「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

“日本名僧・高僧伝”99・隠元隆琦(いんげんりゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師

2017-07-13 04:50:27 | 温故知新
“日本名僧・高僧伝”99・隠元隆琦(いんげんりゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉)は、明末清初の禅宗の僧。福建省福州福清県の生まれで、その俗姓は林である。隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。1592年、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した。29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。35歳で大悟した。38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎10年(1637年)に晋山した。後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山した。江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら良静・良徤・独痴・ 大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日夜に長崎へ来港した。月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。なお、隠元に随行した弟子のうち、良静ら十弟子は翌年に帰国したが、十弟子が日本に留まり大眉・南源・独吼は日本に帰化した。また、渡日当時、中国は明末清初の騒乱期であったことから、この騒を避けて来日したとされているが、残されている書簡や記録等からは、そのように判断する根拠は乏しい。隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。明暦元年(1655年)、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658年)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱との会見に成功した。その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。以後、中国福清の黄檗山萬福寺は「古黄檗」と呼ばれる。

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