「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『戦国時代の群像』50(全192回) 「丹羽 長秀」(1535~1585)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

2017-03-30 04:26:50 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』50(全192回)
「丹羽 長秀」(1535~1585)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。天文4年(1535)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550)から織田信長に仕えた。天文22年(1553)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。弘治2年(1556)の稲生の戦いでは信長方に付き、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの従軍はしている。『信長公記』などから斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で武功を挙げた(観音寺城の戦い)。姉川の戦いの直後から信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571)2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった[2]。天正元年(1573)9月、長秀は信長より若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。若狭国内での当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。この頃の長秀の家臣として溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった。その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の普請奉行を務めるなど多大な功を挙げている。天正9年(1581)には、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。同年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた[4]。 ただし軍事的な面では、独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。信長の死の時点でも信長の三男で四国方面軍司令官・織田信孝を補佐する立場にあり、仮に実質上は司令官的な立場だったにしても、名実とも各方面軍司令官に就いていた上記4人よりは劣った待遇となっている。天正10年(1582)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害した[5]。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した[7]。清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大々名となった。天正13年(1585)4月16日、胃癌のために死去した。享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。



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