「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

戦国時代の群像』150(全192回) 「黒田 長政」(1568~1623)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。戦国武将・黒田孝高

2017-07-08 04:43:27 | 温故知新
『戦国時代の群像』150(全192回)
「黒田 長政」(1568~1623)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高と正室・櫛橋光の嫡男として播磨姫路城にて生まれる[1]。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。当時、この名前は縁起の良い名前として武将の嫡子にはよくつけられた名前である。当時の黒田家は御着城主・小寺氏の家老として小寺姓を賜り名乗っており、小寺吉兵衛とも呼ばれる。父・孝高は中央の織田信長に伺候し、織田氏家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従っていたが、天正5年(1577)10月15日に孝高は秀吉に対して起請文を提出し、松寿丸を人質として秀吉に預けている。松寿丸は秀吉の居城・近江長浜城にて、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。この頃、別所重棟の娘と婚約しているが、のちに破談となった。天正6年(1578)、信長に一度降伏した武将・荒木村重が反旗を翻す(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込むも説得に失敗し逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになった。ところが、父の同僚・竹中重治(半兵衛)が密かに松寿丸の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をするという[注釈 3]機転を効かせた。有岡城の陥落後、父が救出され疑念が晴らされたため、姫路へ帰郷した。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、初陣の冠山城の戦いなど中国地方の毛利氏方と戦った(備中高松城の戦い)。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、初めて河内国内に450石の領地を与えられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆、根来衆、菅達長率いる長宗我部水軍と戦った。その功績により、加増2,000石を与えられる。天正15年(1587)の九州平定では、長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて孝高に豊前国中津に12万5,000石が与えられた。しかし豊前の国人勢力を懐柔するのは困難であった。その中の有力領主の一人・城井鎮房(宇都宮鎮房)は秀吉の出陣要請に対して、病気と称して自身は出陣せず、息子の城井朝房に僅かな手勢を付けて参陣させた。このような鎮房の態度に秀吉は不信を抱き、以後の豊前国の治世の困難を憂慮して九州平定後、鎮房に伊予国への移封を命ずる。移封は加増を伴ったものであるが鎮房は先祖伝来の地に固執して朱印状の受け取りを拒否し、秀吉の怒りを買うに至る。この期に及んでは穏便に事を修めることが不可能と悟った長政は城井谷を攻撃したが、地の利のある鎮房のゲリラ戦術に苦戦した。そこで黒田父子は付け城を築いて兵站を断つ持久戦法をとり、他の国人勢力を各個攻め下していった。これが功を奏し形勢は逆転し、鎮房は12月下旬に13歳になる娘・鶴姫を人質に差し出すことを条件に和議を申し出、それが受け入れられ鎮房は恭順を誓った。しかし秀吉の承認を得ることは出来なかった。天正17年(1589)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。文禄元年(1592)から行なわれた秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒となった。釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山を進撃して5月7日に漢城へ到達した。5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略した。6月15日の大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。6月16日、敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。6月下旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。8月初旬の漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。文禄2年(1593年)正月に中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。慶長3年(1598)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老の徳川家康に接近し、先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女・栄姫(保科正直の娘)を新たに正室に迎えた。慶長4年(1599)閏3月に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派(いわゆる七将)と共に石田三成を襲撃した。この頃、根岸兎角ら優秀な鉄砲の遣い手を多数、召抱えている。慶長5年(1600)に家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として、子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国名島に、52万3,000余石の大封を与えられた。慶長9年(1604年)、父・如水が京都伏見屋敷(または福岡城三の丸御鷹屋敷)にて死去。如水はキリシタンであったため、葬儀はキリスト教カトリック式及び仏式で行われ、仏式では臨済宗京都大徳寺他にて大々的に取り行う。また、播磨国の鶴林寺に於いては、福岡藩の安寧と故地播磨をしのび大法要を行い、金銀を寄進した。鶴林寺には播磨時代に交わした寺と黒田家代々との文書などが多数保存されている。慶長11年(1606)、長政は筑前入部に従い同行してきた商人・大賀宗九に対し徳川家康から海外貿易を行うための朱印状を受けさせる。宗九はこの貿易により巨万の富を築き以降、博多筆頭町人、福岡藩黒田家御用の地位を得、博多一の豪商となった。また、この年に亡父・如水の供養ために、京都の大徳寺山内に塔頭・龍光院を建立。多くの文化財を有するこの塔頭は、当初規模も大きく現在の3倍以上の広さがあり、現在の大阪天満にあった黒田家大阪屋敷の書院、茶室等も移築したと言われる。大徳寺山内最大規模の塔頭であったが、明治の廃仏毀釈の際に方丈、庫裏などが破却された。慶長17年(1612)に、嫡男の黒田忠之とともに上洛し、忠之は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から松平の名字を与えられる。慶長19年(1614)の大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、代理として忠之を出陣させる。慶長20年(1615)の大坂夏の陣では秀忠に属して盟友の加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦った。また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した『大坂夏の陣図屏風』(通称『黒田屏風』)を描かせたが、その絵の中には徳川軍の乱妨取りも詳細に描かれており、何故徳川方の長政が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。同屏風は、大阪市所有(大阪城天守閣保管)で、国の重要文化財に指定されている。藩主となって以降、数々の福岡博多の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となる。元和9年8月4日(1623)、徳川家光の三代将軍宣下の先遣として、早くに上洛し、畿内にある関ヶ原合戦場など自らの足跡を巡っているが、既に病にかかっており、京都における黒田家の位牌寺、上京区報恩寺の客殿寝所にて、56歳の生涯を終える。辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」。

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