ひこいちの史跡探訪

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『歴史の時々変遷』(全361回)170“長島一向一揆”「長島一向一揆」・元亀2年(1571)に長島一向一揆が起こる。石山挙兵とほぼ同時に長島願証寺

2017-05-15 04:52:40 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)170“長島一向一揆”「長島一向一揆」・元亀2年(1571)に長島一向一揆が起こる。石山挙兵とほぼ同時に長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)し、尾張の古木江城を落として守っていた信長の弟信興を自害に追い込むなど、公然と信長に敵対するようになった。元亀2年(1571)5月に信長は長島殲滅を図るが失敗し、多数の兵を失った。この年の一向一揆に対する戦果は、9月に一向一揆の篭る志村城・金ヶ森城を降伏させたに留まる。また、元亀3年(1572)に信長が京都に自身の屋敷を建てた際には、3月に顕如から万里江山の一軸と白天目の茶碗を贈呈されている。7月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫したが、これは武田信玄の仲介という形で和議を結んでいる(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)。元亀4年/天正元年(1573)に信長は再度長島を攻めたがまたも失敗した。11月には白天目の茶碗を贈られたことに対しての謝礼をしている。但し、兵力を出して戦火を交えてはいないものの、いわゆる情報戦は非常に盛んであった。顕如は遅くとも元亀3年末ごろまでには武田信玄や毛利輝元などと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交や上杉謙信への友好工作などを行っている。したがって天正元年末までは、石山本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわば冷戦よりややましな程度で推移していたと思われる。天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年の1月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆により織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく一向一揆のもちたる国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった。これを知った顕如は、はじめ七里頼周を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し、4月2日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵した。本願寺は長島・越前・石山の3拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。7月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、9月29日には降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の2個所は柵で囲んで一揆勢を二万人を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害した。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「新西国観音三十三所巡り」... | トップ | 『戦国時代の群像』98(全... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL