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『鎌倉・室町の群像伝』七十四”後宇多天皇“ 後宇多天皇(1267~1324)、鎌倉時代の第91代天皇(在位13年間)諱は世仁。文永4年(1267)、亀山天皇の第二皇子

2016-10-18 04:24:20 | 鎌倉室町の群像

『鎌倉・室町の群像伝』七十四”後宇多天皇“
後宇多天皇(1267~1324)、鎌倉時代の第91代天皇(在位13年間)諱は世仁。文永4年(1267)、亀山天皇の第二皇子として誕生する。母は左大臣洞院実雄の娘、皇后佶子(京極院)。祖父・後嵯峨上皇の意志により、文永5年(1268)生後8か月で立太子。文永11年(1274)1月に亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。建治元年(1275)、亀山上皇の血統(大覚寺統)に天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(持明院統)が幕府に働きかけ、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(伏見天皇)を皇太子とする。弘安9年(1286)に第一皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下を受けるが、弘安10年(1287)、21歳で皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。第一皇子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301)から徳治3年(1308)まで院政を敷いた。徳治2年(1307年)、寵妃の遊義門院が亡くなったことが契機となり、仁和寺で落飾(得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌徳治3年(1308)には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。持明院統の花園天皇を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。元亨4年(1324)6月25日、大覚寺御所にて崩御。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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