ひこいちの史跡探訪

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『歴史の時々変遷』(全361回)145”川中島の戦い③犀川の戦い“ 「川中島の戦」③犀川の戦い・川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎

2017-04-21 04:32:13 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)145”川中島の戦い③犀川の戦い“
「川中島の戦」③犀川の戦い・川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。天文23年(1554)、晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉方と対峙する北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田方に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。天文24年・弘治元年(1555)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿(初代)が武田方に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。
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