ひこいちの史跡探訪

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「新西国観音三十三所巡り」神峯山寺”新西国14番札所“・高槻は京都と西山に抜ける東海自然歩道は「神峯山寺」

2017-05-20 05:43:21 | 史跡探訪
「新西国観音三十三所巡り」神峯山寺”新西国14番札所“・高槻は京都と西山に抜ける東海自然歩道は「神峯山寺」の標識辺りから細い山道、車のすれ違いも難しい、曲がりくねった山間を行くと谷川の向こうに山門が見える。境内を行くと石段の上には、風雪を感じる古風な本堂には日本最初の毘沙門天霊場で古くより信仰され、別名多聞天と呼ばれ、開山は役行者で本尊の毘沙門天(別名多聞天)は役行者が刻んだものである。修行中の葛城山の山中で、北側の山中に光明を射すのを見てこの地に来た役行者は金毘羅童子に霊木を教えられ刻んだのが四方に光を放ち、一つが京都は鞍馬寺、一つは河内は信貴山の毘沙門天に、一つはこの山の北の峰に飛び散り、根元の残った像がこの寺の本尊になった。奈良時代の宝亀年間には光仁天皇の皇子開成皇子が帰依し多くの伽藍堂塔を寄進した。毘沙門天は武運長久、軍神の守護仏として古くより信仰され、都の鬼門を護る、北方鎮護を担う為に、王城鎮護の霊場として比叡山で最澄によって毘沙門天像が祀られた。この寺と皇室との関係は深く、光仁天皇の勅願により境内には天皇の頭髪を納めた十三重の塔があり幕末、明治には伏見宮那家親王や有栖川家綾仁親王の御真筆が残されている。また武神が鎮座する地域として、足利義満や豊臣秀頼の生母淀君殿の寄進が寄せら徳川家にも加護を受け、大いに栄えたが江戸中期に多くの堂塔が焼失した、往時は二十一坊、寺領千三百石も有った時勢の面影は無く、昔の姿には戻らなかった。現在は五坊で法灯を役行者の伝統を受け継いでいる。神峯山は仏教の聖地として比叡山と並び七高山の一つに数えられ本堂に当たる宝党院に安置されている阿弥陀如来蔵と二体の聖観音菩薩立造は平安作の重文であり「新西国札所十四番」となっている。また比叡山の阿弥陀信仰の融通念佛宗の大阪布教の経由の寺として、一般庶民の商売繁盛の祈願の寺として豪商鴻池家などの商人の信仰の寺でもあった。
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