「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『歴史の時々変遷』(全361回)296“明和の大火”

2017-09-21 12:59:44 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)296“明和の大火”
「明和の大火」江戸時代に江戸で発生した大火災である。明和の大火は、明和9年2月29日(1772)に、江戸で発生した大火である。明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれる。「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火である。真秀は火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川宣以の父親)の配下によって明和9年(1772)4月頃に捕縛され、同年6月21日(1772)に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。2月29日13時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、18時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日(4月2日)の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した。死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼した。


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「平安京物語」64”悪左府頼長“藤原 頼長

2017-09-21 12:56:11 | 温故知新
「平安京物語」64”悪左府頼長“藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。兄の関白・藤原忠通と対立し、父・藤原忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色はじめ当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。摂関家の才子、幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。同年、右近衛権中将。天承元年(1131年)に従三位。翌年参議を経ずに権中納言に昇進。長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。長承3年(1134年)、権大納言となる。また、姉の泰子(高陽院)が鳥羽上皇の皇后に冊立されると皇后宮大夫を兼ねる。保延2年(1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねる。保延5年(1139年)、東宮傅となり左近衛大将を兼任する。久安5年(1149年)、左大臣に進む。多子・呈子の入内競争、白河上皇の院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となり息を吹き返した。忠通は後継者に恵まれなかったため、天治2年(1125年)に頼長を養子に迎えた[1]。しかし康治2年(1143年)に実子・基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・多子が入内、19日に女御となる。しかし2月になると忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する(『台記』2月12日条)。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる[2]。鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。9月26日、立腹した忠実は摂関家の正邸・東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。さらに翌仁平元年(1151年)正月3日、忠実は忠通に譲渡していた藤原師実・藤原師通の日記正本を没収し、これも頼長に与えた(『台記』久安7年正月3日条)。また忠通の同母姉・泰子(高陽院)までもが異母弟・頼長の後ろ盾となり、所有する摂関家の拠点のひとつ土御門殿を頼長に譲った。しかし鳥羽法皇は先の入内問題と同じように曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留めたまま頼長に内覧の宣旨を下す。ここに兄弟で関白と内覧が並立するという異常事態となった。忠通の息子慈円の著作『愚管抄』の記すところによると、かつて忠通に息子として育てられた恩を忘れられない頼長は、宮中で忠通に出会った際に丁重に会釈する等礼を尽くすことで関係改善の糸口を探ったが、頑なな態度の父と兄の前に(周囲の同情は集めたものの)失敗に終わっている。執政と孤立、執政の座についた頼長は意欲に燃え、学術の再興[3]、弛緩した政治の刷新を目指した。その信条は聖徳太子の十七条憲法により天下を撥乱反正[4]することにあった(『台記』康治2年10月22日条)。勢力を強めていた奥州藤原氏の藤原基衡にも、自身の荘園の年貢増徴を要求して、仁平3年(1153年)に妥結した。しかし律令や儒教の論理を重視して、実際の慣例を無視する頼長の政治は周囲の理解を得られず、院近臣である中・下級貴族の反発を招き孤立していった。また、近衛天皇も頼長をあからさまに嫌うようになった。その後、頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなす。即ち、仁平元年(1151年)9月、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊するという事件、仁平2年(1152年)仁和寺境内に検非違使を送り込み僧侶と騒擾、仁平3年(1153年)5月、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件、同年6月に上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎ、などである。これらの一連の出来事は、頼長自身の綱紀粛正の意味もあったが、かえって、寺社勢力とも対立を深め、仁平4年(1154年)4月、延暦寺の僧たちによる満山呪詛を生じせしめた。こうして、頼長は対立勢力を勢いづけ、ひいては徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が崩御した。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子・守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁王はまだ年少であり、存命する父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西の策動があったと推測される。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)[7]。忠実は頼長を謹慎させ連絡役である高陽院を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が薨去したことでその望みを絶たれた。保元の乱、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、京中の武士の動きを停止する措置が取られ(『兵範記』7月5日条)、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家の家司・平信範はその日記『兵範記』に「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆の念を記している(『兵範記』7月8日条)。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。謀反人の烙印を押された頼長は挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意する。上皇方の拠点となった白河北殿には貴族では上皇の側近・藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為義・平忠正などが集結するが、その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白だった。軍議で源為朝は高松殿への夜襲を献策したが、頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。天皇方は「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。上皇方が総崩れとなる中、頼長は家司の藤原成隆に抱えられ騎馬で御所から脱出するが、源重貞の放った矢が頸部に刺さり重傷を負った。出血による衰弱に苦しみながら、12日嵐山方面、13日には舟で大井川(現桂川)を渡り巨椋池を経て木津へと逃亡を続ける。最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望むが拒まれ、14日に失意のなかで力尽きた。享年37。遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、信西の命によって暴かれ、検視されるという恥辱を受ける羽目となる。頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷の認識は、頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。しかし21年を経た安元3年(1177年)、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった天地驚愕の大事件が都で連発するに及んで、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。


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「史跡探訪」称念寺(新田義貞の墓所)は、福井県坂井市(旧坂井郡

2017-09-21 12:11:01 | 温故知新
「史跡探訪」称念寺(新田義貞の墓所)は、福井県坂井市(旧坂井郡丸岡町)にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、721年(養老五年)泰澄によって開かれたと伝えられ、1290年(正応三年)他阿真教によって時宗に改められたという。新田義貞が延元三年・暦応元年(1338年)に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所があり、近世に江戸幕府や福井藩から保護を受けた。近くにあった末寺の光明院は倉を経営していた[1]。また三国港から日本海を通じて交易を行っていた。そのため越後国府中(新潟県上越市)に同名の寺もできた(当初「応称寺」と言ったが、すぐ同じ名に改めた)。高田城下に移転した。室町時代には、後花園天皇や室町幕府八代将軍足利義満の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。それらは文書として当寺に残されている[2]。門前に一時期明智光秀が住み、そこから仕官して出世していったという。その時の妻とのエピソードに因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。
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「二十二社巡り」大和神社・大和盆地は天理市の田園風景に巨大な森

2017-09-21 12:10:48 | 温故知新
「二十二社巡り」大和神社・大和盆地は天理市の田園風景に巨大な森に広大な境内地を持つ大和神社は『延喜式』神名に大和国山辺郡筆頭に「大和坐大国魂神社三社」と記されている。旧上街道から三百メートルはある参道の奥に、拝殿と本殿が建つ。拝殿は三社あって、中央に日本大国魂大神、向かって右に八千戈大神、左に御年大神が祀られている。日本大国魂大神とは大地主大神とも言い、地鎮祭に際には、この神に祈るのが習わしになっている。大和神社は寛平九年(897)に正一位に叙せられ、平安中期には二二社に列し、国家の大事に奉幣祈願を受けた。摂社、末社三十四を数えた。伊勢神宮に次いで重視されていたが、火災や兵乱によって衰退していった。長い時代を経て明治四年(1871)に官幣大社となって、翌年に社殿を新たに造営された。
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四国八十八カ寺」金泉寺(こんせんじ)は、徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第三番札所。亀

2017-09-21 12:06:23 | 温故知新
四国八十八カ寺」金泉寺(こんせんじ)は、徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第三番札所。亀光山(きこうざん)釈迦院(しゃかいん)と号する。本尊は釈迦如来で、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来を安置する。本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく・聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
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『江戸泰平の群像』38・伊達 秀宗(だて ひでむね)(1591

2017-09-21 12:02:10 | 温故知新
『江戸泰平の群像』38・伊達 秀宗(だて ひでむね)(1591~1658)は、伊予宇和島藩の初代藩主。初代仙台藩主伊達政宗の長男。母は側室・新造の方(異説あり)。異母弟に仙台藩2代藩主伊達忠宗がいる。天正19年(1591年)9月25日、伊達政宗の庶長子として陸奥国柴田郡村田城にて生まれる。幼名は兵五郎。この時点では、政宗の正室愛姫に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。文禄3年(1594年)、政宗に伴われて秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出される事になり、伏見城で養育された。文禄4年(1595年)7月に秀次事件が起こると、豊臣秀次と親密だった政宗もこの事件に連座し、隠居して家督を兵五郎に譲ることと伊達家の伊予への国替えを秀吉から命じられた。結局は徳川家康の取りなしにより許されたが、8月24日に在京の重臣19名]の連署による起請文提出を命じられ、「もし政宗に逆意があればただちに隠居させ、兵五郎を当主に立てる」旨を誓約させられている。文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱を受けて秀宗と名乗った。従五位下侍従に叙位・任官され、豊臣姓も授かっている。豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられた。秀吉死後の慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵(関ヶ原の戦い)すると、三成方の宇喜多秀家の邸にて、対伊達政宗の人質となる。慶長7年(1602年)9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫(このとき、数え年で政宗36歳、愛姫35歳となっており、当時としてはかなりの高齢出産であった)との間に虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、慶長8年(1603年)1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。慶長14年(1609年)、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が慶長16年(1611年)12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外される事になった。この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。このため別家を興すことを父・政宗が考える。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父と共に参陣し、初陣を飾る。戦後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった。家臣団の多くは政宗が伊達家中から選んだ者で、秀宗入部の際、57騎騎馬団のほか足軽、小者あわせ約1200名がいたとされる。重臣は政宗の意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から6万両の借財をした。元和6年(1620年)、家老山家公頼が対立していた桜田元親に襲撃されて一族皆殺しにあう。秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。さらに翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。その後、秀宗は藩政に注力した。翌年の元和8年(1622年)12月、遠江守を叙任する。寛永3年(1626年)8月19日には従四位下に昇位する。勘当が解けてから政宗と秀宗の仲は親密になり、和歌を交歓したり、「唐物小茄子茶入」と秘蔵の伽羅の名香「柴舟」が政宗から贈られ、これら政宗から秀宗に贈られた品は宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵された(他に茶壷の銘冬寒、銘仙々洞などがあり、宇和島市立伊達博物館の企画展・特別展で見ることができる)。寛永13年(1636年)5月に政宗が死去し、6月に仙台の覚範寺で葬儀が営まれた際、秀宗は次男の宗時と共に葬儀に参列した[7]。寛永14年(1637年)から翌年にかけて、島原の乱では幕命により派兵している。寛永14年(1637年)頃より病床に臥すことが多くなったが、病気は中風だったという[8]。このため、寛永15年(1638年)に世子であった次男の宗時が宇和島に帰国して「太守」「殿様」として政務を代行した[8]。このため、歴代に宗時を入れている記述が見られることより、幕府からも実質的な当主は宗時であると認識されていた。秀宗晩年の宇和島藩では領内検地、そしてそれを基にした定免法(年貢の固定化)の採用、藩士給与についても従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米の現物支給)とした。慶安2年(1649年)2月5日には宇和島を大地震が襲い、翌年に長患いしていた中風を理由に療養を幕府より許されて宇和島に帰国した[10]。承応2年(1653年)に宗時が39歳で早世したため、三男で20歳の宗利が世子となる。その翌年からは藩と商人資本による新田開発が進められた。明暦3年(1657年)7月21日、世子の宗利に家督を譲って隠居した。8月16日には五男の宗純に伊予吉田藩を分知したため、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となった。明暦4年(1658年)6月8日に江戸藩邸で死去。享年68。


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