徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

ヰタ・セクスアリス

2017-05-14 13:56:11 | 日本文学散歩

 二十代の頃にこの小説を読んだ時、何だかよくわかりませんでした。あまり印象に残らなかったというのが、正直な感想でした。けれども今、五十歳も半ばを過ぎてから読み返すと妙に納得できたような気持ちがするのが可笑しいです。

 『ヰタ・セクスアリス』は鴎外の性に関する回顧録という側面を持った小説です。ただ、それが鴎外のみのものだけに留まっていないのが、この小説の後の世まで残るようになった原因でしょう。明治時代と現在とでは時代背景もそこに生きる人々の考え方もかなり違います。けれども、性というものに対する見方はたいして変わっていないのですね。と言うより、現在の方がもっと遠慮が無くなっている感じがします。個人の権利の保護がある意味で過剰なまでに求められている一方で、性についてのことだけではありませんが、人間存在そのものが貶しめられている風潮を強く感じます。何なのでしょうね。あらゆることが複雑化していく一方で、それに対するに形式化したものしか示せない。性犯罪に対する厳罰化は必要ではありますが、それだけでは犯罪を防ぐことはできません。かと言って、個人に対する監視を強めることは本末転倒した議論になりますし、再犯の防止と言っても、個人の権利との関係からおのずと限界があります。性犯罪を犯す個人のゆがんだ欲望を規制することは外部からの働きかけだけでは駄目ということなのでしょう。深刻な問題だと思います。

 それはさておき、『ヰタ・セクスアリス』は当時隆盛を極めていた自然主義に対抗して書かれたものといわれている一方、小説としては中途半端で失敗作であるともいわれています。けれども、失敗作といわれているこの小説が文庫化されて今日まで残っているのは、人間が成長していく過程で避けては通れない性との向き合い方が、鴎外独特の醒めた視点でたんたんと描かれているからではないのかと思います。日本文学における自然主義は、人生の汚い部分を敢えて描くことで、人間の本質に迫ろうというものであると思います。しかし、そのような表現を用いなくても、人間の本質は描けるということを『ヰタ・セクスアリス』は示しているのでしょう。

 私が面白いと思ったのは、大学卒業を祝う場面で金井君が世間の見方について覚醒する場面です。

 

「僕はこの時忽ち醒覚したような心持ちがした。譬えば今まで波の渦巻の中にいたものが、岸の上に飛び上がって、波の騒ぐのを眺めるようなものである。宴会の一座が純客観的に僕の目に映ずる。」

 

鴎外の小説に登場する「傍観者」の視線が現れてくるからです。鴎外の建ち位置がこんなところから始まったのかと思うと何やら愉快な気持ちになります。

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