満ちあふれました。特に明治維新の戦いで血を流した士族の反発は強く、佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱といった反乱が頻発します。西南戦争はそういった士族の反乱の頂点に位置するものです。
 
 こんなはずではなかった、というのが大部分の士族の感情だったのでしょう。彼らは明治維新成就のために戦いましたが、その意味するところを全く知らされていなかった訳です。戦争に勝てば、当然の如く、それまでよりもいい生活が送れると単純に思っていただけなのかも知れません。しかし、現実は彼らの期待とは真逆の方向に進みました。それまで持っていた特権は無くなり、刀を持つことも出来なくなりました。さらに新政府の軍隊の中核となるのは士族ではなく、一般の庶民でした。新政府に騙された、というのが彼らの本心だったでしょう。そのような士族の期待を一身に集めたのが西郷隆盛です。西郷自身には新政府転覆といった考えは無かったようですが、時の勢いに押されて反乱軍の象徴として担ぎ上げられてしまいました。もっとも西郷が積極的に戦いを主導した訳ではありません。彼は何もしませんでした。というよりも全てを放擲して行く所まで行くしかないという態度に終始したのです。明治維新の時と比べると、とても同じ人間とは思えません。
 
 戦いは戦略というものを持たない薩摩軍の連戦連敗。西郷は城山で最期を遂げます。
 
 ここで、私の考えを述べます。大久保利通は新政府の権威付けのために、それまでの将軍に代えて天皇を利用しました。天皇を中心とする国家組織を作るために太政官制度の枠組みを使ったのですね。統治の機構自体は時代状況の変化に応じて変わっていきますが、天皇の権威を利用した国家の確立という目的は変わりません。廃藩置県、地租改正、さらには徴兵制などの施策はこのための手段でした。これらの施策に真っ向から反対したのが、士族階級でした。彼らは維新変革の象徴となっていた西郷を担ぎ上げて、反乱を起こしたのです。西南戦争自体は薩摩閥の私闘ですが、そこには新政府に不満を持つ薩摩以外の士族達も集まってきました。ある意味、西南戦争は、新体制と旧体制(この言葉が適切かどうかはわかりませんが)との間の激突だったといってもいいかも知れません。結果、旧体制側は敗れ、士族による武力を用いた反乱は息の根を断たれました。大久保は士族の動向を気にすることなく天皇中心の新国家建設に邁進することが出来るようになりました。(もっとも、大久保は間もなく暗殺されてしまいますが。)この意味で西南戦争は大久保の考えた太政官政府の基盤を固める役割を果たしたといえましょう。言葉を代えて言えば、西南戦争は結果として、近代国家の成立を後押ししたものともいえると思います。
 
 このようにして誕生した太政官政府がどのような歴史を辿ったのか。また、現在でも日本の統治機構は太政官政府のままなのか。この点については、もう少し考えなければならないと思います。
 
 
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