「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『鎌倉・室町の群像伝』五十六”九条道家“ 九条道家(1193~1252)鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等

2016-10-01 04:24:22 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』五十六”九条道家“
九条道家(1193~1252)鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。幼少時から祖父の九条兼実に寵愛され、祖父に引き取られて養育された。建仁3年(1203)2月13日、元服すると同時に正五位下に叙任される。その後も侍従、左近衛中将、従三位、権中納言と栄進を続ける。元久3年(1206)春、父の良経が急死すると、道家はその後を継ぐ。承元3年(1209)3月、姉の立子を皇太弟の守成親王(後の順徳天皇)の妃として娶わせる。そのため、その後も左近衛大将、権大納言、内大臣、右大臣と栄進を続ける。更に順徳天皇と姉立子との間に懐成親王(後の仲恭天皇)が生まれると、東宮補佐役となる。建保6年(1218)12月には叔父の九条良輔が死去したこともあり、左大臣にまで栄進した。これは天皇家の外戚関係になったことと、岳父の西園寺公経が鎌倉幕府との関係が深かった事から、幕府の後ろ盾によるところが大きかった。その後、次男の二条良実が祖父の公経の後押しもあって関白となったが、祖父の後ろ盾でなったことを見てもわかるように、後嵯峨天皇の下で公経と土御門定通(天皇の大叔父)が政治の実権を握った一方で、天皇家との関係を失った道家の実力は衰退していた。だが、公経が死去すると、道家は勝手に公経の遺言と称して関東申次の職を継承し、さらに次男の良実を排除して(道家と良実は不仲で、良実は父から義絶されていた)、寵愛する4男の一条実経を関白として擁立する。しかも独断で関東申次を3人制として実経と近衛兼経を任命するなど、朝廷内での権勢を取り戻す。だが、このような独断専行を見せ始めたために次第に朝廷における信望を失っていった。また、幕府に対しても将軍の実父である事を理由にその政策への干渉を始め、北条氏得宗家に反発する北条一族や御家人達の支持を集めた事から、幕府側からも危険視されるようになっていった。そして、寛元4年(1246年)、鎌倉で頼経が執権・北条時頼によって、将軍職を廃される(宮騒動)。更に直後に起きた名越光時らの陰謀に頼経が関与していた事に対する連座に加えて、道家が親しくしていた雅成親王が幕府によって一時帰京を許された折に、後嵯峨院と後深草天皇を排して同親王を皇位に就けようとしていたとする容疑によって、道家は関東申次の職を罷免(公経の子・西園寺実氏に交代)され、実経も摂政を罷免させられた。これにより道家は政治的立場を完全に失った。なお、名越の陰謀にも関与していた三浦光村が後の宝治合戦で兄の泰村とともに北条執権方に討たれた際に「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされていることから、一連の「反得宗家」の陰謀に道家自身が積極的に関与していた可能性も指摘されている。更に建長3年(1251)末、孫の藤原頼嗣(第5代将軍)と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという嫌疑がかかる。道家はその中で翌年2月21日に死去してしまった。享年60。策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。
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