「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『歴史の時々変遷』(全361回)233“越後福嶋騒動” 「越後福嶋騒動」江戸時代前期に起こった越後高田藩(福嶋藩)の堀氏によるお家騒動

2017-07-18 04:26:28 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)233“越後福嶋騒動”
「越後福嶋騒動」江戸時代前期に起こった越後高田藩(福嶋藩)の堀氏によるお家騒動である。慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命令で堀秀治は越前北之庄から越後春日山45万石に移封された。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に味方した秀治は所領を安堵され、秀治は春日山藩の藩主となる。秀治は慶長11年(1606年)に死去し、嫡男の堀忠俊が家督を相続する。慶長12年(1607年)、忠俊は春日山城を廃して福嶋城に移り、福嶋藩の藩主となった。忠俊は家督相続時は11歳の少年であり、そのために藩政は家老の堀直政(三条藩主)が担当した。しかし直政は慶長13年(1608)2月に死去する。すると藩政の実権をめぐって直政の後を継いだ堀直清と、坂戸藩主の堀直寄(直清の異母弟)が争い始める(彼ら自身の家督相続の問題もあったとされる)。慶長15年(1610年)2月、直清は忠俊に対して讒言し、直寄の追放を求めた。忠俊はこれに応じて直寄を追放したが、直寄は2月24日に駿府城の徳川家康に対して、直清の専横と横暴を訴えた。慶長15年(1610)閏2月2日、駿府城本丸において家康は、徳川秀忠をはじめとする幕府首脳陣が陪席する中で、堀一族の忠俊、直清らを召集して論戦を行なわせた。ところがこのとき、忠俊は直清をかばうような弁明書を家康に差し出しており、これが家康の怒りを買ったという。また、これとは別の事件で忠俊・直清らは家康の怒りを買った。藩政を牛耳っていた直清は、浄土宗と日蓮宗の僧侶を10余名ほど集めて宗論を行なわせ、敗れた浄土宗の僧侶を全員死罪にしていたのである。これらのことから、論戦は忠俊・直清側の敗北となった。家康は「忠俊幼弱にて讒臣にまよひ。邪正を弁へず讒者をたすけんとするをもて。大国を封ずる器にあらずとて。忽に越後の国四十五万石を奪われ云々」(徳川実紀)という裁断を下し、忠俊は越後高田(福嶋)45万石を改易されて磐城平藩主鳥居忠政預かりとなり、直清も改易されて山形藩主・最上義光預かりとなった。勝訴した直寄も、坂戸藩から信濃飯山藩4万石に減移封された。これにより、堀秀政より始まる堀氏の嫡流は事実上滅亡した。翌閏2月3日、家康は息子の松平忠輝に堀氏の旧領を加増して越後に移封し、75万石の大名とした。堀氏は忠俊の祖父秀政の頃からの豊臣恩顧の大名であった。当時の豊臣氏は摂河泉の3ヶ国に65万石を領する一大名に転落していたとはいえ、その影響力はまだまだ強かった。特に越後は西に豊臣と関係の深い加賀藩の前田利長、東に関ヶ原で減封された上杉景勝らがおり、彼らを抑える点でも重要地であった。そこに豊臣恩顧の堀氏がいるというのは家康にとって都合が悪い。そのため、堀一族の内紛を利用して改易に追い込んだという説が存在する。

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