「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『歴史の時々変遷』(全361回)“88“文保の和談“ 「文保の和談」鎌倉時代後期の文保元年(1317)に後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫

2017-02-22 04:31:10 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)“88“文保の和談“
「文保の和談」鎌倉時代後期の文保元年(1317)に後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する(両統迭立)ことを定めたとされる合意。しかし、近年の学界では合意はなされていないとする見解が主流である(後述)。白河院以降院政が定着するとともに、当時貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった家職観念のもと、天皇位と天皇家の家督が分離し、家督者(治天の君)となった者が本来の天皇の権限を執行し、皇位継承者を指名(譲国)するようになった。しかし承久の乱以後、皇位継承に関しては鎌倉幕府の承認が必要とされるのが慣例であった。仁治3年(1242)四条天皇の死去に際し、幕府は有力候補であった忠成王の即位を拒絶し、ダークホースの邦仁王(後嵯峨)を即位させた。このため後嵯峨は以後の皇位継承に際しても幕府の内諾を得てから決定した。後嵯峨は、寛元4年(1246)、皇子久仁親王(後深草天皇)に譲位した後、文応元年(1260)に後深草の同母弟恒仁親王(亀山天皇)に譲位させた。その際、後嵯峨院は、亀山の皇子世仁親王を皇太子とした。このことは後嵯峨が後深草の皇位を本人一代限りのものとし、亀山の子孫を正統の王家とする意向を持っていたことを推測させる。しかし後嵯峨はその意向を明確にしないまま死去した。親権者の指名がなければ治天の君の継承問題は解決できない。後嵯峨が解決を鎌倉幕府に一任していたという節もあり、幕府は、後嵯峨の真意を後深草と亀山の母である大宮院に確認し、大宮院の指名により亀山の親政が決まった。文永11年(1274)亀山は皇太子世仁(後宇多天皇)に譲位し院政を開始した。しかし、これに不満を抱いた後深草が翌建治元年(1275)、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明したことから、関東申次西園寺実兼と執権北条時宗との折衝により、後深草の皇子熈仁親王(伏見天皇)が同年中に亀山の猶子となり親王宣下、立太子し、続く弘安9年(1286)には後宇多皇子邦治王(後二条天皇)が親王宣下された。これは伏見が亀山の院政下に即位し、その後を後二条が継ぐことを念頭に置いた措置であったと推定されているが、同10年(1287)伏見の即位に伴い、治天の地位が後深草に移動、後深草院政が開始された。この理由については、従来幕府による朝廷権力の掣肘であるとする見解が主流であったが、近年では亀山が西園寺実兼との不和に加え、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しかったことや、「新制」に対し熱心であった態度が東国のみならず全国へ実効支配を広げようとする得宗勢力の不審を呼んだのではないかとする説が有力となっている。さらに伏見は、産まれたばかりの自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を立太子し、正応3年(1290)に浅原為頼による伏見暗殺未遂事件が起こると、黒幕と疑われた亀山の地位は急速に低下。永仁6年(1298)には後伏見が即位し伏見の院政が始まった。このことは大覚寺統の反発、鎌倉幕府への巻き返し工作を招き、邦治親王が皇太子となり、後伏見天皇は即位3年で邦治に譲位させられた。ここに後宇多の院政が開始されたが、持明院統の後伏見の弟富仁親王(花園天皇)が後伏見の猶子として立太子された。これは皇統の再分裂を避けるためであったとされている。★史跡が教える先人の葛藤と情景に学ぶ教訓。
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