「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『戦国時代の群像』57(全192回) 吉川 元春(1530~1586)/ 毛利 元春戦国時代から安土桃山時代

2017-04-06 05:25:09 | 史跡探訪

『戦国時代の群像』57(全192回)
吉川 元春(1530~1586)/ 毛利 元春戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利元就の次男。母は吉川国経の娘・妙玖。同母の兄弟に兄の毛利隆元、弟の小早川隆景、その他異母の兄弟が多くいる。父・元就によって藤原南家の流れを汲む安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続した。以後、毛利両川の一人として、弟の隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢献した。享禄3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれる。天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。天文12年(1543年)8月、兄・毛利隆元より偏諱(「元」の字)を受けて元春と名乗った(異説あり[1])。天文16年(1547年)、自ら望んで熊谷信直の娘・新庄局と結婚する(後述)。天文16年(1547年)7月、母方の従兄の吉川興経の養子となる。これは興経と仲の悪かった叔父・経世を初めとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。条件は興経の生命を保証すること、興経の子・千法師を元春の養子として、成長後に家督を相続させることであった。天文19年(1550年)、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。そして熊谷信直らに命じて興経と千法師を殺害して、毛利家より格上の吉川家を事実上簒奪したのである。以後、安芸国大朝の小倉山城に入った元春であったが、より要害の地である日野山城を築き、拠点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。弘治2年(1556年)からは石見国に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも晴久に退けられる(忍原崩れ、降露坂の戦い)。弘治3年(1557年)に父が隠居すると、隆景と共に両川として毛利家を実質的に支えることとなった。永禄5年(1562年)、元春は胸部や腹部の激痛を伴う積聚の病(いわゆる癪)にかかり、元就は則阿や少林寺、楊井武盛といった専従医ではない、領内の医師を動員して元春の治療にあたらせ、さらに京都の医師の宮内大輔(大和晴元)を新荘火ノ山城へ往診に向かわせ元春の治療にあたらせた[2]。 永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。しかし、永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する大友宗麟の下に寄食していた大内氏の一族・大内輝弘が周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を攻めて自害に追い込み(大内輝弘の乱)、元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠る末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて脱走)。元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って備後国鞆に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の息の根を止めた(上月城の戦い)。その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、天正8年(1580年)には三木城が落城し、城主の別所長治は自害。そして備前国の宇喜多直家や伯耆国の南条元続が織田家に与し、豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡国鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠る高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で横死を遂げた(本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。『川角太閤記』によれば、元春はこの際追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『吉川家文書』では、両名が、追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585年)、隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。天正14年(1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州平定に参加した。しかしこの頃、元春は化膿性炎症(癌とも)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57。

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