ひこいちの史跡探訪

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『鎌倉・室町の群像伝』六十八“一遍” 一遍(1239~1289)鎌倉中期の念仏富士理。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫

2016-10-12 04:25:20 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』六十八“一遍”
一遍(1239~1289)鎌倉中期の念仏富士理。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫。通広の子。幼名松寿丸。10歳で出家して随縁と名乗り、建長三年(1251)大宰府に赴き浄土宗西山派の聖達や華台の師事し名を智真と改めた。1263年父の死によって帰国して還俗したが、数年後再出発し聖戒(一遍の弟子)とともに聖達を訪れた。1271年信濃の善光寺に参篭して「二河白道図」を写して、それを伊予国窪寺の草庵に持ち帰り念仏に専心した。やがて十劫の昔に阿弥陀仏が悟りを開いたことと、今の衆生が一念で往生できることとが同時一体であること感得した、十一不二頌を作成。1273年に伊予の岩屋寺に参篭し、翌年超一・超二・念仏房の三人と遊行の旅に出る、四天王寺、高野山に参篭し、念仏札を配って歩いたが、札の受け取り拒否に困惑する。しかし熊野本宮せ、衆生の往生はすでに名号によって定まっているので信不信、浄不浄関わらず不札を配れ、との熊野権現の啓示を受けた。名を一遍と改め弟子たちと別れた。「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記された札を配(賦算ふさん)りながら九州から奥州まで全国を遊行して回った。1279年には信濃国小田切の武士の館で踊念仏始めている。一遍は寺や道場を建立することなく遊行を続けたが、一遍に付き従う時宗のために、1287年生活必需品12種に限定した。宿所ではそれらを収める十二光箱を僧尼の間に置いて男女の問題が起こらないようにした。1289年所持していた聖教を焼いて播磨国の観音堂で没した。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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