ひこいちの史跡探訪

人生は旅・歴史は時間の旅。

『歴史の時々変遷』1“磐井の乱” 磐井の乱、6世紀半に北部九州の大豪族筑紫磐井がヤマト王権

2016-10-13 04:16:57 | 歴史の時々変遷
『歴史の時々変遷』1“磐井の乱”
磐井の乱、6世紀半に北部九州の大豪族筑紫磐井がヤマト王権の国土統一に抗して起こした乱。当寺国債関係とも不可分のもでもある。8世紀代の措辞を多用し、漢籍による文飾が著しい『日本書紀』の記述は、乱を527年(継体天皇21)528年とするを含めて批判的検証する。また一方の一般的説として527年継体朝時代に朝鮮半島南部に出兵しようと近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫公磐井が阻み、翌528年11月物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権の主権争い。この反乱には朝鮮半島が絡んだ利権と主権争いが有ったとみられている。磐井の乱の文献は『日本書紀』に限られている。その他の記述として『筑後国風土記』や『古事記』『国造本紀』もの簡潔な記録が残ってる。527年(継体21)真偽のほどは別にして、記述による経緯を遡って見ると、ヤマト王権の近江毛野は6万の兵を率いて、新羅に向かった。目的は新羅に奪われた南加羅を回復する為だった。任那に向かったことを知った、新羅は九州筑紫の有力豪族磐井に賄賂を贈って、ヤマト軍の阻止妨害を要請した。呼応するかのように、磐井は火の国、豊の国を制圧し、倭国と朝鮮半島の結ぶ海路を封鎖した。事の時朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻み交戦となった。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議をし、継体天皇が大伴金持・物部麁鹿火・巨摩男人らに将軍の人選諮問したところ、物部麁鹿火が推挙された。528年反乱軍の磐井と、麁鹿火率いるヤマト王権軍が筑紫三井付近で交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。敗北した磐井は『日本書紀』によれば、麁鹿火に切られた説と『筑後国風土記』には豊前の方に逃げ込み山中で死んだ説がある。磐井側に付いたものは連座を恐れ、屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免れたと記されている。一説によるとすでに、この頃にはヤマト王権とは別な九州王朝が有ったとする考え方もある。いずれにせよ確実な証拠もなく推測の域を出ない。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 『鎌倉・室町の群像伝』六十... | トップ | 『浪速史跡めぐり』難波神社... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL