「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

“日本名僧・高僧伝”101・公慶(こうけい、慶安元年11月15日(1648年12月29日) - 宝永2年7月12日(1705年8月30日))は、江戸時代前期の日本における、三論宗の僧の一人

2017-07-15 04:44:53 | 温故知新
“日本名僧・高僧伝”101・公慶(こうけい、慶安元年11月15日(1648年12月29日) - 宝永2年7月12日(1705年8月30日))は、江戸時代前期の日本における、三論宗の僧の一人である。東大寺の大仏および大仏殿の再建に尽力した人物。丹後国宮津(現・京都府北部宮津市)の生まれである。万治3年(1660年)、東大寺の英慶に師事して三論を学ぶ。永禄10年(1567年)の兵火によって大仏殿が焼失し、大仏が露座のまま雨ざらしとなっていることを嘆き、大仏殿再建を決意する。貞享元年(1684年)江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭」をスローガンに全国に勧進を進め、7年後には1万1千両にまで達した。これは現在の貨幣価値に換算するとおよそ10億円にも及ぶ。徳川綱吉の援助もあり、元禄5年(1692年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行った。この功を認められて翌・元禄6年(1693年)には、護持院隆光の仲立ちにより、5代将軍・徳川綱吉に拝謁している。その後も西国に勧進を継続したが、大仏殿の落慶を見ることはなく、宝永2年(1705年)に江戸で客死した。遺骸は奈良へ運ばれ、東大寺の北にあり、東大寺復興の先人重源が建てた五劫院に埋葬された。大仏殿の落慶が成ったのは宝永6年(1709年)、公慶が没してのち4年目のことであった。現在の東大寺に見られる大仏殿と、中門・廻廊・東西楽門はこのときに再建されたものである。公慶の死の翌年、慶派仏師性慶と公慶の弟子即念によって製作された『公慶上人像』(重要文化財)は、充血した左目やこけた顔、数多く刻まれた皺など写実性に富み、生涯を捧げ復興に東奔西走した公慶の辛苦を今に伝える。本像は勧進所内に建てられた御影堂にあり、志半ばで倒れた公慶が完成した大仏殿を常に見上げられるよう、東を向いて安置されている。
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