「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

“日本名僧・高僧伝”33・明菴栄西(1141年5月27日) - 1215年8月1日)平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。臨済宗の開祖

2017-05-11 05:07:11 | 史跡探訪
“日本名僧・高僧伝”33・明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日1215年8月1日)[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴[注釈 2]、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。永治元年(1141年)4月20日[注釈 1]、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として誕生。生地は備中国賀陽郡(現在の岡山県加賀郡吉備中央町)。曽祖父は薩摩守・賀陽貞政。『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子で重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや、重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。仁安3年(1168年) 形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。文治3年(1187年) 再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。建久2年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。建久5年(1194年) 禅寺感応寺 (出水市)を建立。大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。正治2年(1200年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。建仁2年(1202年) 鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
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