「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「二十二社巡り」石清水八幡・宇佐八幡神宮、鶴岡八幡宮と共に日本三大八幡宮である。八幡神は菩薩号を付して八幡菩薩とも呼び神仏習合の霊地でもある。

2017-10-24 06:57:28 | 温故知新
「二十二社巡り」石清水八幡・宇佐八幡神宮、鶴岡八幡宮と共に日本三大八幡宮である。八幡神は菩薩号を付して八幡菩薩とも呼び神仏習合の霊地でもある。創建は清和天皇の御世、大安寺の僧行教が宇佐八幡宮に参詣した折りに「われ都の近く、男山の峰に移座し国家を鎮護せん」と神託を受けたのが始まりと言う。翌年の貞観二年清和天皇の命を受け社殿を建立した以後、清和源氏の氏神として源氏の守護神と成った。祭神は、中御前に応仁天皇、西御前に宗像三女神、東御前に神功皇后を祀っている。平安遷都されてから京都の北東の鬼門を比叡山延暦寺が、南西の裏鬼門を石清水八幡宮が司り、天皇、公家から朝野の人々に信仰が深く、天皇の行幸は二百五十回を数えたと言う。
社格としても二十二社の上位にして伊勢神宮に次ぐ名神とされている。だが神道と言っても明治維新の神仏分離令までは神仏習合の霊地として山内坊舎四十を数え峰々を「南無八幡大菩薩」などの読経の声明が響き渡り、形だけの神人(神職)が社殿で儀礼、祭礼を執り行なっていた。実際には寺院が管理し、平安から鎌倉かけては僧兵らが住持し牛耳っていた。
時代が鎌倉に移って「石清水八幡宮」を有名にさせたのは、「文永の役」と「弘安の役」で、蒙古来襲来の二度に渡る攻め入られた時に太暴風で元軍を撃退させた「神風」説が浮上し当時の日本人を驚かせた。
 弘安四年(一二八一)六月、七月にかけの襲来に、西大寺の叡尊は国家一大事危機と一門の僧三百人を率いて石清水八幡宮に入寺し、北嶺の延暦寺、園城寺の持戒僧七百人が加わり七日間昼夜を問わず「東風を以って兵船を本国へ吹き送り、来人をそこなわずして乗るところの船を焼き失わせたまえ」と「勝王経、仁王経、法華経」の転読、尊勝陀羅尼の勤行の太祈願をした。この国難に国中は挙国一致で亀山上皇、北条時宗は、伊勢神宮を始め、国中の寺社に祈願をさせた。鎌倉では日蓮が釈尊滅後二千年、末法の到来と「南無妙法蓮華経」祈願し、八幡の祈願は梵天、帝釈天の怒りを受けると幕府に迫り、自らも祈願をかけた。国中の祈願の甲斐あってか、二度の来襲は奇跡的に大嵐でからくも元軍は退散したが、その後誰言うともなく「神風」と語りつがれるようになった、有史以来国難にこれほど「一致団結」したこと記録にない。大国元国の前に侵略経験のない日本は混乱し、その不安や恐怖は計り知れない。
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「西国観音三十三所巡り」華厳寺・岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山。 本尊は十一面観音、

2017-10-24 06:53:35 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」華厳寺・岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山。 本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。 西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院で桜、紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。永禄三年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦十七年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。延暦二十年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜十七年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」及び「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である[1]。建武元年 1334年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。江戸時代には薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀上人によって再興された。
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『江戸泰平の群像』70・柳川 調興(やながわ しげおき、慶長8年(1603年) - 貞享元年10月1日(1684年11月7日))は、江戸時代初期の武士。

2017-10-24 06:50:48 | 温故知新

『江戸泰平の群像』70・柳川 調興(やながわ しげおき、慶長8年(1603年) - 貞享元年10月1日(1684年11月7日))は、江戸時代初期の武士。対馬藩家老。玄蕃頭、豊前守を名乗り、号は式山、梅軒、素庵。慶長8年(1603年)、対馬藩家老・柳川智永(としなが)の子として誕生。柳川氏は、祖父の柳川調信は元・商人といわれており、宗氏一族の津奈調親への仕官を経て、第17代当主・宗義調に仕えた。その交渉能力から重臣となり、特に豊臣秀吉の九州征伐や、文禄・慶長の役での朝鮮との折衝にあたった。そのため、秀吉から宗氏へ九州本土に与えられた領地1万石(初め薩摩、後に島津氏へ配慮し肥前へ交換)のうちから1千石を知行地とした。以降、柳川氏は対朝鮮外交の実務を担い、江戸幕府からも重視され、幕閣本多正純の介入でさらに1千石が加増された。このような中で、調興は江戸で生まれ育ち、慶長18年(1613年)に幼くして家督を相続。徳川家康、秀忠の小姓に任ぜられるなど、幕府直臣であるかのような待遇にあり、自身もその意を強くしていた。その後、藩主・宗義成と対立し、直臣の旗本となることを画策する。所領2000石での旗本を目指す調興に対して、そのうち1000石はあくまでも対馬藩領とする義成との対立は激化し、正室である義成の妹を離縁、寛永8年(1631年)には幕府に訴え出るもおさまらず、寛永10年(1633年)に対馬藩の国書改竄を幕府に直訴した(柳川一件)。ところが寛永12年(1635年)、第3代将軍・徳川家光による裁定の結果、調興は敗訴し流罪を命じられ弘前藩預かりとなる。老中・土井利勝の配慮で、家臣7名の供を許され、弘前城南西に広大な屋敷を与えられた。一流の文化人として藩主津軽信政の敬意を受け賓客として遇され、以後半世紀近くを津軽の地で過ごした。延宝2年(1674年)には、城内に設けられた能舞台の初演に、舞台正面で藩主津軽信政、黒石津軽信敏らと同席して観覧していることから、その待遇が続いたことが見て取れる。貞享元年(1684年)、死去。墓所は弘前の長勝寺。
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『歴史の時々変遷』(全361回)330“安政の大地震” 「安政の大地震」江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震

2017-10-24 06:48:12 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)330“安政の大地震”
「安政の大地震」江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震である。世にいう「安政の大地震」は、特に1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。安政大地震、あるいは安政地震とも呼ばれるが、単に「安政地震」といえば、南海トラフが震源と推定される宝永地震や昭和地震に対比して安政東海地震と安政南海地震を総称して呼ぶ場合もある。1854年の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は嘉永7年に発生した地震であり、当時の文書、日記、瓦版などは「嘉永七年甲寅・・」と記され、地震後の嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政に改元されたため本来「嘉永の大地震」と呼ぶべきであるが、明治改元の際、詔勅で「慶応4年(1868年)を明治元年と改元する」とされ慶応4年1月1日に遡り明治元年と改元された例に倣い、嘉永7年1月1日に遡って安政元年に改元されたと解釈され、「安政の大地震」でよいとされる[15]。歴史年表は嘉永7年1月1日に遡り安政元年とし、『大日本地震史料』から『理科年表』に至る各種の地震史料はこの方式を採用している1853(嘉永6年6月3日)には黒船来航、同年(7月18日)にはディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる時勢にあった。ディアナ号で来航したプチャーチンは嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていた。東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる。「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった。
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「平安京物語」104“藤原 清衡”(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主

2017-10-24 06:44:49 | 温故知新
「平安京物語」104“藤原 清衡”(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。陸奥国(後の磐城国)亘理郡の豪族・藤原経清と陸奥国奥六郡を治めた俘囚長(「俘囚長」を巡る議論)]・安倍頼時の娘の有加一乃末陪の間の子として生まれる。幼名不詳。なお、藤原経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。父・経清は前九年の役で源頼義に反旗を翻し安倍氏に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。清原家には、清衡の他に、武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない義兄の真衡、武貞と清衡の母の間に生まれた異父弟の家衡がいたうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。永保3年(1083年)に秀武が真衡に背くと、清衡・家衡は秀武に同調して、真衡が秀武討伐に出羽に向かった隙に真衡の本拠を攻撃した。だが、陸奥守であった源義家が真衡を支援して清衡・家衡を攻めたため、清衡・家衡は大敗して逃走し義家に降伏した。ところが、出羽に向かった真衡が直後に急死したため、清衡・家衡は義家の裁定で清原氏の所領を分割相続することになる。家衡はこの裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷族を皆殺しにした。難を逃れた清衡は義家に助力を求め、清衡は義家や難を逃れた同母弟の刈田経元[12] とともに家衡を討ち取った。後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。清衡は本拠地を江刺郡豊田館に構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬 するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納するなど、奥羽の統治者としての地位を築いた。一方で寛治6年(1092年)6月の陸奥守・藤原基家の解文では、清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられた。また、翌寛治7年(1093年)には清衡の勢力圏である出羽国において平師妙および平師季父子らが出羽国府の秋田城を襲撃する反乱が発生した。反乱自体は寛治8年(1094年)に陸奥守・源義綱によって鎮圧されたが、清衡の関わりについては明らかではない。なお、清衡はこの前後に陸奥の押領使となったと推定されている(任押領使を寛治3年(1089年)とする見解もある)。嘉保年中(1094年 - 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。また宋 (王朝)からは一切経の輸入も行うなど、北方貿易にも着手した。金銀螺鈿をちりばめた金色堂の落慶の翌年(大治3年)、当時としては長命の73歳で没した。ちなみに中尊寺供養願文として知られる文書では、自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現している。金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型であり、曾孫の泰衡まで四代直系で矛盾はないとされる。清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。身長は159cm、手の形は小さく華奢。四肢の筋はよく発達している。体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳溢血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られる。発症時期は快方が見込めなくなった頃に妻が筆写納経を行った1117年 - 1119年頃ではないかと推測されている。没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。

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「浪速史跡巡り」諏訪神社(すわじんじゃ)は、大阪府大阪市城東区にある神社である。祭神・建御名方刀美命

2017-10-24 06:42:01 | 温故知新
「浪速史跡巡り」諏訪神社(すわじんじゃ)は、大阪府大阪市城東区にある神社である。祭神・建御名方刀美命(たけみなかたとみのみこと)・八坂刀売之命(やさかとめのみこと)長野県にある諏訪大社の分社である。由緒・創建の年代は不明。境内にある石灯籠に承和3年(836年)4月寄進と刻まれているので、平安時代前期にはあったとされる。菅原道真が大宰府に左遷される道中で当神社に参拝したと伝わる。・獅子舞・天正18年(1590年)、小田原攻めの時、豊臣秀吉が大坂城の天守閣から外を眺めた際、森の様に木が生い茂っていた当神社が目に留まり、参拝した所、戦に勝利したという逸話がある。その際、秀吉は神社の霊験を得たとして、雄と雌の一対の獅子を奉納したとされる。雄獅子は明治18年(1885年)の大水害で流失したが、雌獅子とそのレプリカが現存している。同神社の獅子舞は奉納後に始まったとされるが、前述の水害で資料が流失してしまった為不明。昭和に入り、戦争の為一時途絶えたが、獅子地車保存会により1968年に復活[1]。毎年秋祭りに行われている。2003年、大阪市の無形民俗文化財に指定。摂社 ・大國神社・末社 談山神社、春宮神社、天満宮(腰掛天満宮)、玉長社、招魂社・祭礼・夏と秋に開催。だんじりの曳行が行われ。2007年には地車購入50周年を迎え、記念祭が開催された。秋祭りには獅子舞が行われている。
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「一ノ宮巡り」丹波国一ノ宮・出雲大神宮・祭神大国主命・三穂津姫尊・京都府亀岡市千歳町千歳出雲・式内社・旧国弊中社

2017-10-23 06:09:41 | 温故知新
「一ノ宮巡り」丹波国一ノ宮・出雲大神宮・祭神大国主命・三穂津姫尊・京都府亀岡市千歳町千歳出雲・式内社・旧国弊中社・京都府亀岡市にある神社で別称は元出雲・千年宮とも言われ、「大八洲国国祖神社」と言った。亀岡盆地の東に立つ御蔭山の山麓に鎮座し御蔭山を御神体とする。「元出雲」の別称は、出雲大社は当社からの分霊とする説に由来をする。今現在の出雲大社は明治時代まで杵築大社と呼ばれていた。江戸時代末までは出雲神社と言えば当社を指した。社伝によれば和銅二年(709)社殿が建てられたとする。『記紀』によれば国譲りの神事が行われたと云うが丹波国は出雲、大和の中間点にあって勢力の接点があって、国譲り由縁で祀られた。境内に横穴式石室や後期古墳や付近に丹波最大の前方後円墳が有り、古くより先住し土着した氏族の崇敬した御神体と考えられる。『続日本後記』『三代実録』には神階は正応五年(1292)正一位の叙せられた。寿永三年(1184)源頼朝は院宣によって玉井四郎資重の乱行を停止させた。当時は丹波国一ノ宮として、蓮華王院の御領として平安から鎌倉期にかけて相当の社勢を誇ったものとみられる。北条泰時は神領安堵を下知し、足利尊氏は貞和元年(1345)社殿を修理、修補をしている。★祭神大己貴神は『古事記』には大国主神として最も多く登場する神ので国津神の代表格である。出雲国の主神、スサノオ神の子とも六世の孫とも言われ、少彦名神と共に協力して葦津中国を開き平定した。説話の大黒さんとして、医薬の道などを教え、国土を天孫ニニギ神に譲って杵築の地に隠退、出雲大社に祀られている。説話に因幡の白兎が有名である。三穂津姫は日本神話に登場する神である。高皇産霊尊の娘で、大国主神の后。『日本書紀』の葦原中国平定の場面のみ登場する。高皇産霊尊が大物主神にたいして「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫に為にお譲りせよ」と詔した。

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「西国観音三十三所巡り」清水寺・”西国16番札所“京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。

2017-10-23 06:06:34 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」清水寺・”西国16番札所“京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。
本尊は千手観音、開基は延鎮である。清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦十七年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。
これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。宝亀九年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺 で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。
金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士という白衣の修行者がいた。年齢二百歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。
自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の一つである。
また、石山寺、長谷寺などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。
古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。
明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治十八年(1885年)に法相宗に復す。昭和四十年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。
その二年後の宝亀十一年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。
田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。
後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧は毘沙門天と地蔵菩薩の化身の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
延暦十七年(798年)、田村麻呂は延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
延暦二十四年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。
『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。清水寺の伽藍は康平六年(1063年)の火災以来、近世の寛永六年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで九回の焼失を繰り返している。
平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。
文明元年(1469年)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗僧の勧進聖願阿弥が迎え入れられた。願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ。
願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった。
現在の本堂は上記寛永六年の火災の後、寛永十年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。
豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。

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『江戸泰平の群像』69・竹中 重義(たけなか しげよし)(?~1634)は、江戸時代初期の大名。豊後府内藩2代藩主。

2017-10-23 06:03:12 | 温故知新
『江戸泰平の群像』69・竹中 重義(たけなか しげよし)(?~1634)は、江戸時代初期の大名。豊後府内藩2代藩主。初代藩主・竹中重利の長男。豊後府内藩初代藩主・竹中重利の長男として誕生。元和元年(1615年)に父・重利の跡を継いで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている。寛永6年(1629年)7月27日、水野守信に代わって江戸幕府長崎奉行に着任する。重義を推挙したのは老中・土井利勝で、それまでの長崎奉行は幕府の3000石級の旗本から選ばれるのが慣例であり、大名クラスが抜擢されたのは異例であったとされる(幕末まで長崎奉行に任ぜられた万石クラスの人物は重義を入れて2名のみ)。重義の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された。さらに肥前島原藩主・松倉重政の勧めで雲仙地獄におけるキリシタンの拷問を開始、多くのキリシタンが殉教した。寛永8年(1631年)には絵踏み(踏み絵)が初めて雲仙で行われたという記録が残っている。寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠が死去し、3代将軍・徳川家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した。これと連動するかのように、重義は密貿易など職務上の不正を訴えられた。寛永6年(1629年)10月に書かれた平戸のオランダ商館長の手紙によると、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」と記録されている。調査の結果、寛永10年(1633年)2月に奉行職を罷免され、切腹を命じられた。寛永11年(1634年)2月22日、嫡子・源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪となった(検死役は前任の長崎奉行で、当時大目付であった水野守信であった)。これにより府内藩竹中氏は改易・廃絶となった。なお、不正の発覚をめぐっては、諸説ある。『通航一覧』によると、堺の商人・平野屋三郎右衛門が、己の妾を重義に奪われ挙句に追放になったとして江戸の町奉行に訴え、その際に重義の不正の数々を告げた。取り調べたところ、それに間違いなしとして、重義は処罰されたとある。また、『バタヴィヤ城日誌』によると、告発者は長崎代官・末次平蔵とその他数名の長崎町民で、竹中采女正が唐人の貨物を着服したり、自ら国禁の海外貿易に手を染めているという訴えであったとしている。
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『歴史の時々変遷』(全361回)329“三閉伊一揆” 「三閉伊一揆」とは、弘化 4年(1847年)および嘉永 6年(1853)に南部藩

2017-10-23 06:00:16 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)329“三閉伊一揆”
「三閉伊一揆」(さんへいいっき)とは、弘化 4年(1847年)および嘉永 6年(1853)に南部藩で起きた百姓一揆である。三閉伊通一揆とも呼ばれる。同藩は領内を33の「通」に分けて統治していたが、このうち九戸郡および閉伊郡の両郡一帯は、野田通・宮古通・大槌通の3つの「通」から成り、各々代官所が置かれていた。これら3つの通りは同藩領内における現在の三陸海岸地域にあたり、一括して「三閉伊通」あるいは「海辺道」と総称されていたため、前者の名を採って一揆の名称となっている。寛政4年(1792)にラクスマン来航事件が起きると、翌年には江戸幕府からの命令により、南部藩は兵を出して根室と函館の守りを固めることになり、財政負担が増加した。文化2年(1805)に幕府は、蝦夷地警護松前出兵の功績から南部藩を10万石加増して石高20万石としたが、これは知行域の増加を伴わない表高の加増であったため、実質税収があがらないのに20万石相当の軍役を負担させられることを意味し、藩財政は窮迫した。南部藩は当時の稲作の北限地区であるにも関わらず、水稲生産を強行したため、江戸時代後半の冷涼な気候(小氷期)と合わせて連年凶作に見舞われており、民衆も困窮していた。藩は目安箱を設置するが、記名式だったため民意を聞くのに用いられず、罪人を糾明する証拠集めに用いられた。また、藩は負債を次から次へと作り、それを新税や重税で解消しようとしたこと。海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に水稲の基準で重税を課したこと。三閉伊地方の産業(漁業・製材業・製鉄業)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。「軒別税」と呼ばれる人頭税を実施したこと。藩札「七福神」の大量発行によるインフレーションが発生したこと。幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税があり、これを御用金で補ったこと。さらに、財政難から武士の禄を長期にわたって借上したこと。これらによって、民衆の不満は高まっていた。


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「平安京物語」103”義経追討“頼朝との対立、平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵と

2017-10-23 05:56:29 | 温故知新
「平安京物語」103”義経追討“頼朝との対立、平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)の満福寺に義経は留め置かれた。5月24日、頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状である。義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立ったことによるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。 また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであった。そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。 このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、10月18日に頼朝追討の院宣を得た[注釈 18]が、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。11月7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方11月25日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、源有綱も大和国で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた河越重頼も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ[9]、さらに義顕と改名させられた[10]。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。この要請には頼朝の計略があった。義経追討を自身が受け、奥州に攻め込めば泰衡と義経は秀衡の遺言通り、一体となって共闘する怖れがある。泰衡に義経を追討させることで2人の間に楔を打ち、険悪な関係を発生させ、奥州の弱体化を図ろうとしたのである。「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明したのも、頼朝自身が義経を追討することができない表面的な理由としたかったためである。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。この義経の行動に関しては、度重なる追討要請により泰衡との齟齬が激しくなったために、京都へ脱出(帰京)しようとしていたのではないかとの推測もある。この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。

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「浪速歳時記」「万部おねり」は正式には「二十五菩薩聖衆来迎(しょうじゅうらいごう)阿弥陀経万部法要」と呼ばれる大阪平野にある融通念仏宗総本山

2017-10-23 05:53:15 | 温故知新
「浪速歳時記」「万部おねり」は正式には「二十五菩薩聖衆来迎(しょうじゅうらいごう)阿弥陀経万部法要」と呼ばれる大阪平野にある融通念仏宗総本山大念仏寺で毎年5月1日から5日まで行われる「聖衆来迎会」と「阿弥陀経万部会」が融合された、当山最大の行事である。所在地:大阪市平野区平野上町1丁目 大念仏寺・最寄駅:JR大和路線「平野」下車、南約400M OR ・地下鉄谷町線「平野」下車、北へ約800M・ 「聖衆来迎会」は浄土往来を願う人の臨終に阿弥陀菩薩とともに多くの菩薩来迎する様子を表現化した儀式で、1349年(正平14年)当山中興の祖第7世法明上人の強い意志で、1005年(寛弘2年)に始められたという大和・當麻寺の「お練り供養」を参考に始まったとしている。 また、「阿弥陀経万部会」は江戸時代第49世尭海上人の明和年間(1764~72年)の頃、「阿弥陀経を一万部読誦して、極楽往生と檀信徒の先祖供養を願い」として始められたという。この万部おねりの行事は2002年(平成14年)「大阪市指定無形民俗文化財」に指定されている。なお、 1795年(寛政7年)、小林一茶がこの寺に参拝し、この万部おねりを見物し『春風や 巡礼どもが 練供養』という句を吟じており、その句碑が山門の前に建立されている。
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「神仏霊場巡り」御上神社・滋賀県は三上山とJR東海道本線野洲駅、新幹線と並行して走る国道からすぐ見える御上神社は

2017-10-22 06:24:09 | 温故知新
「神仏霊場巡り」御上神社・滋賀県は三上山とJR東海道本線野洲駅、新幹線と並行して走る国道からすぐ見える御上神社は『古事記』に「近つ淡海の御上祝がもち斎く天之御影神」と記されている。
御神体は近江富士の三上山である。旧官幣中社。祭神は天津彦根命の御子である国土開拓の祖と言える天之御影命を祀る。
創建は孝霊天皇の御世に三上山山頂に出現した三上の祖が祀ったのが始まりという。後の山上よりこの地に移し社殿を造立し祀ったと伝えられている。
古くから我が国の鍛冶に祖神として崇敬され、浄火守護の神、日本第二忌火神として崇められてきた。
『三代実録』には貞観元年(869)正四位に叙され、同十七年には従三位に叙せられた。武士の崇敬多く源頼朝が建久元年(1190)足利尊氏が建久三年に、豊臣秀吉が天正一四年(1686)にそれぞれ社領を寄進している。
本殿は鎌倉時代の入母屋造り。神仏習合の影響か仏堂に融合した神社建築の国宝である。

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「新西国観音三十三所巡り」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺 天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所、

2017-10-22 06:20:52 | 温故知新
「新西国観音三十三所巡り」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺 天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所、「水間観音」の水間寺は南海貝塚駅より水間鉄道で終点水間駅下車五百メートル 高速阪和道貝塚インターすぐにある。泉州は和泉葛城山を背になだらかな山間にあって、和泉随一を思わせる堂々たる伽藍の水間寺の創建は古く。
寺伝に縁れば、奈良時代は聖武天皇が病気になった時、夢に観音のお告げを受けられたと言う。その事を行基に話し現地に赴くように命じたという。
行基はお告げに随い当地を訪れた所、観音さんの化身である白髪の仙人と16人の童子が現れた。導かれ裏山の滝に向かうと、身の丈一寸八分の聖観世音菩薩を見たという、聖武天皇の勅命によって行基は滝の傍らにお堂を建て、完成するまで16人の童子と共にしたという。
近郷近在から遠方の願を掛ける人々に「水間観音さん」と親しまれ、初午の日には「厄除け観音」として厄年のお参詣の人が絶えない。
その後、天正十三年に豊臣秀吉の、根来攻めの折り際その下臣堀秀政の軍勢によって火が放たれて、七重伽藍を始め坊舎などが火焔に包まれ灰塵と化したのである。その後、徳川時代岸和田城主の岡部美濃守は名刹水間寺を亡びることを惜しみ本堂と三重の塔などを再建されていった。
水間寺は前後に川が流れ山門が無く、何時でも誰でも何処からでも入れる、自由豪放さは訪れる者はいつでも観音様に願いが掛けられる。川に架けられた「厄除け橋」に天台宗別格本山の石碑があって、参道で本堂より三重塔が中央に見える。
元は多宝塔で多宝如来が安置されていたが、天正の戦乱で焼失したために「三重塔」を建立し釈迦如来が安置されている。
水間の三重塔は再建は天保年かにもかかわらず昭和に修理が成されたと思われる、優美で新しさを思わせる塔で井原西鶴の作品のモデルになったと言われている。
本堂は二百年前に再建された大阪府か最大級の重厚な二重屋根のお堂である。本堂裏の小川に龍神より授けられた観音出現の滝、渓谷には観音像が降臨した石に伝教大師が刻んだ不動尊や、弘法大師の刻んだ名号石もあるという。
水間寺は新西国四番札所として地元に及ばず遠方からの参拝の人の途切れは無い。境内の裏を川を隔て「行基堂」の南側に「鏡池」がありその池に中に「瑞泉堂」があって余りにも聖なる水で、清らかで澄み切って帰るも住めないと伝えられている。
「薬師堂」「「弁財天堂」本堂の東に「愛染堂」に愛染明王は行基が椿の木刻んだものと言われ、その愛染堂の前に近松門左衛門の「お夏清十郎笠物狂」などで有名な「お夏、清十郎の墓」がある。水間の豪農楠右衛門の娘、お夏がこの愛染明王に恋を成就を祈願した縁で「お夏清十郎」の墓が立てられたと言う。また与謝野蕪村も「ここに今日、お馬水かえ、水間寺」と句を残している


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「新西国観音三十三所巡り」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺  天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所

2017-10-22 06:19:49 | 温故知新
「新西国観音三十三所巡り」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺 天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所、「水間観音」の水間寺は南海貝塚駅より水間鉄道で終点水間駅下車五百メートル 高速阪和道貝塚インターすぐにある。泉州は和泉葛城山を背になだらかな山間にあって、和泉随一を思わせる堂々たる伽藍の水間寺の創建は古く。
寺伝に縁れば、奈良時代は聖武天皇が病気になった時、夢に観音のお告げを受けられたと言う。その事を行基に話し現地に赴くように命じたという。
行基はお告げに随い当地を訪れた所、観音さんの化身である白髪の仙人と16人の童子が現れた。導かれ裏山の滝に向かうと、身の丈一寸八分の聖観世音菩薩を見たという、聖武天皇の勅命によって行基は滝の傍らにお堂を建て、完成するまで16人の童子と共にしたという。
近郷近在から遠方の願を掛ける人々に「水間観音さん」と親しまれ、初午の日には「厄除け観音」として厄年のお参詣の人が絶えない。
その後、天正十三年に豊臣秀吉の、根来攻めの折り際その下臣堀秀政の軍勢によって火が放たれて、七重伽藍を始め坊舎などが火焔に包まれ灰塵と化したのである。その後、徳川時代岸和田城主の岡部美濃守は名刹水間寺を亡びることを惜しみ本堂と三重の塔などを再建されていった。
水間寺は前後に川が流れ山門が無く、何時でも誰でも何処からでも入れる、自由豪放さは訪れる者はいつでも観音様に願いが掛けられる。川に架けられた「厄除け橋」に天台宗別格本山の石碑があって、参道で本堂より三重塔が中央に見える。
元は多宝塔で多宝如来が安置されていたが、天正の戦乱で焼失したために「三重塔」を建立し釈迦如来が安置されている。
水間の三重塔は再建は天保年かにもかかわらず昭和に修理が成されたと思われる、優美で新しさを思わせる塔で井原西鶴の作品のモデルになったと言われている。
本堂は二百年前に再建された大阪府か最大級の重厚な二重屋根のお堂である。本堂裏の小川に龍神より授けられた観音出現の滝、渓谷には観音像が降臨した石に伝教大師が刻んだ不動尊や、弘法大師の刻んだ名号石もあるという。
水間寺は新西国四番札所として地元に及ばず遠方からの参拝の人の途切れは無い。境内の裏を川を隔て「行基堂」の南側に「鏡池」がありその池に中に「瑞泉堂」があって余りにも聖なる水で、清らかで澄み切って帰るも住めないと伝えられている。
「薬師堂」「「弁財天堂」本堂の東に「愛染堂」に愛染明王は行基が椿の木刻んだものと言われ、その愛染堂の前に近松門左衛門の「お夏清十郎笠物狂」などで有名な「お夏、清十郎の墓」がある。水間の豪農楠右衛門の娘、お夏がこの愛染明王に恋を成就を祈願した縁で「お夏清十郎」の墓が立てられたと言う。また与謝野蕪村も「ここに今日、お馬水かえ、水間寺」と句を残している


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