「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『戦国時代の群像』154(全192回) 木村重成(?~1615)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣

2017-07-12 04:54:05 | 温故知新
『戦国時代の群像』154(全192回)
木村重成(?~1615)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。知行3千石。木村重茲の子といわれている。母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる[1]。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買った。大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。その後、首は重勝が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、同寺院には木村重成の首塚がある。墓は第二寝屋川の南側、大阪府八尾市幸町の公園にある。また、木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には「若江木村通」という交差点がある。なお、慶長20年(1615年)1月7日に大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎え、八尾・若江の戦い前後に青柳と別れの盃を交わしたという。重成の死後、妊娠していた青柳は、近江の親族によって匿われ男児を出産後に出家した。そして、重成の一周忌を終えると青柳は20歳で自害したという。また、青柳の出産した男児は馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられている。佐土原藩主の島津忠持が、藩内の事跡や伝説等を選集させた『旧事雑記』に、「佐土原八日町に重成の誕生の地がある」と記されている。重成が大坂にあった理由は、重成の母がお伊勢参りの途中、大坂の宿に宿泊中であった際に、ちょうど豊臣家の家臣が秀頼の乳母を探しており、旅人まで物色していた最中に重成の母が目にとまり、秀頼の乳母になったためという。また、八日町の荒神神社の『荒神様縁起』にも「武州東禅寺開山定州和尚、仏日山大光寺一道和尚、日本武将豊臣秀頼の乳兄弟木村長門守重成の3名は、八日町松岩寺(松巌寺)前一番屋敷の産で有名な屋敷」とあった。付近ではこの一番地を木村屋敷と呼び、昭和31年(1956年)5月には、その場所に重成の等身大の石像が建てられ現存している。徳川氏の家臣・山口重信は八尾・若江の戦いにおいて木村重成と戦い戦死したが、重成の子孫の一つは牛久藩山口家に召抱えられ小川姓に改姓したと主張している。この事実は牛久藩側の史料からは証明できない上、史料学的に耐えうる小川家文書も現存していないため、伝承・伝説の範囲に留まる。なお、牛久藩の分限帳などによると小川氏は50石級の家臣であったといわれる。
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