「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『戦国時代の群像』101(全192回)榊原 康政(1548~1606)さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主

2017-05-17 05:08:34 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』101(全192回)榊原 康政(1548~1606)さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。榊原氏は三河仁木氏の一族とされ、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったことが知られ、三河に戻った系統でも台頭してきた松平氏の直臣になった系統とそれ以外の系統が存在していた。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、分家筋でも有力な存在とは言えなかった(康政の系統が伊勢の榊原氏本家から直接分立したのか、松平氏直臣身分となった榊原氏分家からの分立なのかは不明である)。天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き、榊原家の家督を相続しているが、理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが、未だ定かではない。ちなみに家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後、二人は和解している。家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。関ヶ原の合戦の後に老中となるが、所領の加増は無かった。家康が冷徹であったとする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけたことを挙げることもあり、康政らはこれに憤慨していたという説もある。別に、康政が次の世代の本多正信・大久保忠隣が既に老中となっていたため、「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら離れていったとする説もある。慶長11年(1606年)5月6日に毛嚢炎を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去。康政に恩ある秀忠は病床にある康政を見舞うため、医師や家臣を派したが、その甲斐なく59歳で没した。長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は三男の康勝が継いだ。
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