ひこいちの史跡探訪

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『歴史の時々変遷』(全361回)173”第二木津川海戦“ 「第二次木津川口海戦」天正5年(1577)2月2日、信長は仕方なく、三方の監視

2017-05-18 04:59:43 | 史跡探訪
のみを強化して一旦兵を引いた。、本願寺に協力していた紀伊の雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が信長軍へ内応した。これを受けて、信長は準備を整えた上で2月13日に京都を出て、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った(紀州征伐)。織田信長の軍は貝塚にいた雑賀衆を攻撃したのち佐野に進み、自軍を信達で山手・浜手の二手に分け、紀伊に攻め入った。3月1日に雑賀衆の頭目の1人である鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てた。しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が翌日に大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた。木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に、大砲を装備した黒船を建造するよう命じ、滝川一益にも白船を一艘建造させた。九鬼嘉隆らの船団は伊勢大湊を出発し、大坂へ向かった。雑賀衆はこれを迎え討つべく、淡輪(現大阪府岬町)周辺の海上でこの船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。しかし、嘉隆はこれに応戦し、大砲も使って敵船の多くを撃沈し、船団は7月17日に堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。11月6日、毛利水軍は600余艘を繰り出して再び木津川河口に現れた。信長軍は九鬼嘉隆の大船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも焙烙火矢で攻撃を繰り返した。しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、大船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法で相手を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功した(第二次木津川口海戦)。
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