ひこいちの史跡探訪

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『戦国時代の群像』70(全192回)「真田 昌幸」後編 「真田 昌幸」(1547~1611)時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書

2017-04-19 04:43:57 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』70(全192回)「真田 昌幸」後編
「真田 昌幸」(1547~1611)時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている。慶長3年(1598)8月18日、秀吉が死去する。死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強めた。慶長3年(1598)6月から慶長5年(1600)7月までの2年間にわたり、昌幸の上田領での発給文書は皆無であり、この頃は上京していたと推測されている。昌幸は表向き家康に従っていたようであり、家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国許にいる信幸に向けて送っている。慶長5年(1600)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始める。昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で書状を受け取ったと言われる。この時、昌幸は信幸・信繁と去就を決めるため会議を開き、昌幸は宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に、信幸は正室の小松姫が本多忠勝の娘である事を理由に東軍に与することとなり、真田家存続のために父子訣別した。7月から8月にかけて、昌幸は豊臣系大名(西軍)と書状での交信を繰り返している。ただ8月10日の書状を最後に交信は確認されておらず、昌幸も大坂の西軍も戦備に追われていたものと推測されている。決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」と頼んでおり、石田と上杉の仲介をしていたことがわかる。そして家康の3男・徳川秀忠が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、9月6日には上田城攻略を開始し、昌幸は2,000の兵力で篭城して迎え撃った(第二次上田合戦)。秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の帰順を勧告している。しかし昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発。秀忠軍を城攻めに集中させる手をとった。昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させた。昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退した。この際の徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料であるにも関わらず「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで伝えられている。そこへ8月29日付で中山道制圧の任にあった秀忠軍は家康から上洛を命じられ、上田攻略を諦める。この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ、秀忠軍は9月15日の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになる。ただ、一方で『真田家文書』では従軍していた信幸に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定である事を伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣している。関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた。信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くした。昌幸は慶長5年(1600)12月13日に上田城を発して高野山に向かった。昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った。昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている。高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わる。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われている。なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った[74]。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が伺える。10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせた。晩年の3月25日付(年次不明)の信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とある。また配流当初には信之を通して赦免運動を展開し、慶長8年(1603)3月15日付で国許の信綱寺へ宛てた書状があり、その内容から赦免されて国許に帰還する希望を持っていたようである。また国許の家臣との関係も親密で、家臣が昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もある[32]。最晩年の昌幸は病気がちだった。信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた昌幸を苦しめたようである。慶長16年(1611)6月4日、九度山で病死した。享年65。徳川秀忠が西軍についた真田昌幸の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、島田兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという。死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612)8月に分骨を上田に運んだという。墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田(長野県上田市)の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された経緯が記されている。また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に尼寺である佉(人偏に「去」)羅陀山善名称院が開かれている。別称の真田庵というのは、大安が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田庵と呼ばれるようになった。昌幸の死後、信之はその葬儀に関して家康の側近である本多正信に尋ねた。それに対して正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告している。死してなお、昌幸は容易に許されなかったのである。徳川家康は大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。また、その時家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わる。家康とは相容れぬ関係にあり、反骨精神が旺盛であった。家名存続のために信之を送り込んでいるが、一定の距離は保った。これは武田信玄の時代から家康と敵対関係にあったためではないかとされる。自領の周囲が家康の脅威にさらされていたにも関わらずこれと敵対し、家康が出陣していないとはいえ2度の上田合戦で勝利した事からも、昌幸の自負心の高さが伺える。





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