「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『歴史の時々変遷』21”橘奈良麻呂の乱“「橘奈良麻呂の乱」、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして

2016-11-20 04:32:39 | 歴史の時々変遷

『歴史の時々変遷』21”橘奈良麻呂の乱“
「橘奈良麻呂の乱」、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。天平15年(743)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738年の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。翌757年4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。仲麻呂の専横に不満を持ったのが、諸兄の子の奈良麻呂である。奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月28日、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月2日、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。東人の供述により、、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
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