「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「神仏霊場巡り」長浜八幡宮・JR長浜駅から東に森が見えてくる

2017-09-30 10:44:15 | 温故知新
「神仏霊場巡り」長浜八幡宮・JR長浜駅から東に森が見えてくる。
鳥居、拝殿、本殿が南北に並ぶ神社が長濱八幡宮である。古くは坂田八幡宮、将軍山新放生寺八幡宮と称した。祭神は誉田別命・息長足姫命・足仲彦命で応神天皇と神功皇后と仲哀天皇八幡神が祀られている。
源義家が延久元年(1069)に三条天皇勅願を受けて石清水八幡宮より勧請し祀り、以来庄内十一郷の産土神社として地元の崇敬を受けている。朝廷や武将の崇敬深く足利義政が社殿造営し、三重の塔を建立、太刀、神馬を奉納した。
湖北の浅井氏も社領、太刀、神馬を奉納したが、元亀・天正の戦乱に焼失した。その後天正二年(1573)に長浜城主になった秀吉に再建に務めた。
この長浜天満宮も神仏習合で境内の横に寺院があって盛時には社領三千石、一山七三坊と伝えて栄えた。



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「四国遍路記」大日寺(だいにちじ)は、徳島県徳島市一宮町に位置する寺院。四国八十八箇所霊場第十三番、四国三十三観音霊場第五番札所。

2017-09-30 10:38:05 | 温故知新
「四国遍路記」大日寺(だいにちじ)は、徳島県徳島市一宮町に位置する寺院。四国八十八箇所霊場第十三番、四国三十三観音霊場第五番札所。大栗山(おおぐりざん)、花蔵院(けぞういん)と号す。宗派は真言宗大覚寺派、本尊は十一面観音。本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか・徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。



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『歴史の時々変遷』(全361回)305“七家騒動”

2017-09-30 10:23:09 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)305“七家騒動”
「七家騒動」安永2年6月27日(1773年8月15日)に出羽国米沢藩で起こったお家騒動。藩主・上杉治憲(鷹山)の改革政策に反対する藩の重役で、奉行の千坂高敦(対馬)と色部照長(修理)、江戸家老の須田満主(伊豆)、侍頭の長尾景明(権四郎)、清野祐秀(内膳)、芋川延親(縫殿)、平林正在(蔵人)の7人が、元藩儒で藩医の藁科立沢の教唆を受け、改革の中止と改革を推進する奉行の竹俣当綱(美作)一派の罷免を治憲に強訴した。重役7名の署名による45か条の訴状が提出されたので、七家訴状事件ともいう。45か条にわたる訴状内容の要約は以下の通りであった。1治憲に対する「賞罰」の不明確さや、政策への批判。2竹俣当綱が他の重臣を無視し、莅戸善政、木村高広などの藩主側近とともに改革政治を専断することを先代の側近森利真と同類の出頭人政治として批判。3竹俣の人物及び細井平洲や最上地方の商人と竹俣との関係を批判。4改革政治自体が、国害であり、仙台藩や会津藩の出頭人政治失敗と古法復帰による藩政立て直し成功にならい、「越後風」の回復のために竹俣とその一味である治憲側近の即時退役要求。千坂と色部の両奉行は、反対派を括って抑えておかないと暴発してお家騒動になると懸念しての一味加担であったとする説もある。少なくとも色部に関しては、治憲が改革を開始するに当たり、千坂を通して国許の重役たちに対し通達した趣意書『志記』の中で「このたびの改革は私自身が色部と論議の上、色部も賛同したことである」と述べられている。明和4年9月13日(1767)に治憲と共に白子神社へ倹約誓詞を納めに行き、誓詞の中で「他者が改革に反対しようとも、自分は改革を支持する」と述べている。明和8年6月5日(1771)早朝に治憲・竹俣と共に愛宕山に登って降雨祈願を行った。ことから、改革に対してはむしろ協力的であったと見る説がある。同年7月1日に7重臣の裁決が下され、須田と芋川の切腹及び改易、残り5人の重役は隠居及び閉門または蟄居、石高削減となる。また、芋川の父・芋川正令も息子に連座して押込となる。9月には藁科が斬首並びに士分剥奪となる。米沢藩首脳部は10人で構成されているが、そのうちの7人が加わって藩政から退いたことで、当然首脳部に欠員が生じ、少なからず藩政運営に影響を与えることになった。7月5日には、侍組平侍の吉江輔長(喜四郎)の奉行就任や、千坂の実弟で上杉重定附き小姓頭であった広居忠紀(図書)の江戸家老就任が行われた。安永4年(1775)には、須田家と芋川家が家格を侍組分領家から侍組平侍に降格されたものの、共に家の再興が認められ、千坂や色部らも赦免された。このような中で、文化の変とも呼ばれる御家騒動が発生する。忠固は決して暗愚だったわけではなかった。むしろそれなりに活動的な大名で、実力もあった。ただし中途半端に実力を備えていたことが災いした。文化8年(1811)、忠固は突然、江戸家老の小笠原出雲を呼び出して、「自分も幕閣となって幕政に参与したい」と言い出した。出雲はこれに対して賛成しなかった。もし、小倉藩主ほどの家格で幕政に参与するとなれば、老中くらいの役職に就くことになる。そうなれば、老中になるまでの運動で幕閣に対する出費や運動資金、いわゆる賄賂は莫大なものになるだろう。しかも当時は日本近海に外国船が出没し、幕政も行き詰まっている時期である。だから出雲はあまり幕政に関わらず、むしろ藩政の再建が重要だと考えて反対した。忠固も一時はこの諫言を聞き入れたが、またもや出雲に対して老中になるように運動するように命令を出した。こうなると小笠原一族である出雲は、本家当主の命令に従うしかなかった。だが、やはりそのための運動資金は莫大なもので、藩財政は破綻寸前となる。このため、反対派は忠固を老中にしようと運動している出雲を奸臣と見なしてその暗殺を図った。出雲のほうは未遂で終わったが、出雲の腹心が暗殺されてしまった。だが、反対派のほうも必ずしも一枚岩ではなかった。反対派の一部に自分の出世と出雲の手腕を妬む者がいて、この一派がとんでもないことに小倉藩が外国船に備えて造営していた狼煙台を勝手に使用して藩士を扇動したりして、執拗に出雲の暗殺を図ったのである。しかも反対派の一部が藩財政の悪化などからストライキを起こして福岡藩領である筑前国黒崎に出奔してしまったのである。このため、反対派は黒崎から「黒」、出雲の一派は小倉城内(城→「白」)ということから、この騒動は白黒騒動と呼ばれているのである。そして、このような一連の騒動が幕府の耳にも入り、そのメスが藩に入ることとなった。出雲は家老罷免の上で失脚。反対派に属していながら己の栄達を謀った一派は処刑、藩主の忠固も100日間の禁固刑となった。忠固の刑が軽かったのは、幕政に参与したいという幕府に対する忠誠心から起こったものであるとして、軽くされたためである。その後、忠固は年貢増徴などにより藩財政の再建を図ったが、それくらいではもはや賄いきれず、白黒騒動での出費と混乱から借金は15万両に膨れ上がって藩財政は窮乏化する。そして遂には百姓の窮乏化を見て哀れんだ奉行が、年貢減免を独断で行なった後に切腹するという事件までもが起こった。文政年間には村方騒動も起こった。このように混乱続きの藩を再建するため、忠固は土木工事を行ない、倹約令を出しているが効果はなかった。天保14年(1843年)5月12日に74歳で死去し、後を次男の忠徴が継いだ。墓所:東京都台東区松が谷の海禅寺。

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『江戸泰平の群像』46・徳川 家光(とくがわ いえみつ)(1604~1651)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代

2017-09-30 10:19:16 | 温故知新
『江戸泰平の群像』46・徳川 家光(とくがわ いえみつ)(1604~1651)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の二男(嫡男)。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。徳川家の世継であった父・秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年(1617年)には西の丸へ移り、元和4年(1618年)には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の諱は金地院崇伝が選定した。崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった。元和8年(1622年)、鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明が務めた。元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下 を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。また、旗本を中心とする直轄軍の再編に着手した。同年5月には外様大名を招集し、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。寛永10年(1633年)福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下し黒田忠之の藩側の主張を認めている。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の浅井長政に権中納言を贈官した。[2] 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、新しい長崎奉行を旗本2人から任命し、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(「鎖国令」)を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(「第三次鎖国令」)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、また、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離され、寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられた。寛永14年(1637年)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意し、寛永16年(1639年)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令を発布した。寛永18(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは18世紀後半になってからである)。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれる。一方、寛永11年(1634年)に家光は上洛して、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った。ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。享年48。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた(日光東照宮)。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。




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「平安京物語」72「殿下乗合事件」平安時代末期の嘉応2

2017-09-30 10:11:13 | 温故知新
「平安京物語」72「殿下乗合事件」平安時代末期の嘉応2年(1170)7月から10月にかけて、摂政・松殿基房の一行が女車に乗った平資盛に遭遇し、基房の従者が資盛の車の無礼を咎めて恥辱を与え、その後、資盛の父・平重盛の武者が基房の従者を襲撃して報復を行った事件。『平家物語』では報復を行った首謀者を平清盛として改変され、「平家悪行の始め」として描かれている。『玉葉』『愚管抄』『百錬抄』などによると、事件は、嘉応2年(1170)7月3日に発生し、法勝寺での法華八講への途上、基房の車列が女車と鉢合わせをした。基房の従者達がその女車の無礼を咎め、乱暴狼藉を働いた。その車の主が資盛であることを知った基房は慌てて使者を重盛に派遣し、謝罪して実行犯の身柄の引き渡しを申し出る。激怒した重盛は謝罪と申し出を拒否して使者を追い返した。重盛を恐れた基房は、騒動に参加した従者たちを勘当し、首謀者の身柄を検非違使に引き渡すなど誠意を見せて重盛の怒りを解こうとした。しかし、重盛は怒りを納めず兵を集めて報復の準備をする。これを知った基房は恐怖の余り邸に篭り、参内もしなくなった。しかし、高倉天皇の加冠の儀には摂政として参内しないわけには行かず、10月21日参内途上で重盛の軍兵に襲われ、前駆5名が馬から引き落とされ、4人が髻を切られたという。基房が参内できなかったため加冠の儀は延期されたとされている。ただし、24日に基房と重盛は同時に参内しており、両者間の和解が成立したようである。また、同年12月に基房が太政大臣に就任したのは清盛が謝罪の気持ちで推挙したためとも言われている。嘉応2年(1170)10月16日、参内途上の基房の車列が鷹狩の帰途にあった平重盛の次男・資盛の一行と鉢合わせをした。資盛が下馬の礼をとらないことに怒った基房の従者達が資盛を馬上から引き摺り下ろして辱めを加えた。これを聞いた祖父の清盛は、10月21日に行われた新帝元服加冠の儀のため参内する基房の車列を300騎の兵で襲撃し、基房の随身たちを馬から引き摺り下ろして髻を切り落とし、基房の牛車の簾を引き剥がすなどの報復を行い、基房は参内できず大恥をかいた。これを聞いた重盛は騒動に参加した侍たちを勘当した他、資盛を伊勢国で謹慎させた。これを聞いた人々は平家の悪行を怒ると共に重盛を褒め称えた。『平家物語』における記述は、清盛を悪役、重盛を平家一門の良識派として描写する、物語の構成上の演出のための創作であると考えられている。


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『河内史跡巡り』法雲寺・大阪府堺市美原区今井にある黄檗宗

2017-09-30 10:08:04 | 温故知新
『河内史跡巡り』法雲寺・大阪府堺市美原区今井にある黄檗宗の仏教寺院。山号は大宝山。本尊は釈迦如来。河内西国霊場第六番札所。前身は、空海開基の神福山長安寺(ちょうあんじ)という名の真言宗の寺院であったが、元和六年(1620年)に、狭山池の堤防が決壊し、西除川の洪水により、寺地及び寺は流出した。明暦年間(1655年~1657年)頃に、曹洞宗の僧・宗月が、長安寺の寺地と寺を今井村中から譲り受け、寛文十一年(1671年)に地中より観音像を掘り出し、草庵に安置して再興した。翌、寛文十二年(1672年)に、宗月は宇治・黄檗山万福寺の開祖の隠元隆琦の弟子である慧極道明(えごくどうみょう、1632年~1721年)に寺地と寺を譲り、寛文13年(1673年)に慧極は幕府の許可を受け、寺号を大宝山法雲寺と改め、黄檗宗の寺となった。慧極は、延宝五年(1677年)に禅堂を、延宝8年(1680年)に鐘楼を建立し、その後、三十年をかけて大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣などの二十数棟を整備した。元禄10年(1697年)に、狭山藩(後北条氏の末裔が藩主)の5代藩主北条氏朝は、慧極と師弟の約を結び、以後、北条家の菩提所となった。墓地の中央には、第十一代藩主北条氏燕の墓がある。
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「神仏霊場巡り」生田神社・神戸市は三宮の中心街に位置す

2017-09-29 10:19:47 | 温故知新
「神仏霊場巡り」生田神社・神戸市は三宮の中心街に位置する生田神社の後ろの山は生田の森と言って平安時代には皇族や貴族に親しまれた。
祭神の稚日女尊は日本神話では、高天原の斎服殿で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。
または天照大神の妹と言う説もある。この社の由来については神功皇后が凱旋から難波に向かっていた際に神功皇后の船が進まなくなって、務古水門に還って占った所、天照大神の神託があって、それに従い稚日女尊が「活田の地に祀られた』に由来する。
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「四国遍路記」藤井寺(ふじいでら)は徳島県吉野川市鴨島町飯尾

2017-09-29 10:16:05 | 温故知新
「四国遍路記」藤井寺(ふじいでら)は徳島県吉野川市鴨島町飯尾にある臨済宗妙心寺派の寺院。四国八十八箇所霊場の第十一番札所。金剛山(こんごうざん)と号する。本尊は薬師如来。なお、四国八十八箇所霊場のうち、寺号の「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである。本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか・全長236キロ、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流している。阿波中央橋を南に渡り、およそ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見えてくる。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。だが、天正年間(1573〜92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍はすべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に『江戸泰平の群像』45・最上 義俊(もがみ よしとし)(1605~1632)は、江戸時代前期の大名で、最上氏の第13代当主。出羽山形藩の第3代藩主、のちに近江大森藩主。最上家親の嫡子。慶長10年(1605年)、山形藩の第2代藩主・最上家親の嫡子として生まれる。当初の名乗りは家信(いえのぶ)。「家」の字は徳川将軍家(家親に1字を与えた徳川家康であろう)からの一字拝領だったらしく、改易後に返上して義俊と改名している。元和3年(1617年)、父・家親が病死したため13歳で跡を継いだ。しかし、若年の義俊は藩主の器にはふさわしくないと先代・先々代からの家臣の反発を招き、こうした一部の家臣は、叔父の山野辺義忠が藩主たるべきと考えるようになった。義俊はこれに怒り、父の死因は義忠による毒殺であると幕府に訴えた(最上騒動)。幕府の調査では、「山野辺義忠擁立の要望は組織だったものではない」「先代の死は急死であるが自然死であった」そして「義俊の政治が極めて拙い」と結論づけた。幕府は、家康が一大名の代から最上家と同盟関係にあったことを考慮し、義俊と老臣、特に山野辺義忠擁立派の間を仲介しようとしたが、両派は譲り合わず(老臣の一部は「この主君では既に先が見えている」として協力を拒否した)、元和8年(1622年)8月21日、遂に改易された。義俊が壮年に達したのちには6万石を賜わるという沙汰ではあったが早世し、この約定が果たされることはなかった。出羽山形57万石を改易された後は、近江大森1万石に入封するが、寛永8年(1631年)に死去した。享年27。嫡男の義智に家督相続が認められるが、年少のため5000石に減封され、以後の最上家は交代寄合として存続した。義俊は暗君とされがちであるが、福島正則改易立ち会いの際に逆らうことはなく、若年ながら見事な統率を発揮したとして、秀忠が刀を与えたという。ただし、当時の義俊の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、後の経緯から推測することは可能である。


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京都散策・「矢田地蔵」矢田寺・京都市中京区・西山浄土宗

2017-09-29 10:10:21 | 温故知新
京都散策・「矢田地蔵」矢田寺・京都市中京区・西山浄土宗。本尊矢田地蔵。(代わり苦地蔵)洛陽四十八願地蔵の第28番札所、地蔵尊は一度お参りすると10種除8大恐怖、28種の利益が得られるという。「愛の願掛け地蔵」と呼ばれ良縁成就、所願成就、病気、学業、事業、商売繁盛に利益があるという。安土・桃山時代豊臣秀吉の土地改革で現在の地に移された。江戸時代寛文年間第112代霊元天皇の命によって、洛外・洛陽の48カ寺の地蔵尊を選び霊場の一つとなった。

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『江戸泰平の群像』45・最上 義俊(もがみ よしとし)(1605

2017-09-29 10:08:37 | 温故知新
『江戸泰平の群像』45・最上 義俊(もがみ よしとし)(1605~1632)は、江戸時代前期の大名で、最上氏の第13代当主。出羽山形藩の第3代藩主、のちに近江大森藩主。最上家親の嫡子。慶長10年(1605年)、山形藩の第2代藩主・最上家親の嫡子として生まれる。当初の名乗りは家信(いえのぶ)。「家」の字は徳川将軍家(家親に1字を与えた徳川家康であろう)からの一字拝領だったらしく、改易後に返上して義俊と改名している。元和3年(1617年)、父・家親が病死したため13歳で跡を継いだ。しかし、若年の義俊は藩主の器にはふさわしくないと先代・先々代からの家臣の反発を招き、こうした一部の家臣は、叔父の山野辺義忠が藩主たるべきと考えるようになった。義俊はこれに怒り、父の死因は義忠による毒殺であると幕府に訴えた(最上騒動)。幕府の調査では、「山野辺義忠擁立の要望は組織だったものではない」「先代の死は急死であるが自然死であった」そして「義俊の政治が極めて拙い」と結論づけた。幕府は、家康が一大名の代から最上家と同盟関係にあったことを考慮し、義俊と老臣、特に山野辺義忠擁立派の間を仲介しようとしたが、両派は譲り合わず(老臣の一部は「この主君では既に先が見えている」として協力を拒否した)、元和8年(1622年)8月21日、遂に改易された。義俊が壮年に達したのちには6万石を賜わるという沙汰ではあったが早世し、この約定が果たされることはなかった。出羽山形57万石を改易された後は、近江大森1万石に入封するが、寛永8年(1631年)に死去した。享年27。嫡男の義智に家督相続が認められるが、年少のため5000石に減封され、以後の最上家は交代寄合として存続した。義俊は暗君とされがちであるが、福島正則改易立ち会いの際に逆らうことはなく、若年ながら見事な統率を発揮したとして、秀忠が刀を与えたという。ただし、当時の義俊の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、後の経緯から推測することは可能である。


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『歴史の時々変遷』(全361回)304“宝暦治水事件” 「宝暦治水事件」江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川

2017-09-29 10:05:18 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)304“宝暦治水事件”
「宝暦治水事件」江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。1735年(享保20年)、美濃郡の代官であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難の幕府の許可が下りなかったとされる。このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。幕府は延享4年(1747)に二本松藩主丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で御手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。工事は二期に分けられ第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧が行われ、第二期は治水を目的とした工事が行われた。第二期の工事は輪中地域の南部を四つの工区に分けて行われた。一之手は西高木家が奉行を務め、桑原輪中(岐阜県羽島市)から神明津輪中(愛知県稲沢市祖父江町)までで、木曽川と長良川を繋ぐ逆川 (岐阜県)に木曽川から長良川への流入を阻む洗堰を設け、木曽川に猿尾堤を築く工事を含んだ。二之手は笠松郡代が奉行を務め、森津輪中(愛知県弥富市)から田代輪中(三重県木曽岬町)を工区とし、筏川の開削と浚渫が行われた。三之手は東高木家が奉行となり墨俣輪中(岐阜県大垣市)から本阿弥輪中(岐阜県海津市)を担当として、長良川と揖斐川を繋ぐ大榑川に洗堰を設けて長良川から揖斐川への流入を抑える工事を含む。四之手は北高木家が奉行で金廻輪中(岐阜県海津市)から長島輪中(三重県桑名市)に至る地域を含み、木曽川と揖斐川の合流地点に食違堤(食違堰)を設けて木曽川から揖斐川への流入を抑えることを狙った。揖斐川西岸への水の流入を防ごうとすると長良川の常水位が上がり、その沿岸地域が水害の危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入を減らそうとすると木曽川沿岸で溢流の可能性が高まるという濃尾平野の西低東高の構造により輪中同士および尾張藩の利害が対立し、河川工学や土木工学が未発達だったこともあっていずれの工事も河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりすることはできなかった。1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。 度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に当てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関して経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった。さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあったことにより当初予想されたよりも大量の費用が必要となった。宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われるお手伝い普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。 幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。 ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。



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「平安京物語」71「永久の強訴」天永4年・永久元年(1113)、興福寺の末寺・清水寺の別当に延暦寺で出家した仏師・円勢が任じられた

2017-09-29 10:01:32 | 温故知新
「平安京物語」71「永久の強訴」天永4年・永久元年(1113)、興福寺の末寺・清水寺の別当に延暦寺で出家した仏師・円勢が任じられたことから閏3月20日に数千人の興福寺大衆が人事の停止を求めて行われた強訴のこと。円勢は法勝寺・尊勝寺の仏像群の造立を主導しており、白河法皇への奉仕に対する論功行賞ともいえる強引な人事だった。法皇は譲歩し一旦は終結するかに思われたが、興福寺大衆が上洛の折に祇園社神人に暴行を働いたため、29日に延暦寺大衆が報復する。清水寺の堂舎を破壊して神輿をかつぎ、院御所である大炊殿におしかけ興福寺の権少僧都・実覚の流罪を要求した。出羽守・源光国、丹後守・平正盛、左衛門尉・源為義が院御所・内裏を警固した。その場しのぎの対応で法皇が実覚処分の要求を飲んだことから興福寺が激怒、天台座主・仁豪と法性寺座主・寛慶の流罪、祇園社を春日大社の末社にすること、実覚の配流停止といった3ヵ条を奏上として提出した。大衆の上洛を防ぐため、宇治に平正盛・平忠盛・源重時が、西坂本に源光国・藤原盛重が配備された。宇治において双方が対峙中にたまたま現れた鹿(鹿は春日大社明神の使として信仰されていた)を兵士が射ようとしたことから合戦となり、大衆側に多数の戦死者が出た。宇治に出動した正盛・忠盛・重時は検非違使だったが、検非違使別当・藤原宗忠の指示を介さず法皇の命令で派兵された。検非違使庁・諸衛府の形骸化、院北面の拡大を示す事件だった。


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「二十二社巡り」山城国一ノ宮・賀茂御祖神社・主祭神・玉依姫命・賀茂建角身命

2017-09-28 10:44:42 | 温故知新
「二十二社巡り」山城国一ノ宮・賀茂御祖神社・主祭神・玉依姫命・賀茂建角身命
 京都府京都市左京区下鴨泉川町59・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・ユネスコ「世界遺産」に登録されている。下賀茂神社も上賀茂神社同様賀茂氏の氏神を祀る神社である。
祭神祀る社殿としては、東殿には賀茂皇大神・玉依媛命。西殿には賀茂建角身命が祀られている。
何と言っても京都三大祭りの「葵祭り」で古式豊かな平安絵巻の舞台でもある。上賀茂神社の賀茂別雷命の母が玉依姫命、玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀る為、下賀茂神社の社名が「賀茂御祖神社」と呼ばれている。
社伝に依れば神武天皇時代に本社の重義たる御蔭祭りの奉仕される摂社の地に降臨されたとする。
本社は天平年間に賀茂神社(上賀茂神社)から分立したとする説がある。社名が示す通り鎮座の別雷神の母神、外祖父を祀り、代々子孫の賀茂一族が社家として他家を交えず明治の新制度まで引き継いだ。
奈良時代より神威は高く、欽明天皇御世山城国をして祭を行しめたと言う。延暦十三年(794)正二位。桓武天皇の親拝があった。平城天皇の御世に勅祭とし正一位に昇格した。『延喜式』に依れば名神大社、月次、相嘗、新嘗など祈願奉幣が有った。
山城一ノ宮として朝野の崇敬厚く、二十二社の内上七社に入り、豊臣秀吉からは五百四十石の朱印を受けた。
境内には末社・摂社が点在し、河合神社・式内社(名神大社)鴨長明所縁の社がある。その他、出雲井於神社。三井神社・賀茂波爾神社・御蔭神社・日吉神社・貴布祢神社などがある。
 また八咫烏は賀茂建角身命の化身と言われ境内には「糺(ただす)の森」みたらし池がある。
上賀茂・下賀茂神社も成り立ちが同じであるが、天平年間に分離されたと言われ、弘仁元年(810)以来斎院が置かれて、皇女が斎王として賀茂社に置かれた。
★『古事記』に出てくる神として、賀茂建角身命は八咫烏の化身とされ、神武天皇の東征で大和に向かう熊野で危機を救った金鵄八咫烏として崇められている。
賀茂(かも)建(つ)角(み)身命(みこと)は日本神話に出てくる神で、山城の賀茂氏(賀茂県主)の祖師である。賀茂御祖神社(下賀茂)の祭神である。
『新選姓氏録』に依れば賀茂建角身命は神魂命の孫である。また神武天皇の東征の際天照大神・高木神の命を受けて日向の曾の峰に天下り、大和は葛木山に至り、八咫烏に化身をして神武天皇を先導した。
その後『山城風土記』には、大和から葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、高野川と鴨川の合流点に鎮まった。賀茂建角身命には二柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主になる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神を床の近くに置いていた所、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を妊娠をした。



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「四国遍路記」切幡寺(きりはたじ)は徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場

2017-09-28 10:40:29 | 温故知新
「四国遍路記」切幡寺(きりはたじ)は徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第十番札所。得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。本尊真言:おん ばさら たらま きりく・切幡山の中腹、標高155メートルに境内がある。国指定重要文化財である大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には四国山脈の雄大な山々が連なる。古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。麓には遍路宿があり、巡礼用具店などがならぶ門前町となっている。「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。




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『江戸泰平の群像』44・・近衞 信尋(

2017-09-28 10:27:32 | 温故知新
『江戸泰平の群像』44・・近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長4年5月2日(1599年6月24日) - 慶安2年10月11日(1649年11月15日))は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。後陽成天皇の第四皇子。五摂家のひとつ近衛家の養子になり、第19代目当主となる。これにより近衛家は皇別摂家となった。慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は二宮(にのみや)。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ、公卿に列する。慶長12年(1607年)に権中納言、慶長16年(1611年)に権大納言、慶長17年(1612年)には内大臣となる。慶長19年(1614年)右大臣に進み、元和6年(1620年)には左大臣、元和9年(1623年)には関白に補せられる。和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。近衛前久や信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した。書道は養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家だった。茶道は古田重然に学び、連歌も巧みだった。実兄にあたる後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。
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