「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

神仏霊場巡り」道明寺天満宮・(梅の名所)学問の神、菅原道真を祭神とする道明寺天満宮は近鉄南大阪線は道明寺駅

2017-07-31 04:41:14 | 温故知新
「神仏霊場巡り」道明寺天満宮・(梅の名所)学問の神、菅原道真を祭神とする道明寺天満宮は近鉄南大阪線は道明寺駅から歩いて数分の所に鎮座する。この辺りは菅原氏の祖先の領地と云われ、もとは古墳造営に関わった土師氏の氏神が祀られていた。天穂日命は土師氏の先祖神である。道真の出身母体の菅原氏は東の石川左岸にかけて一帯に、氏神の他土師寺の氏寺も建立されていた。土師八嶋が聖徳太子の発願に応えて、自宅を喜捨てした寺で規模は東西320メートル・南北640メートルの広大境内の中に塔・金堂・講堂は一直線に並ぶ天王寺式の伽藍であったことが遺構で確認された。道真が大宰府に流される際に同寺の伯母覚寿尼に訪れ別れを惜しみ自分の姿を刻んで残したという。その後も道明寺と天満宮は一体となって栄えたが、戦国時代に兵火で焼失し、信長、秀吉の寄進と德川家からの一七四石寺領で安堵された。明治の神仏分離令後、寺と神社が別けら
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「京都古社寺探訪」萬福寺・京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。

2017-07-31 04:40:16 | 温故知新
「京都古社寺探訪」萬福寺・京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。
日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。
開山・隠元隆琦は中国明時代の万暦二十年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。
隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。隠元が招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。
当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。
隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。
そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。
隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。
承応三年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田の普門寺に住した。
隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。
万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。
ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。
寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝七年(1679年)頃にほぼ完成した。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『戦国時代の群像』175(全192回)「毛利秀元」(1579~1650)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主

2017-07-31 04:39:17 | 温故知新
『戦国時代の群像』175(全192回)「毛利秀元」(1579~1650)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主。毛利元就の4男・穂井田元清の長男。母は村上通康の娘・妙寿院。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。子に光広、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。天正7年(1579年)11月7日、穂井田元清の長男として備中猿掛城にて生まれる。天正13年(1585年)、長く実子に恵まれなかった従兄である毛利輝元の養子となり、天正18年(1590年)に元服。天正20年(1592年)4月11日、肥前名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った豊臣秀吉と面会、輝元の継嗣と認められ、豊臣姓・羽柴氏と偏諱の「秀」の字を与えられ[1]秀元と名乗る。文禄の役に参戦し、朝鮮に渡海。文禄2年(1593年)6月に宇喜多秀家・伯父の小早川隆景らと共に晋州城を攻略した(晋州城攻防戦)。慶長の役では病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となった。文禄4年(1595年)に輝元に松寿丸(後の秀就)が生まれると世嗣を辞退した。同年2月に秀吉の養女・大善院(姪、豊臣秀長の娘)と結婚している。慶長の役では、慶長2年(1597年)に従兄の吉川広家らと共に再度朝鮮に渡り、加藤清正、黒田長政、鍋島直茂らと朝鮮軍の籠もる黄石山城を陥落させた(黄石山城の戦い)後、全羅道、忠清道を平定。天安に陣していた時、稷山で黒田長政が明軍と交戦中との急報を受けると、即刻救援に駆けつけ明軍の背面より突撃して撃退した(稷山の戦い)。冬の到来を前に朝鮮の南岸地域に撤収して蔚山城の築城に加わっていたが、完成が目前となると、秀元は武器・兵糧を釜山に輸送し蔚山を引き払い帰国の準備をすすめていた。しかし秀元の去った後の蔚山城を明・朝鮮軍が攻撃、残留していた毛利軍の宍戸元続・桂孫六らが加藤清正らと共に食料備蓄のない籠城戦で窮地にたたされていたが、他の在鮮諸将と共にこれを救援し、明・朝鮮軍を大破した(蔚山城の戦い)。日本帰国後の慶長4年(1599年)に独立大名として別家を創設し、長門一国・周防吉敷郡及び父の遺領であった安芸佐伯郡を含めた合計17万石余を分知された。但し若年のため、安国寺恵瓊が後見人となっていた。関ヶ原の戦い時、毛利氏の運営は秀元及び恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利氏は西軍に属したが、輝元は西軍の総大将として大坂城に入っていたので、実際に関ヶ原へ赴いたのはこの3人であった。広家と毛利家家老の福原広俊は西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していた。秀元自身には戦意があったとされるが、広家がそれを押し留めた。結果、毛利家の当主が傍観したため恵瓊・長宗我部盛親・長束正家など他の南宮勢も秀元が東軍に内通してるのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、自身らも傍観せざるを得なくなった。戦局が西軍の敗色濃厚となると戦わずに戦場を離脱したが、東軍の追撃を受ける。戦後、大坂城に撤退した秀元は立花宗茂と共に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はこれに応じず、城を退去してしまった。一方で、秀元は輝元の大坂入城時にはその行動を諌めており、開戦当初は徹底抗戦派ではなかったと考えられる。戦後、毛利一門は大減封されたが、輝元より長門国豊浦郡・厚狭郡に6万石を分知されて櫛崎城に移り長府藩主となり、東の周防国岩国領に封じられた吉川広家と並んで西の守りを任された。当初は輝元の信任と広家の後見を受けた福原広俊が本家の長州藩の政治を任されたが、藩政を仕切った広俊とは不仲で、慶長10年(1605年)に萩城築城中に起こった熊谷元直・天野元信殺害事件(五郎太石事件)に絡んで広家・益田元祥と和睦し、慶長18年(1613年)に継室として徳川家康の養女を娶り(正室の大善院は慶長14年(1609年)に死去)、同年に広俊と共に若年の秀就の後見を行い、大坂の陣にも参戦するなど江戸幕府から信頼を得ることにも尽力した。しかし一方で、他の家臣団に内密で輝元・秀就と共謀して内藤元盛(佐野道可)を大坂城に入城させ、それと知った広俊は広家宛の手紙で秀元を非難している。事件発覚後の慶長19年(1614年)に吉川広家は嫡男の広正に家督を譲って隠居、大坂の陣後の元和2年(1616年)に福原広俊も辞任、代わって秀元が秀就の名代として幕府との折衝を務め、老中・土井利勝と結んで藩政に積極的に関与していった。元和9年(1623年)4月20日に2代将軍・徳川秀忠から仕置を行うよう命じられ、9月23日に輝元が秀就に家督を譲って隠居、10月4日に正式に秀元の仕置も決定、益田元祥・清水景治らと共に長州藩の藩政を総覧している[5]。しかし、寛永7年(1630年)頃から秀就との間に軋轢が生じるようになる。対立の原因は秀元が宗主権を主張したり、嫡男・光広と秀就の娘の縁談を反故されたことなどが要因であった。不和は深刻化し、寛永8年10月5日に後見役を辞任、姻戚関係にある永井尚政に打診して本家とは別個に朱印状を賜ろうとしたり、寛永11年(1634年)には江戸城普請の手伝いを拒絶するなど秀就に反抗的な振る舞いを見せるようになった。ついには秀就の弟で婿の毛利就隆を誘って長州藩からの独立を画策し、同年閏7月に3代将軍・徳川家光による朱印状交付が行われると、朱印状を受け取り独立しようとして実現せず、幕府からの仲裁を受けている。秀元の宗家を軽んじた行状に激怒した秀就は秀元を処罰することも考えたが、秀元は御伽衆として将軍・家光と親密な関係にあったため、掣肘は容易でなかった。2年後の寛永13年(1636年)5月に幕府の仲裁で秀就と和解、晩年は江戸に住み、家光の御伽衆となる。慶安3年(1650年)閏10月3日、江戸で死去。享年72。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『歴史の時々変遷』(全361回)246“大坂夏の陣” 「大坂夏の陣」和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが

2017-07-31 04:38:23 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)246“大坂夏の陣”
「大坂夏の陣」和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年3月15日(1615)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大坂城を去るものが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8000に減少した。一方、大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む事が決定された。 なおこの頃、織田有楽斎は大坂城を退去している。樫井の戦い、豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死した(樫井の戦い)。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行う。道明寺・誉田合戦5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出したが、伊達政宗、松平忠明ら2万以上から攻撃を受け、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。八尾・若江合戦
同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村は藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦の末に討死した。幕府方優勢で、大坂城近郊に追い詰められる。天王寺・岡山合戦5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣。これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。(大阪城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り城に火を放ち逃亡を図った。しかし逃亡は叶わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている。翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した。現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した福岡藩主黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた大作の屏風絵「大坂夏の陣図屏風」通称、「黒田屏風」(重要文化財)の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。その悲惨さが語られている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「平安京物語」11“伊予親王の変”(いよしんのうのへん)は、大同2年(807年)に起こった政変。伊予親王は桓武天皇の第三子で桓武天皇は寵愛

2017-07-31 04:37:17 | 温故知新
「平安京物語」11“伊予親王の変”(いよしんのうのへん)は、大同2年(807年)に起こった政変。伊予親王は桓武天皇の第三子で桓武天皇は寵愛された。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。桓武天皇の第三皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けていた一方、外伯父(母吉子の兄)の藤原雄友は大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、大同元年(806年)から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保っており、大同2年(807年)5月には、神泉苑に行幸した平城天皇に対して献物を行い、終日宴会にも参加している。ところが、同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ謀反の首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を捕縛し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。後に二人の無罪が認められ、墓は山陵とされた。この事件で宗成は流刑となり、伊予親王の外戚にあたる藤原雄友も連座して伊予国へ流罪に処された。また、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡が解任された。この事件により大官が2人も罰せられた藤原南家の勢力が大幅に後退した。なお、宗成は藤原仲成・薬子兄妹に唆されたともいわれているが、詳細は不明。但し、この事件以降平城天皇と仲成・薬子との結びつきはさらに強固なものとなったらしく、尚侍であった薬子の昇進を考慮して、事件の直後に尚侍の官位相当が従五位から従三位に引き上げられた。
※藤原 宗成(ふじわら の むねなり、延暦4年(785年) – 天安2年5月27日(858年7月11日))は、平安時代初期の貴族。藤原北家、左大臣・藤原永手の曾孫。参議・藤原家依の孫。従五位下・藤原三起の長男。母は犬養伯女。位階は従五位上。大同2年(807年)に平城天皇の弟である中務卿兼大宰帥・伊予親王に対して密かに謀反を勧めたとして、捕縛されて左近衛府に収監される。宗成は左衛士府で尋問を受けると、謀反の首謀者は伊予親王であると答えた[3]。これを受けて、平城天皇は左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足等に兵150名に率いらせて藤原吉子・伊予親王母子を捕らえて川原寺に幽閉する。母子は飲食を断たれ、間もなく毒を仰いで自殺した。また、宗成自身も流刑に処せられた(伊予親王の変)。宗成は藤原式家の藤原仲成に唆されたともいうが、定かではない。その後、流刑から赦されたらしく、天長6年(829年)正六位上から従五位下に叙爵、天長9年(832年)従五位上に叙されるなど、淳和朝でわずかに昇進している。承和7年(840年)淳和上皇の崩御に際して、御前次第司次官に任ぜられた。文徳朝末の天安2年(858年)5月27日卒去。享年74。最終官位は散位従五位上。伊予親王の変以降、世間から見捨てられたような状態となり、貧困のうちに没したという


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『浪速史跡めぐり』五智光院・文治三年(1187)後白河法皇が四天王寺に於いて灌頂を受けた。その際に灌頂堂として建立

2017-07-31 04:35:57 | 温故知新
『浪速史跡めぐり』五智光院・文治三年(1187)後白河法皇が四天王寺に於いて灌頂を受けた。その際に灌頂堂として建立したのが始まりとされ、元和九年(1623)に徳川秀忠公が再建をした。元は極楽門の南側に、現在は弘法大師像付近に位置し、明治三四年(1901)現在の地に移築した。本尊五智如来・(阿閦如来・阿弥陀如来・宝生如来・大日如来・不空成就如来)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「一ノ宮巡り」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命・広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社

2017-07-30 05:00:32 | 温故知新
「一ノ宮巡り」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命・広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社
祭神は大吉備津彦命で第七代孝霊天皇の第三子、四将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定した。相殿には大日本根子彦太瓊命・父孝霊天皇・細比売命(孝霊天皇の皇后)、稚武吉備津彦命(大吉備津彦命の弟)この神社は備中一ノ宮から分祀されたものと思われる。伝承に依れば吉備国が三国に分国された際に大同元年(806)に吉備国一ノ宮から勧請された。この神社は『延喜式』に記載されていないので、実際の創建はもっと後年であろうと思われている。長和三年(1014)には神仏習合の時代背景もあって褞日と言う修行僧が社前四方利益のやめの法華八講を行なった。この時代、神祇官に年貢を納める慣例になっていて、その点で中央に良く知られていた。後白河天皇の歓喜元年(1229)に起った社殿焼失事件が「百錬抄」に記載されていたりする。武門の時代になっても深く崇敬され社領を寄進され、強力な神人を従えて、時として近隣の豪族と衝突することが有った。貞和二年(1346)高師泰が守護佐々布次郎に吉備津神社の神人の横暴を止めるべく命令を下している。室町時代には神仏習合の影響で僧持範によって三重塔が建立されて、天文九年(1540)には八尾城主によって梵鐘が寄進された。慶長五年(1600)には福島正則によって、元和五年(16199)には水野勝成によって社領が寄進された。
★祭神の大吉備津彦命は『記紀』ともキビツヒコで表記は『日本書紀』彦五十狭芹彦命・吉備津彦命で『古事記』では比古伊佐勢理毗古命・大吉備津日子命となっている。
第七代孝霊天皇の夜麻登登母母曾毗命の間に生まれた御子である。『古事記』では孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命と共に四将軍の一人として派遣されたとし、播磨(針間)の氷川之前に忌瓮をすえ播磨の道を平定された。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「真言宗十八本山」教王護国寺・東寺・仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。

2017-07-30 04:59:35 | 温故知新
<font size="4">「真言宗十八本山」教王護国寺・東寺・仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。
本尊は薬師如来。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、二十一世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という二つの名称がある。八世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という二つの寺院の建立が計画された。
これら二つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦十五年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官となって建立したという。
藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。
それから二十数年後の弘仁十四年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。
この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
文明十八年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『戦国時代の群像』174(全192回)「徳川秀忠」(1579~1632)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍

2017-07-30 04:58:34 | 温故知新
『戦国時代の群像』174(全192回)「徳川秀忠」(1579~1632)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹している。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。天正18年(1590年)、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛して元服、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより、離縁となる。秀吉から、豊臣姓を与えられる[注釈 1][1]。その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。文禄4年(1595年)には秀吉の養女・江と再婚する[注釈 2]。秀吉から、羽柴の名字を与えられる[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされている。慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実のものとなる。そしてわずか2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された[2]。将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との接渉を担当した。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。なお、将軍襲職の際に源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある[3]。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子・忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方、弟・松平忠輝、甥で娘婿でもある松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。元和9年(1623年)に将軍職を嫡男・家光に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。寛永3年(1626年)10月25日から30日まで後水尾天皇の二条城への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は天皇の外戚となった。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年1月に薨去。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『歴史の時々変遷』(全361回)245“天王寺・岡山の戦い” 「天王寺・岡山の戦い」慶長20年(1615)の大坂夏の陣における戦いである

2017-07-30 04:57:43 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)245“天王寺・岡山の戦い”
「天王寺・岡山の戦い」慶長20年(1615)の大坂夏の陣における戦いである。5月7日(6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布いた。幕府方の軍勢は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始した。豊臣方、天王寺口は茶臼山に真田信繁(幸村)、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3,500、茶臼山前方に信繁寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000、茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢と、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など6,500が布陣した。岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。茶臼山北西の木津川堤防沿いに別働隊明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊(計15,000?)が布陣した。幕府方、茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配したが、松平忠直勢15,000が抜け駆け[1]をして大和路勢前方に展開し真田勢と対峙した。天王寺口先鋒は本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら計5,400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら計5,300。その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直(15,000)、徳川頼宣(家康本陣と同一か?)が本陣後備として布陣した。岡山口先鋒は前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢計7,500と細川忠興(兵数不明)。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明(兵数不明)が参陣していたといわれるが詳細不明。豊臣方はこの決戦にあたり、以下の作戦を採ることとしたといわれる。敵を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、誘引されてきた敵を順次叩く。敵の陣形が伸びきって本陣が手薄になったところで、別働隊の明石全登を迂回して家康本陣に突入させ(あるいは別働隊が敵本陣の背後にまわったところで狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟撃し)、家康を討ち取る。また、豊臣秀頼に出馬を請い、全軍の士気を高めようとした。「天王寺口の戦い」正午頃、豊臣方毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方本多忠朝勢を銃撃した。これをきっかけに合戦が始まると、これまでに例を見ない兵力と火力がぶつかり合う戦場は混乱に陥った。毛利勢は、忠朝を討ち取り幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩[3]勢が駆けつけたが、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等による側面からの攻撃を受け[4]忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱後に死亡した。二番手榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵が雪崩込んだ三番手も同様の事態に陥ったことで家康本陣は無防備となった。真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返した。これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走り、文殊院勢誉に制止されたという(一説には平野方面に逃げたともいわれる)。しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。信繁は安居天神で休息をとっていたところを討ち取られ、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勢も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり城内に撤退した。別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃した後姿を消した。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃命令を出した。立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするのを、本多正信が大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はないと諫め止めたという。黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。旗奉行三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。大野治房は、敗兵を収容しつつ城内に撤退した。この間、後詰大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康、秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。この合戦において徳川方が苦戦したのは勝敗の帰趨を制するといわれる先鋒戦で徳川方が毛利勢に敗戦した為で、これは徳川方が包囲等の兵力の優位を生かした作戦を行えず、前線ではほぼ同数の戦闘であった事、そして豊臣方が野戦築城を構築し、そこへ徳川方が攻め寄せるという長篠の戦いや関ヶ原の戦いと同様の形態が行われた結果、徳川方先鋒は崩れ、そこに豊臣方が突撃したという流れが考えられている。他にもこれまで前例のない大軍(動員兵力では小田原征伐・文禄・慶長の役も匹敵するが一箇所で野戦を行ったという意味では本合戦が最大)による統率・機動の混乱、冬の陣から間を置かぬ再度の動員で幕府や諸大名の財政が逼迫する事を懸念した家康が早期決戦を急いだ事が挙げられる。無論、豊臣方の完全に後が無い事による自暴自棄ともいえる奮戦振りも、ここまで徳川方が苦戦した理由の一つに数えられる。家康の合戦の中で、人的被害(討死)が一隊の将にまで及んだのもこの合戦のみである。なお本合戦はその激しい内容とは裏腹に、正午の開戦から大坂方が総崩れしたのが15時という短時間で終結をしている(大坂城が炎上したのは16時)。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「平安京物語」10“蝦夷の英雄アテルイ”(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に胆沢

2017-07-30 04:56:06 | 温故知新
「平安京物語」10“蝦夷の英雄アテルイ”(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された。史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。本項ではアテルイと共に処刑されたモレ(母礼)についても記載する。アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の岩手県奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があったが、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇山を植山とする説は消えた。坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を期し1994年(平成6年)11月に、「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」と記された碑が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」と記された石碑[7]が建立されている。2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に併せ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に「阿弖流為 母禮 慰霊碑」と記された石碑が建立されている。この慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速史跡めぐり」真光院(しんこういん)は大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町にある和宗の仏教寺院。寺伝によれば、推古天皇2年(594年

2017-07-30 04:54:23 | 温故知新
「浪速史跡めぐり」真光院(しんこういん)は大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町にある和宗の仏教寺院。寺伝によれば、推古天皇2年(594年)聖徳太子の草創で、用明天皇追孝の念仏法会を修した折に、天竺祇園精舎の西北角に当たる無常院に模して、四天王寺の無常院菩提所と定めた。本尊を引導仏と称した。 当院に聖徳太子が六万体の石地蔵尊を刻んで納めたといい、六万体町という地名にその名を残している。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「二十二社巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている

2017-07-29 04:44:47 | 温故知新
「二十二社巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている。当社の創建については延暦三年(784)長岡京遷都の際に藤原氏出身の桓武天皇の后、藤原乙牟漏が、氏神の春日社への参詣が容易になくなり、この地に春日明神を勧請したことに始まる。平安遷都後に嘉祥三年(850)左大臣藤原冬嗣が社殿を造営して、地名をとって大原野神社と称した。その後藤原順子が行啓、円融天皇が行幸と共に摂関家をはじめとする崇敬が高まり繁栄をした。寛弘二年(1005)一条天皇の中宮彰子の行啓は有名で、父藤原道長を始め、紫式部らが供奉し、華やかな行列に目を見張らせた。境内の長い参道を行くと右手に奈良の猿沢の池に似せた鯉沢池があって両側に深い樹林の奥に赤い本殿が見える。訪れる人もまばらで静寂が辺りを包んでいる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える

2017-07-29 04:43:15 | 温故知新
「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。
「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称であった。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。
吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、七世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。
金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平六年(894年)、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。
両部曼荼羅密教末法思想浄土信仰金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇、藤原道長、藤原師通、白河上皇などがいる。
このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している。
金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。
修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。
この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。
金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。
近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗の傘下に置かれることとなった。
明治維新に入り修験道信仰は多大な打撃をこうむった。1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年全国各地で行われてきた神仏習合の信仰は廃止され、寺院は廃寺になるか、神社に変更し生き延びるほかなかった。
1872年(明治五年)には追い討ちをかけた形で修験道廃止令が発布され、1874年(明治七年)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれた。
僧侶・修験道者らの嘆願により、1886年(明治十九年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続が果たせた。
ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され現在に至っている。太平洋戦争後の1948年(昭和二十三年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和二十七年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『戦国時代の群像』173(全192回)前田利政(1578~1633)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名

2017-07-29 04:41:53 | 温故知新
『戦国時代の群像』173(全192回)前田利政(1578~1633)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。前田利家の次男、母はまつ。天正6年(1578年)、織田氏の家臣・前田利家の次男として尾張国荒子城(愛知県名古屋市)にて生まれる[1]。父・利家が豊臣氏に従い加賀百万石の大名になると、利政もこれに伴い文禄2年(1593年)に能登国七尾城の城主となる。同年、豊臣姓を下賜された。 さらに、文禄4年(1595年)、羽柴氏を与えられた。慶長4年(1599年)に父より能登に所領を分与されて大名となった。また、同年に大坂城の詰番衆となる。利家死後の慶長5年(1600年)、豊臣政権五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる)。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣するが、利政は動かなかった。その原因は妻子が三成の人質となっていたためともいわれる(『象賢紀略』)、また利政は家康に対する反発心から石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。見瀬和雄は利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開し、利長が出陣したために、病気と偽り出陣しなかったのではないかとし、石田方であったとする説を否定している。関ヶ原の戦い後、西軍が敗れたために利政は能登の所領を没収され、その所領は兄に与えられた。その後は京都の嵯峨に隠棲し、宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んだという。戦後、西軍の誘いに乗らなかった利政の行動に家康は気に入り、利政を10万石の大名取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。寛永10年(1633年)、京都の町人・角倉与市邸(長女の婚家先)で死去。享年55。墓所は京都府京都市北区の大徳寺。なお、利政の子・直之は叔父の加賀藩主・前田利常に仕え、前田土佐守家を立てた。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加