「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『戦国時代の群像』153(全192回) 大野治長(?~1615)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。

2017-07-11 05:02:42 | 温故知新
『戦国時代の群像』153(全192回)
大野治長(?~1615)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。兄弟に、治房・治胤・治純、子は大野治徳、治安(弥十郎)ほか。官位は従四位下修理大夫。知行15,000石。永禄12年(1569年)、丹後国大野(現在の京丹後市)で生まれた。
父は豊臣秀吉の家臣であった大野定長(道犬)、母は後に淀殿の乳母となる大蔵卿局であり、母の伝手により秀吉に約3,000石の馬廻衆として取り立てられた。
天正17年(1589年)に父および母の功績により和泉国佐野(現在の泉佐野市)と丹後国大野合計1万石を道犬と共に与えられ、大野城を拠点として領国を運営した。
文禄3年(1594年)の伏見城の普請に携わっている。秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕えたが、慶長4年(1599年)の徳川家康暗殺計画事件の首謀者の一人として罪を問われ、下総国に流罪とされる。
翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に参戦し武功を上げた事で罪を許され、戦後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残った。慶長19年(1614年)6月、片桐且元の弟である片桐貞隆と共に家康の口添えで5,000石を秀頼より加増され、その礼として貞隆と駿府にいる家康、次いで江戸の将軍・徳川秀忠を訪ねる。
同年に豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至る。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。『春日社司祐範記』は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」と記している。享年47歳。

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