「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史は語る古代の世界・   第一章、神武東征伝説の謎 ②          

2016-02-29 04:34:40 | 歴史研究
歴史は語る古代の世界・
  第一章、神武東征伝説の謎 ②          
「日本書記」磐余彦は兄の五瀬命らと船に乗り東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれ、姫の侍臣の天種子命と娶せた。
次ぎに筑紫の嵐之水門を経て(岡田宮)に1年住み後、安芸国の多祁理宮(埃宮)に7年、吉備の高島宮に8年滞在し船と兵糧を蓄えた。
船団を出し速吸之門に来た時に国津神の珍彦(ウズヒコ)後の推根津彦を水先案内とした。戌午年2月、浪速国に至り、3月河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先に進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中洲へ入ろうとした。
この地を支配する長髄彦が群衆を集めて孔舎衛坂*(東大阪市に現存)で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
磐余彦は日の神の子孫が自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、楯を並べて雄叫びを上げて士気を鼓舞した。
この地を楯津(東大阪市に現存)と名付けた。
5月磐余彦は船を出し山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊の竃山で死去した。名草戸畔と言う女賊を誅して、熊野へて、再び船を出すが暴風に遭った
陸でも海でも進軍を阻まれことに憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。
磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、天皇は皇子手研耳命と軍を率いて  土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
東征が遅々として進まないのを憂いた天照大御神は、武甕槌神と相談し、霊剣を熊野の住民の高倉下*(高い倉を管理する者)に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。
磐余彦一行の東征の進行に障壁に憂いた天照大御神は剣を授けたが、峻険な山地に案内役に八咫烏を送り込んで菟田の地に入った。
菟田の支配する兄猾(エウカシ)弟猾(オトウカシ)を呼んだが兄のエウカシは来たが弟のオトウカシは参上し、兄のエウカシを殺害する計画を打ち上げた。
これに対して磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住民はみな従った。
磐余彦は高倉山に登ると八十梟師(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)の軍勢が充満しているのは見えた。
磐余彦は困って居た所、高皇産霊尊が夢に現れ「天の香具山の社の土を取って瓦80枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を作り「天神地祇」をお祀りせよ、そして身を清め呪詛せよ」のお告げが有った。
その言葉に従って天平瓦八〇枚と御神酒を器を作って天神地祇を祀り勝利した。また高皇産霊尊は見えない神々を現れように名付け祀るようにお告げをした「厳瓮」として、磐余彦は厳瓮の供物を召し上がり、兵を挙げて、まず八十梟師を国見丘で撃って斬られた。
この辺りから磐余彦が天皇に、軍勢を皇軍となっている。皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとして、使者を送った。まず兄磯城を呼んだ。兄磯城は答えなかった。
兄弟は全く違う対応をして兄磯城は使いの頭八咫烏を疎んじ弓を構えて射った。
次ぎの弟磯城に頭八咫烏が鳴いて知らせると「自分は天神が来られたので恐れ畏まって烏を鳴くのは良いことだ」と言って、皿8枚に食物を持って、もてなした。
弟磯城の言うには兄磯城は天神がくると聞いて八十梟師を集めて戦う用意していると知らせた。弟磯城の呼びかけにも応じなかったので、椎根津彦が計略を仕掛けて「女軍を差し向け、忍坂から進み様子を見て強兵を出し墨坂を目指し、宇陀川の水を取り、敵の火に注ぎ不意を突けばきっと破れるでしょう」天皇はその謀に苦戦はしたが、男軍と挟み撃ちで勝利を治め、梟雄兄磯城を斬った。
皇軍はついに長髄命を討つことになった。
戦いに苦戦をし、勝つことが出来ず、その時急に空が暗く雹が降ってきた。そこへ金色に光り輝く鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。
その光輝気、雷光のようであった。長髄彦の軍勢は眩惑され戦えなかった。
長髄命は使いを送って、天皇に言上し「「昔、天神の御子が天磐船に乗って天降れました。櫛玉饒速日命といいます。この人が我が妹の三炊屋媛を娶って子が出来ました。名を可美真手命と言います。
自分は鐃速日命を君として使えています。一体天神は二人居るのでしょうか。」と天神の偽物が居るので天皇に問うた。
「天神の皇子は多く居る。お前が君とする天神ならば表(しるし)がある」長髄命は饒速日命の羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)を見て「偽りではない」長髄命は恐れ入り畏まったが、長髄命のねじれと懐疑心は治りそうもないこと知って、殺害された。
これに対して饒速日命は天から降りたと知って、忠誠心を尽くしたので寵愛された。饒速日命(ニギハヤヒ)は天磐船に乗って高天原から河内国の川上の哮峰に降り立ち、その後大和の支配者ナガスネビコの妹を妻にした。イワレビコがやってきて、天津神に疑いを持って服従しないので、饒速日命は妻の兄の長髄命を討った。
「東征について六年になった。天神の権勢の御陰で凶徒は殺された。・・・大和は畝傍山の東南に橿原の地に都を造るべきである。」その後、媛蹈鞴五十鈴媛を召して正妃とされた。崩御のお年は一三七歳、御陵は畝傍山の北側の方に当たる。
◎ 神武天皇の東征にはどの様な意図と動機が有ったのか、塩土翁が東方に美しき国を聞いて思い立った。天上から地上の支配へは神話の話で、九州を基盤としていた王権が大和征服に向かった説も、九州に大きな王朝の遺跡など該当する資料がない。神武の熊野攻めの武器、太刀は時代的に存在しなかった。
◎ 「日本書記」」には兄磯城と弟磯城を対比させ、兄の磯城を悪者に仕立てある。海幸彦と山幸彦も兄の海幸彦悪く物語れている。ヤマトタケルの英雄伝説が描かれ、兄のヲウスの影薄く記紀には弟が皇位を継承する場合多い。
◎ 磐余彦の兄弟は日本書紀には四人兄弟で五瀬命、稲氷命、御毛沼命、伊波礼毘古(イワレヒコ)と記され、次男稲飯命と三男御毛沼は「ああ、我が先祖は天神、海神なのに陸に海に苦しむのか」と嘆き剣を抜いて海に入り、鋤持神に成り、三男の三毛入野命も恨んで常世国にいかれた。また別の編で、東征前に「常世の国」に言ったと伝えられ、記紀の別の記述には東征に随行したが途中で引き返したか、東征後故郷に帰還したか、また鬼八と言う邪神を退治した後、帰還した伝説もある。
◎ 磐余彦が東征の前に、「日本書記」に“塩土翁”にその国の様子を聞く、古事記にも“塩土老翁”の示唆があった「東に美しき地有り、青山四周れり」と記されている。
磐余彦の祖父の山幸彦(ホヲリ)が兄海幸彦(ホデリ)とも物語りに山幸彦が窮地に陥った時に、塩土翁の示した海宮への方向を教えて海幸彦の勝利に終わる。負けた山幸彦は隼人の種族の祖と言われている。
◎ 高倉山一帯が八十梟やエシキの軍勢に占拠し、進むことが出来ない為、立ち往生そこに高皇産霊尊のお告げで、見えない神々を祀ると敵を撃つことができた。
★ 「記紀」記されている九州は日向地方の天上、高天原から降臨した天津神は神武(イワレビコ)の世に東征、大和を目指したのか、何故大和を目指せなければ成らないのか、その必然性は編纂地大和が有ったからである。九州に天孫降臨の地の設定は、編纂時の飛鳥時代に急遽選択され、九州の設定に作られたのか、編纂までに伝承、継承が有ったのか、編纂以前に捜索されていて、それを基本に筋書きが出来たのか、言わば天孫降臨の地が九州でなければならない理由は無く、九州が都合の良い立地条件に適っていただけで、それが山陽道でも山陰道でも北陸道でも良かった。ただ出雲地方、吉備地方は対立する巨大氏族が存在し混同を避ける為に、九州が合致しただけに過ぎないかもしれない。
大和で凌ぎを削り、競合する豪族で勝ちあがった王朝こそ「記紀」に物語れる王朝であったかも知れない。その証として神武東征から、欠史代に続く「記紀」のに続く記述の中に、機内の豪族、氏族の列挙が物語るものではないだろうか
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淡路島七福神めぐり・大黒天・八浄寺・

2016-02-29 04:27:44 | 七福神めぐり
大黒天・八浄寺・大黒さんは「福労」と呼ばれ、苦労をいとわず積み重ねるために「ふくろ」でっす。大黒さんの「打ち出の小槌」“怠け者の心”“弱い心”邪悪な心“打ち出の小槌を振って払い払います。八浄寺の由来は応永年間(1395~)に心了法師によって阿弥陀仏如来を造立に始まる。延宝年間に盛上人によって再興され、隣接する八幡神社別当寺と合併し八浄寺と改称されて秘仏開運大黒天と不動明王の霊示によって拡大され親しまれて今日に至る。
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京都十六社巡り・長岡天満宮

2016-02-29 04:22:50 | 古社寺探訪
京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2-15-13・
山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立であります。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和九(1623)年には八條宮の御領地となり、度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろびろと広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する「キリシマツツジ」が多数植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。
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2月28日(日)のつぶやき

2016-02-29 01:17:04 | 四国遍路紀
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第一章、神武東征伝説の謎  ①              

2016-02-28 05:44:48 | 歴史研究
第一章、神武東征伝説の謎  ①              

神武天皇は「記紀」の日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である。
「古事記」では神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と称され、「日本書記」では神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)神武天皇の呼称は奈良時代後期の文人の淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したことに始まる。
紀元前七一一年から五八八年の日本神話に登場する人物である。天皇が即位したのが西暦前六六〇年と比定される。
「日本書記」に寄れば四五歳日向の地高千穂にあった磐余彦は天孫降臨以来、神々が君臨する高天原から葦原中国へ降臨する間の「日向三代」でニニギが三一万八五四三年、ホオリで六三万七八九二年、ウガヤフキアエズで八三万六〇四二年の計一七九万年二四七〇余年を経て未だ西辺であり、全土を王化していない。
神武天皇の事跡についても、内容が神話的で、実在を含め現在の歴史学的に史実ではないと考えられるが、古代の史実を知る上に重要な事柄が神話の物語に秘められていないか、推測するものである。「古事記」「日本書記」も若干異なるものの記述の東征が大部分を占める。
◎ 天孫降臨まで一七九万年二四七〇年は、仏教の弥勒菩薩の兜率天の五六億七千万年後の下界に降って衆生救済する話しに似ている。人間の届かない遥か時代を越えた壮大な別世界の存在を表しているのではと思われる。

神武の東征
「古事記」に拠れば、イワレヒコ命は兄五瀬命と高千穂宮で相談され、「何処の地にいたならば、安らかな政が執り行なうことが出来るか、東の方に行こうと思う」と日向より発して筑紫に幸行し、豊国の宇沙に至り宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を造り奉り、そこより遷移り、筑紫の岡田宮に一年坐しき、そこより上がり安芸国の多祁理宮に七年留まられ、そこから遷り上がられ、吉備の高島宮に8年間居られた。
それから国を上って行かれ、亀の甲で釣りをするものに速吸門で会われ「お前は誰か」と問われた。「国津神」と答え、自ら仕える事を言ったので名をサヲネツケと与えた。この人は大和国造らの祖先である。次に上に行かれ浪速の渡りを経て白肩津に船を停めになった。
その時に登美のナガツネヒコは軍勢を起こし、待ち受け戦った。そこに御舟を入れてあった楯を下し立たれた。その地を楯津(東大阪市に地名現存)と言った。
そうしてナガスネヒコと戦われ、その時イッセイ命が手痛い矢で負傷を受けられた。そこでイッセイの命は「私は日の神の皇子、日に向かって戦うは良くない、遠周りして日を背にして戦おう」と誓い、そこから南に回って進み、紀伊国の男之水門に至ってイッセイの命は亡くなった。 
その水門を名付け男の水門と言う。御陵は紀伊国の竈山にある。そこから南に回って行かれ、熊野村に着き、大きな熊が見え隠れし、やがて姿を消した。
するとイハレビコハ命は気を失われ、兵士も気を失って倒れた。そこに熊野のタカクラジと言う者が一振りの太刀を持って来て、イワレビコに献ると、即座にイワレビコは気を取り戻し、その太刀を手にすると兵士たちも気を取り戻した。
皇子は太刀のことをタカクジラに聞かれると、天照大御神と高木神が「葦原中国が騒がしいのだ、葦原中国はあなたが服従させた国、タケミカズチ神に降るように」支持されたが、タケミカズチは自分が降らなくても、平定した時の大刀を降すことを提案し、タカラクジに託されたことを伝えた。
また高木神が申されるに天津神の皇子をこれ以上奥に進ませては成らぬといわれ「あらぶる神、多く案内の八咫烏を遣わそう、その後に付いて進むように」その後、尾の生えた国津神ヰヒカが現れ(吉野首の祖先)、次ぎに岩を押し分け入ってきた国津神イワオシワクノコと言う* (吉野の国栖の祖先だった。)そこから奥に宇陀に進み、宇陀の穿(うかち)と言う。
天皇の兄ミケヌノ命は穀物を司る神、浪を踏んで常世国に行ったとされている。タケミカズチ神が霊験フツノミタマに降す話は霊験は邪気を払う意味で信仰され、石上神社のご神体として、物部氏によって崇祭されたものである。
八咫烏もミサキ神として鳥の信仰から、熊野三山は牛王法印の図柄を配している。 
宇陀にエウガシ・オトウガシの二人がいた。八咫烏を遣わし「天津神が来られた、御仕えするか」の問いに兄のエウガシは鳴鏑矢を射って追い帰した。
その鳴鏑の落ちた所を訶夫羅前という。エウガシは待ち受け軍勢を集めたが集まらず、偽って御殿を造り、中に罠を仕掛けた。
一方オトウカシはイワレビコをお迎え拝礼し「兄のエウガシは天津神を罠を仕掛け待ち受け殺そうとしております」この時大伴連の先祖のミチノオミノと久米直の祖先オホクメノの二人がエウガシを呼んで問い詰め、追い込んだ所、自分の造った罠にはまって死んだ。この地を宇陀の血原という。* (ウエガシ兄宇迦斯・オトウエガシ弟宇迦斯で宇陀の土豪である。)
そこから更に進み、忍坂の大室のついた時に、尾の生えた土雲が大勢待ち構えうなり声を上げていた。御子の命令で御馳走を大勢の兵に賜わった。
兵に料理人に太刀を隠し持たせ、歌を合図に土雲を撃つようにされた。予定通りに歌の後たちを抜いて一斉に打ち殺してしまった。
その後、ニギハヤヒノ命が、イワレビコ命の下に参上された時「天津神の御子が天降ってこられたことを聞き参上に参りました」ことを伝ええた。
そしてニギハヤヒ命は、トミビコの妹トミヤヒメと結婚して生んだ子がウマシマジノ命で、物部氏、穂積氏、婇臣の祖先である。このようにしてイワレビコ命は荒ぶる神たちを平定し和らげ、服従しない人撃退して、畝火の白檮原宮において天下を治めになった。

◎ 「古事記」にはイワレビコの兄ミケヌノ命は穀神で東征のイワレヒコ命が熊野から廻ったのは、熊野が常世国は海の彼方の未知の世界、常世国の穀神を招く信仰からである。
◎ 紀伊の国は古来、黄泉の国に直結した信仰が根付き、熊野三山の青岸渡寺の観音信仰の開山のインドの僧裸形上人の補陀落山の世界は舟に乗り海を渡って補陀落を目指すこと、実際は生きたまま捨身往生や水葬として行なわれ、熊野から行なうのが一般的であった。
中国の始皇帝の不老不死の仙薬を求めて来た徐福伝説など紀伊は別世界の特別な地の観念があったのかも知れない。八咫烏や剣が高天原から投下されるものその一つかも知れない。
◎ 九州と大和の征伐、東征で神武東征、ヤマトタケルの熊襲征伐と神功皇后と三回古代に往来があった。神武東征が時代的に古いが、その割りに地域の情景が詳細に描かれている。種族の祖先や土豪など地域の勢力分野も帰されている。
◎ 「古事記」については、わが国学の大家「本居宣長」が一七六四年から一七九八年のかけ約35年間かけて、「古事記」の写本を手に入れ、「日本書記」や「先代旧事本紀」を対比させながら、「古事記」を中心に解読、解釈を進めた。果たしてどの様に注釈をつけ、後世に残る再発見と再評価をさせ「古事記」意義、存在を高めたかは、それまでの「古事記」の内容と解読、解釈がどうか修正されたかにに、ついては知れないが江戸末期から明治維新に大きな影響を与えたことには確かである。
◎ 「日本書紀」兄磯城と弟磯城の兄弟を対比され、宇陀の県の頭に兄猾、弟猾がいて兄猾は磐余彦には敵意を持って計略を仕組んだが弟猾によって発覚、兄猾は討たれる。「古事記」には宇陀の土豪、兄宇迦斯はイワレヒコに抵抗するが、弟宇迦斯はイワレビコに協力し、宇陀の水取(宮中で飲料水を司る)祖先になる。  
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京都七福神めぐり。 寿老人(不老長寿)・革堂(行願寺

2016-02-28 05:39:22 | 七福神めぐり

京都七福神めぐり。

寿老人(不老長寿)・革堂(行願寺)天台宗。西国三十三カ寺札所。俗人の頃鹿を射止めた行円は仏心を起こし、寛弘元年(1004)この寺を建立、千手建立された。当初、今の上京区にあったが、移転と消失を繰り返し現在地に建立されたという。

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「古社寺探訪」平安神宮

2016-02-28 05:34:57 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」平安神宮・京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。1895年(明治二十八年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。平安遷都を行った天皇であった第五十代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第百二十一代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。
1976年(昭和五十一年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など九棟が炎上、焼失した。ただし、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている。創建が比較的新しかったことから、当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が見込めなかった。しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は三年後に再建された。
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2月27日(土)のつぶやき

2016-02-28 01:18:20 | 四国遍路紀

「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」 備前国一ノ宮・石上布都魂神社・祭神素盞鳴尊 goo.gl/dTyaXu


『大和朝廷の王権の盛衰』  ㉞ 「桓武天皇」 goo.gl/z2a36L


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浪速今昔百景(九十八)豊国神社

2016-02-27 04:35:11 | 浪速今昔百景

浪速今昔百景(九十八)豊国神社
大阪城は本丸西側にある豊国神社は、1960年に中之島から移築された物、関白大閣秀吉、秀頼、秀長祀る。
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『大和朝廷の王権の盛衰』  ㉞ 「桓武天皇」

2016-02-27 04:30:47 | 大和朝廷王権の盛衰
  『大和朝廷の王権の盛衰』  ㉞

「桓武天皇」
山部皇子・父光仁天皇・母高野新笠・皇后藤原乙牟漏・夫人藤原旅子・七〇歳没・在位二六年・皇居平城京・長岡京・平安京・平安京を創設した天皇・

“川継失脚”
桓武即位と同時に弟に早良親王が皇太子に律令国家では初例となった。
それは天智と天武の関係を思い浮かべ、一瞬不吉な思いと影を落とすものである。
桓武帝の即位には、聖武帝の皇女井上内親王の他戸親王が皇太子と後継者だったが、策略で失脚であった。
またも桓武が即位して一年も経たない内に起きたのが、氷上川継の変であった。
氷上川継は、父塩焼王は天武の孫、母不破内親王は聖武の皇女、申し分のない血筋だが父塩焼王は「押勝の乱」に巻き込まれ、破れ斬殺された。母は不破内親王は、称徳呪詛事件で流罪となったが、悲運な両親を持つ川継であった。
天応二年(782)川継の従者が、武器を持って宮中に乱入した事件が起きた。
従者が捕えられて、その告白から、平城京に押入り、新帝桓武を廃して、川継を皇位にしようとの陰謀が発覚したという。
川継自らの皇位に就くことを望んだ意志か、臣下の不満から発したのか定かではない。
父塩焼王、母不破内親王の不遇は計り知れない。
度重なる、陰謀かはたまた川継が担ぎだされたのか、失脚し、配流された。

延暦三年(784)五月桓武は山城国で乙訓郡長岡村に行幸、長岡京の準備である。
新年の朝賀を新都で迎えたいと云う強い意志があった。
長き天武系の平城京の様々な思い出を払拭し、刷新するそんな重いが働いたのかも知れない。
この長岡京への視察には左大臣坂上田麻呂(坂上田村麻呂の父)他藤原子黒麻呂、藤原種継が同行、次世代を担う重臣が付き添い中でも種継の采配が目を引いた。
この新都造営に諸国より、百姓、民から延べ三十一万四千人の人夫が動員されたと言う長岡京については新都移転の本格的な京城としての造営か、難波宮のような単なる副都としての造営かは定かではないが、不都合より新天地への移転の模索で大きさは無かったのではと思われる。
立地条件を考えてみた場合は、大和盆地より日本の交通の要として、東海道、北陸道、山陽道、山陰道と利便性は良好である。
桓武の遷都の理由は記されていない、大義名分のない遷都は聖武と同じ単なる、思いつきか、謎に包まれたままである。
最大の理由として考えられるのは、山科に拠点とする百済系一族の影響かも知れない。

“種継暗殺事件”
だが長岡京は結果的に順調に行かず、重臣や豪族、皇族の反対もあって、旨く行かず、また陣頭指揮に立つ藤原種継の反発もあって、進まなかった。
そこで起きた事件が、種継暗殺事件であった。
延暦四年(785)九月二十三日の夜に、長岡京の造営の陣頭指揮に当たっていた所、中納言藤原種継が、その身体に二本の矢に射抜かれて倒れ、翌日死亡すると言う、事件が起きた。
当時は「天皇はなはだ委任し、中外の事皆決を取る」と評判で寵愛されていた。
急遽長岡京に戻った桓武天皇は、早速犯人の逮捕を命じた。
犯人は大伴継人と判明、大伴継人は、鑑真を唐から、連れ帰る功績はあるが、父大伴古麻呂は橘奈良麻呂の変で拷問で殺されたと言うが。
この事件の直前に死去した大伴家持と一緒に、種継と仲の悪い、桓武天皇の弟の早良皇太子の了解の上殺害に及んだ他という。
いくら種継不仲とはいえ、この事件で早良は罪は逃れられない。
早良は東宮を出て、乙訓寺に幽閉されたが、自ら食を絶ち、船に乗せられ淡路に送られる途中で亡くなった。
実の弟の早良さえ、桓武天皇と実際は旨くいっていなかったのは、次ぎ後継者が、桓武帝の継子の安殿親王と、神野親王が潜在していてのことだった。
事件が、一段落して後に、安殿親王の皇太子の儀式が行われ、異母弟の大伴親王もこの年に誕生している。
新しい皇族が誕生しておく中、政権の勢力は、式家は没落し、替わって南家の嫡流の豊成の子継種が頭角を現してくるのである。
この頃の東北政策は、一向に改善の兆しが無く、東海、東山、坂東の軍兵五万二千人を投入、陸奥国多賀城に集結させたが、決着がつかなかった。
延暦十年(791)一方長岡京の最終整備段階で、諸国に対して、平城京の諸門を移築せよとの命令が出た。
まだその時点では長岡京を囲む溝や門が無く造営は遅れ気味であった。

“新都平安京への道”
それに追い討ちを駆ける様に、延略十一年(792)六月、八月に長岡京一帯に大洪水が発生した。
平坦な地でなかった長岡京は、小高い丘が幾つにも重なり、丘陵は分断されて、壊滅的被害を受け、断念せざるをえない状態になった。
当時の人々は、早良の祟りだと信じだす者が表れて、淳和の母の旅子の死も、嵯峨、平城の母乙牟漏の死も、皇太子安殿親王の急病も、理不尽に早良を死に追いやった、祟りの噂が流れた。
桓武天皇も縁起の悪い新都構想も頓挫に、遷都は仕切りなおしと成った。
心機一転、桓武以下皆、もう平城京にはもどれない、そんな鎮通した気運の中、延略十二年(793)一月、あの八幡神の宣託で失脚した和気清麻呂が、新京候補を提唱した、山城国に気運が君臣と高まりを見せ。
「平安楽土」山城国葛野郡字大村に定められた。
和銅三年(710)都が平城京に遷都されて以来、八十四年間の奈良時代が幕が下ろされた。新時代、新天地に期待を寄せ「詔」を発した。
「葛野の大宮の地は、山川も麗しく、四方の国の百姓の参出来る事も便にして、云々」
「山勢実に前聞にかなう、と云々、この国は山河襟帯し、自然の城を作す、この形勝に因み新号を制すべし、宜しく山背の国を改め、山城の国と為すべし」
「新京楽、平安楽土、万年春」と祝い歌い踊ったという。
飛鳥、奈良と二百年余り、波乱に満ちた時代から、平安京で四百年の王朝絵巻を繰り広げるのである。

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「古社寺探訪」宝山寺

2016-02-27 04:26:10 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」宝山寺・奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天を聖天堂に祀っている。生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。その当時は都史陀山 大聖無動寺という名であったという。江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設されるほどだった。麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると約千段あり西日本有数の規模を誇る。歓喜天を祭り、現在でも年間300万人の参拝客を集めるとされる。
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「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」 備前国一ノ宮・石上布都魂神社・祭神素盞鳴尊

2016-02-27 04:17:17 | 一宮探訪
「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」
備前国一ノ宮・石上布都魂神社・祭神素盞鳴尊
岡山県赤磐市石上字風呂谷1448・式内社・旧郷社
『延喜式』によると備前国は26座あって名神大社は1座で邑久郡の安仁神社で、赤磐郡6座の中で石上布都魂神社は小社である。
石上布都魂神社の祭神は素盞鳴尊で、明治時代までは素盞鳴尊が八岐大蛇を斬ったとされる十握剣を布都御魂と伝えられていた。
この剣は『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれていて、十握剣を祀ったのが当社の創設の始まりという。
この剣は大和国は石上神宮に移されたとされており、その事は石上神宮の社伝にも記されている。『延喜式神名帳』では小社に列し、備前国総社神名帳では正二位布都魂神社と記されている。
寛文九年(1669)岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興した。次の藩主綱政は延宝二年(1672)社領二〇石を寄進した。
宝永七年(1710)に社殿・神楽殿を造営した。その後も歴代藩主の崇敬を受けた。明治六年(1873)の郷社に列した。
この時に十握剣から素盞鳴尊に変更されたと思われている。明治四十年(1907)の大火で山頂にある社殿が焼失した。
★素盞鳴(すさのを)尊(みこと)は『記紀』『日本書紀』素盞鳴尊と表記『古事記』では建速須佐之男命と表記されている。スサノヲは神話の説話に出てくる。
イザナギ神が亡くなったイザナミ神に会いに黄泉の国に行き穢れてしまい日向の橘のアハキハラで穢れを祓う為に禊を行なった。その際、多くの神々が生まれたが最後に生まれた三貴公子、天照・月読・スサノヲが生まれた。
★建速須佐之男(すさのを)命(みこと)、天照大神の天津神に対して、国津神の祖となる神でイザナキ神が黄泉の国から還って禊を行なって最後に生まれた三貴公子の一柱、天照の弟神でイザナキ神より海原を治めるように命じられたが、それを拒否し亡くなった母イザナミを恋しがり、イザナキ神の怒りをかい天上界追放された。
天照大神に別れの挨拶に行って天上界で乱暴と狼藉を行なって地上界に追放されて、出雲国に降った。そこで八岐大蛇に恐れおののく老夫婦と娘を助けてやり、その娘クシナダヒメと妻とし根之堅洲国に行きそこに留まった。

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2月26日(金)のつぶやき

2016-02-27 01:17:39 | 四国遍路紀

『大和朝廷の王権の盛衰』  ㉝ 第十六章 光仁から桓武へ goo.gl/Ffhakr


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シャープのホンハイへ買収されることは日本の技術の流失と経営不振にさせた経営陣の責任逃れだ。日本の革新機構では責任と厳しい条件があったので楽で緩やかなホンハイに選択肢と思われても仕方がない。果たして二年間で再生できるか疑問である。


今日は最高気温10度の大阪、大阪城の梅林は早朝で人の姿はなかった。梅は満開で朝日に梅は輝いている。 pic.twitter.com/WGcNHDRKr7


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『大和朝廷の王権の盛衰』  ㉝ 第十六章 光仁から桓武へ

2016-02-26 04:15:55 | 大和朝廷王権の盛衰

   『大和朝廷の王権の盛衰』  ㉝

第十六章 光仁から桓武へ

“天智系光仁天皇”
宝亀元年(770)「宝亀」と元号も改まり、十月白壁王即位して、光仁天皇となる。時に六十二歳と老天皇の即位であった。
天武系の文武、元正、聖武、孝謙、淳仁と続き、天智系の皇孫に取り逆風であった。
白壁王に取り、皇継の政変の度に、如何に関わりを持たず身を守るかが、至難の業であった。皇権に微塵の野心もないと、言葉だけでは不充分であった。
さりとて天智の曾孫として、天智系の復活を望まないわけでもない。
記述に拠れば、「酒」に溺れる、狂人の振る舞いで装い、野心のないことを見せねば成らなかった。
耐えて、忍んでの皇位だった。即位の条件は、聖武の皇女井上内親王の立后であった。
翌年正月には井上内親王の生んだ「他戸親王」の立太子を定められた。
一方光仁は父施基親王に天皇の称号を贈り、翌年母紀靜橡姫に皇太后を追贈した。
それは自らの天智系の正統性と長年に渡る、疎外されて来た鬱積したものがあったのだろう。
政権は藤原北家、式家の主導で進められて行った。
処が年も経たないうちに、事件が起きたのである。
宝亀二年(771)二月、政権首班の藤原永手が死去し、替わって右大臣の清麻呂がなり、藤原良継と百川が発言力を増していった。
新政権が願っていた次期皇位は、他戸親王ではなく、弟の山部親王が内々に皇位に就く事を策略を練っていた。
何故なら、百川も良継も自分の娘が山部親王に嫁がせていたからである。
宝亀三年(772)三月二日、突如井上内親王が天皇を呪詛したと嫌疑がかかった。
その後皇后の地位から降ろされ五月には連座して他戸親王まで廃太子が決定された。

“山部親王の擁立”
明らかにこの井上皇后の呪詛の嫌疑は策略と思われるが、流れは山部親王に注がれていていたことは、否めない。
百川も良継らの政権に取り、天武系の血脈なぞはどうでも良かった。
百川の娘の旅子、良継の娘の乙牟漏が山部親王の皇子を生んでくれること願うだけだった。
それは天皇の外祖父になる為の布石であった。
翌年正月には山部親王が立太子になった、三十七歳、年齢的に思慮判別の出来る年齢になっていた。
久々の青年皇太子の誕生であった、その裏で井上内親王、他戸親王は大和国宇智郡に幽閉され、三年後にはこの世を去っている。
百川や良継によって闇のうちに葬られたのであろう。
周りの人々の同情からか、怨霊騒ぎが起きたと言う。
皇継を巡る興亡は熾烈で非情であった。
山部の母は世に知られている、皇孫始まって以来の異例だった、百済系の帰化人、「和乙継」の娘で、井上内親王の他戸親王と比べても成人していて、一定の人物評価が出来ていて、臣下の信頼があったのだろう。
以後山部が成人になってその地位が上がるにつれ、同じ百済系の人々に対する立場が好転していった。
中でも百済系で外祖母を出した「土師氏」はその恩恵を受けた。
土師氏はもともと、墓葬の携る一族であったが、土師氏の強い要請で、菅原氏への改姓が認められたれ、中央政界に進出できるように成れたのである。
もし土師氏の改姓が無ければ、菅原道真の官僚氏族の道はなかっただろう。
宝亀四年(773)十一月、東大寺造営の功労者の良弁が享年八十五歳で死去した。翌年長年に渡り政界に参画していた、吉備真備が享年八十一歳で死去した。
宝亀八年(777)九月に、藤原良継が享年六十二歳で没した。
翌々年の宝亀十年に藤原百川が四十八歳の若さで没した。
大きな新旧交代の時代に、一方東北政策の蝦夷の行動に不穏な知らせが平城京に届いた。五十年の宇合の蝦夷征圧で、小康状態だったが、その後伊冶城の完成と、一応治安は保たれて居た所、ここに来て、土豪伊冶砦麻呂が陸奥の鎮守の、紀広純を殺し、東北の需要な拠点多賀城まで攻略されては、積み上げてきた大和朝廷の威信と、東北政策の遅れとなる懸念があった。
現状回復が急務であったので、藤原継縄他、大伴益立、紀古佐美などを大挙兵を差し向けた。
しかし時、遅く連鎖は留まるところ知らず、蝦夷の人々の蜂起が広がり、入植した土豪、農民は離散し、城柵の立て直しに二、三年は架かろうかと思われた。歯切れの悪い陸奥政策に、光仁から桓武に引き継がれていった。
天応元年(871)四月光仁天皇、気力体力衰えて譲位十二月に崩御、享年七十三歳の高齢で没した。
光仁天皇ほど、皇権を巡り波乱に生き抜き、天平の歴史の生き証人であった。

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古社寺探訪」仁和寺

2016-02-26 04:12:47 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」仁和寺・京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。本尊は阿弥陀如来、開基は宇多天皇。世界遺産に登録されている。皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」と称された。仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和二年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和四年(888年)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法親王など、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族出身の門跡は、伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。
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