「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の時々変遷』(全361回)295“元文一揆”

2017-09-20 12:57:27 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)295“元文一揆”
「元文一揆」元文4年(1739)2月に鳥取藩で起きた大規模な百姓一揆。勘右衛門騒動ともいわれる。この一揆には藩領である因幡国と伯耆国の合わせて約5万人が参加したとされ、藩政史上最大の百姓一揆といわれる。(当時の因幡・伯耆の人口は約30万人程度であるから、実に総人口の6分の1が参加したことになる)当時、鳥取藩においては飢饉などによる藩政の混乱が続き、加えて藩主・池田吉泰に重用された米村広治・広当ら米村派とその改革に批判的な物頭派の対立は藩政の混乱に拍車をかけていた。そのような中におきた元文3年(1738)の長雨は藩内全域に被害をもたらし、合計で約3万1000石余りの損害が生じた。年貢不足に苦しむ百姓の間には入牢者も相次ぐようになり、鳥取城下に食べ物を乞いに出て行く者も現れるようになっていたが、藩は救済策を講じず、郡代などを勤める米村広当の取り立ては厳しいままであった。藩民の不満が募っていく中、八東郡東村の松田勘右衛門らは、状況を打開しようと一揆を計画し、因幡・伯耆の各所に応援を求めた。鳥取藩側の史料である『御国日記』などによれば、一揆は元文4年(1739)2月19日に因幡国岩井郡から始まり、一行は八東郡へ向かったという。その一方で当時岩井郡の大庄屋を務めていた中村半兵衛の日記・『御用日記』には「(半兵衛の下から派遣された)谷田利平らが一揆勢の中に岩井郡の者が一人もいないことを確認して帰ってきた」とする記述がある。一説に2月11日~12日にかけて岩井郡で不穏な動きが見られたことが原因とされる。しかし、この件に関しては一揆発生前に取調べが終了し、庄屋が閉門に処せられるなど沈静化した様子が見られることから、一揆との直接的な関係があったのかは不明である。2月20日、西御門村で勘右衛門らと合流した一揆勢は若桜の大庄屋・木島市郎右衛門の屋敷を打ち壊した。一報を聞いて駆けつけた在吟味役・小谷新右衛門、郡奉行・安田清左衛門ら藩の役人を追い返した一揆勢は各地で年貢の取立てに熱心な大庄屋などの住む屋敷の打ち壊しを行い、食事などの支給を受けながら城下の鳥取へと向かった。一方、伯耆においても因幡での動きに呼応して各地から参加者が集まり、城下へ向かった。途中、気多郡・高草郡を通過し、約2万人に膨れ上がった伯耆勢は打ち壊しなどの破壊行為は行わず、因幡勢より一足早く到着、城下近郊の千代川河川敷に集結した。2月23日、24日にかけては因幡勢が合流、最終的に約5万人あまりに膨れ上がったという。藩側は一揆勢を刺激しないように勤め、鳥取の町目付を派遣して対応、一揆勢からの願書を受理した。また、2月23日付けで郡代・米村広当らを罷免・閉門に処し、翌日には前の郡代・松井番右衛門を後任として対応させた。2月25日、松井番右衛門は12条から成る回答書を一揆勢に提示、一部の参加者は村へ帰るものも現れたが、大半の者は残っており、また新たに願書を提出した。これも受理されたようだが、内容については不明である。2月26日には一部の者が城下へ乱入を試みるも失敗、翌日には目付らの説得と長期化による疲労により、ほとんどの参加者が帰宅した。2月27日、大半の一揆参加者が帰宅したその日から藩は首謀者の捜索と逮捕を開始した。その日のうちに鳥取城下の長屋に潜伏していた松田勘右衛門兄弟らを逮捕、2月から3月にかけて数十名を逮捕した。しかし捜査が進むにつれ、武士の間にも一揆首謀者との接触が判明した者が現れ始めたために、処罰は大規模な一揆にもかかわらず最小限に止められた。武士の中では、一揆に同情的であった上野忠親、一揆勢から要職登用の願いがあった福住弥一兵衛、首謀者が隠れていた長屋の持ち主であった永原弥左衛門らが閉門や暇を出されている(これには一揆首謀者の松田勘右衛門が以前より出仕を希望して、役所などに出入りを繰り返し、役人などと接触していたからとされる)。取り調べ開始から1年以上経った元文5年(1740年)11月21日、一揆の首謀者・松田勘右衛門らの処刑が執行された。それと同時に処罰された関係者40名あまりが追放刑に処せられた。また、一揆のもたらした混乱と影響は大きく、完全な沈静化には時間がかかった。一揆が終結して1ヶ月ほど経った3月下旬には藩から出された通達が一揆勢の要求とは異なるとして伯耆国西部で打ち壊しが起こったほか、伯耆では新たな一揆を行うとする噂が立つなど不穏な情勢が続いた。これら一揆の余波は藩側が沈静化させようと努力した結果、4月下旬になってようやく完全に静まった。一揆後、米村広当は国外へ退去し、藩の中枢における米村派の影響は著しく低下した。しかし、一揆勢が登用を求めていた武士の多くは閉門などに処せられ、あまり藩政の変化などは見られなかったが、大規模な一揆を目の当たりにした鳥取藩は新藩主・池田宗泰の進める改革の下で農民に対する一定の配慮を見せるようになった。


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「平安京物語」63”鳥羽院制と美福門院“

2017-09-20 12:51:07 | 温故知新
「平安京物語」63”鳥羽院制と美福門院“
鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。当然ながら幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河院政が本格化した。白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を天承元年(1131年)に呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める[1]。有力な院司として、藤原顕頼や藤原家成がいる。また伊勢平氏の平忠盛の内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛した。永治元年(1141年)、23歳の崇徳天皇を譲位させ、得子所生の皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。康治元年(1142年)に東大寺戒壇院で受戒し法皇となる。久寿2年(1155年)に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われ、崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を作った。
※藤原 得子(美福門院)(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の女、方子。院号は美福門院(びふくもんいん)。永久5年(1117年)に生まれ、父の鍾愛を一身に受けて育った。長実は「ただ人にはえゆるさじ(並みの人には嫁がせる気になれない)」と語り(『今鏡』)、臨終の間際には「最愛の女子一人の事、片時も忘るゝなし」と落涙したという(『長秋記』長承2年8月13日条)。父である長実は、祖母に当たる藤原親子(ちかこ)が白河上皇の乳母であったことから恩恵を蒙り、白河院政期には院の近臣として活躍した人物である。父の死後は二条万里小路亭で暮らしていたが、長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり、保延元年(1135年)12月4日に叡子内親王を出産する。保延2年(1136年)4月、従三位に叙された。保延3年(1137年)、暲子内親王(八条院)を産んだ後、保延5年(1139年)5月18日、待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産した。同年8月17日、鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とする。体仁親王の立太子とともに得子は女御となり、正妃の璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。保延6年(1140年)には崇徳帝の第一皇子・重仁親王を養子に迎えた。
永治元年(1141年)12月7日、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。近衛帝即位の同年、得子は国母であることを根拠に、異例中の異例として上皇の妃ながら皇后に立てられる。皇后宮大夫には源雅定、権大夫には藤原成通が就任した。得子の周囲には従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、縁戚関係にある村上源氏、中御門流の公卿が集結して政治勢力を形成することになる。直後の永治2年(1142年)正月19日、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院は出家に追い込まれ、得子の地位は磐石なものとなった。久安5年(1149年)8月3日、美福門院の院号を宣下された。
久安4年(1148年)に得子は従兄弟の藤原伊通の娘・呈子を養女に迎えた(『台記』7月6日条)。藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内することを鳥羽法皇が承諾した直後であり、当初から多子に対抗して入内させる意図があったと見られる。久安6年(1150年)正月、近衛天皇が元服すると多子が入内して女御となるが、2月になると呈子も関白・藤原忠通の養女として入内することになり、藤原忠通は鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上した。忠通は弟・頼長を養子にしていたが、実子・基実が生まれたことで摂関の地位を自らの子孫に継承させることを望み、得子と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる。 3月14日に多子が皇后になると、4月21日に呈子も入内して、6月22日に立后、中宮となった。
得子は待賢門院と同じ閑院流の出身である多子よりも、自らの養女である呈子に親近感を示して早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)10月の懐妊着帯は得子の沙汰で行われ、12月に呈子が御産所に退出すると等身御仏5体を造立して安産を祈願している(『兵範記』10月19日条、12月22日条)。しかし予定日の翌年3月を過ぎても呈子は出産せず、僧侶が連日の祈祷を行うも効果はなく、9月に懐妊は誤りであったことが判明して祈祷は止められた(『兵範記』7月30日条、『台記』9月14日条)。12月に呈子は御産所から内裏に還啓する(『兵範記』12月17日条)。周囲の期待に促された想像妊娠だったと思われる。皇子出産の期待を裏切られた得子は忠通と組んで、意に適う皇位継承者を求めて動き出すことになる。
久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が崩御する。得子には養子として、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と雅仁親王(崇徳上皇の同母弟)の息童である孫王(守仁、後の二条天皇)がいた。このうち後者は既に仁和寺の覚性法親王の元で出家することが決まっていたために、重仁親王が即位するものと思われた。しかし後継天皇を決める王者議定により、孫王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。背景には崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する得子、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、また崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌年3月5日には得子の娘・姝子内親王を妃に迎えるなど、得子の全面的な支援を受けた。 時を同じくして世間には近衛天皇の死は呪詛によるものという噂が流れ、呪詛したのは藤原忠実・頼長父子であると得子と藤原忠通が鳥羽法皇に讒言したため、頼長は内覧を停止されて事実上の失脚状態となった。こうして皇位継承から排除され不満が募る崇徳上皇と、得子によって失脚させられた藤原忠実・頼長が結びつき、鳥羽法皇が崩御した直後の保元元年(1156年)7月8日、保元の乱が勃発する。得子はすでに落飾していたが、この乱においては卓抜な戦略的手腕を見せ、重仁親王の乳母子ゆえに鳥羽法皇の遺命では名が挙げられなかった平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。乱後は信西が国政を担ったが、得子はかねてからの念願であった自らの養子・守仁親王の即位を信西に要求し、保元3年(1158年)8月「仏と仏との評定」、すなわち信西と得子の協議により、守仁親王の即位を実現させた(二条天皇)。しかし二条天皇の即位は信西一門・二条親政派・後白河院政派の形成・対立を呼び起こし、平治の乱が勃発する原因となった。得子は平治の乱の収束を見届けた後、永暦元年(1160年)11月23日、44歳にして白河の金剛勝院御所において崩御。遺令により遺骨は高野山に納められた。この時、女人禁制である高野山ではその妥当性が問題になった。


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「遺跡探訪」一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町に

2017-09-20 12:45:16 | 温故知新
「遺跡探訪」一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にあった戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。遺跡全体が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡した。一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国四代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口一万人を超え、越前の中心地として栄えていた。1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄十年)には戦国五代朝倉義景が足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。1573年(天正元年)刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
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「二十二社巡り」北野天満宮・京都市上京区にある神社。

2017-09-20 12:10:58 | 温故知新
「二十二社巡り」北野天満宮・京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社。通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。祭神・主祭神菅原道真公・相殿神・中将殿・吉祥女を祀る。延喜三年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後二十年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶五年(942年)、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、五年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。その後室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する。天正十五年(1587年)境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
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京都古社寺探訪「宝徳寺」京都は清水寺の急な参道に面して無常寺

2017-09-20 12:06:01 | 温故知新
京都古社寺探訪「宝徳寺」京都は清水寺の急な参道に面して無常寺として、本尊厄除け阿弥陀如来を脇檀に魚藍観世音菩薩を安置する。創建は定かではないが、中興の関山は徳空上人歴代相承して今日にいたる。本尊阿弥陀如来は、聖徳太子推古天皇一六年宮中において、無量壽経を講説され「神力大光を演べて、普く無際の土を照らし、三苦の闇を削除した」これ文有り深く信じて、四二歳の厄年、厄除け守護の本尊として刻みし例像と信仰されている。
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『江戸泰平の群像』37・・徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)

2017-09-20 12:01:13 | 温故知新
『江戸泰平の群像』37・・徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)(1602~1617)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸藩20万石を与えられる。水戸には入らず、父家康の許で育てられた。 1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服する。1609年(慶長14年)、肥後熊本藩主加藤清正の五女・八十姫と婚約。翌年9月徳川家より結納使として頼宣の伯父三浦為春(生母の兄)が清正の領国肥後国に下って納幣。同年、駿府藩50万石に転封された。1611年(慶長16年)、家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見を行った際は兄の徳川義直と共に東寺まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた。のち、義直と共に返礼の名代として大坂城の秀頼を訪問。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。1617年2月27日(元和3年正月22日)、家康も清正ももはや鬼籍ではあったが、かねてよりの約束により前述の加藤清正の五女・八十姫(瑤林院)を正室とする。1619年(元和5年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。1651年(慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。同時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、将軍家光の叔父で頼宣の兄である尾張の徳川義直が死去し、格上の将軍家綱がしかし幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後、慶安の変に絡む疑いは晴れて無事帰国したが、いまだ拡張整備中だった和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)。1667年(寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り、隠居した。紀州藩主としての治世は47年9か月であり、この間の江戸参府19回、紀州帰国18回、紀州在国の通算は21年10か月であった。更に隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回であった 覇気に富む人柄であったと伝えられている。父・家康の晩年、頼宣を最後まで手元に置き自ら薫陶を与えて育てた。まだ幼いにも関わらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落水しても家康は放置した、と伝わる。大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが鎧初めを行う、特別な扱いを受けた。夏の陣に際して先陣を希望するが、却下された。これを涙を流して悔しがったため、松平正綱が「まだお若いから、これから機会は何度でもありましょう」と慰めたが、頼宣は「14歳が 2度あるのか」と怒った。これを聞いた父の家康は「今の一言こそが槍(手柄)である」と言って頼宣を褒め、諸大名も感嘆した、と伝わる。家康没後に駿河から紀州に転封となったがこれは、二代将軍の秀忠が父の家康の遺風に対抗し、自身の権威を見せつけるため「家康の子、すなわち自分の兄弟である」「家康が直々に配した」「父が自分の所縁の地を与えた」頼宣ですらも、自分は転封させることができる、すなわちそれ以下の格の諸大名は親藩譜代外様を問わず、全ては我が権威の下である、ということを天下に示すためであった、とも言われている。駿府は一旦天領を経て、秀忠の次男である徳川忠長をもって駿河藩55万石となったがこれも、父と同様に自分も御三家相当の家を設立することができる、そして御三家から駿府を奪い、我が子に与えることで、家康の権威より自分のほうが格上であるとする意思表示であったとする説がある。西国転封の際、頼宣は再建成った大阪城を領することを願ったが、かなえられなかったと伝わる。由井正雪関連の疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があれば直ちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした。外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎え、当該の大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけないだろう?という意味である。鄭成功に関する援軍要請の際は、「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ、西国大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれれば、日本の面子を充分に立てて来る」と乗り気であったとも、「出兵しても日本に利がない」として反対だったとも伝わる。頼宣は様斬(ためしぎり)を好み、自ら囚人を試し斬りした後、家来一同に「さてさて、この名刀や、かくの如き切り手は日本はおろか、唐天竺にもあろうか?」と問うたところ、儒者の那波活所が「名刀ならば唐には干将・莫耶という名剣があります。また人を殺すことを楽しんだ王なら殷の紂王など悪王がおります」と答え、「およそ殺人を面白がるのは禽獣の仕業。人間の行いではありません」と諫言した。以後、頼宣は試し斬りをやめたという。


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