「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『歴史の時々変遷』(全361回)75”承元の法難“ 「承元の法難」「北嶺からの批判」元久元年(1204)10月、北嶺(叡山)の衆徒は、専修念仏の停止

2017-02-09 04:31:22 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)75”承元の法難“
「承元の法難」「北嶺からの批判」元久元年(1204)10月、北嶺(叡山)の衆徒は、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行う(「延暦寺奏状」)。彼らは、当時の天台座主真性に対して訴えを起こした。「南都からの批判」元久2年(1205年)9月、南都の興福寺の僧徒から朝廷に対して吉水教団に対する提訴が行われ、翌月には改めて吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団より弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処された事件。建永の法難とも。「興福寺奏状」興福寺僧網大法師等 誠惶誠恐謹言、殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。元久元年(1204)11月、叡山側の動きに対して、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送る。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。南都北嶺による吉水教団に対する弾圧に対し、朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久2年12月19日に法然の「門弟の浅智」を非難して師匠である法然を宥免する宣旨が出された。これに納得しない興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。その結果、3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った後鳥羽上皇は憤怒し、建永2年(1207)2月、専修念仏の停止を決定[6]。住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、安楽房は六條河原において、住蓮房は近江国馬渕にて処される[7]。その他に、西意善綽房・性願房の2名も死罪に処される[8]。同月28日、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。法然は、土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。 この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」を与えられる。しかし法然は土佐まで赴くことはなく、円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地の讃岐国に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教する。その後、法然に対し赦免[11]の宣旨が下った。しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺(大阪府)で滞在する。ようやく建暦元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日、死去する。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
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