「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「近畿三十六不動巡り」根来寺・和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。本尊は大日如来、

2017-09-13 12:39:29 | 温故知新
「近畿三十六不動巡り」根来寺・和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。本尊は大日如来、開山は覚鑁(興教大師)である。平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁が大治五年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。二年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院を建立した。さらに二年後の長承三年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。保延六年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされた。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の本拠地は高野山から根来に移った。室町時代末期の最盛期には坊舎四五〇を数え一大宗教都市を形成し、寺領七二万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)一万余の一大軍事集団を擁した。織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、その後秀吉に不信を招き信長没後、秀吉の雑賀攻めを招くこととなった。雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、以後根来寺は次第に衰退をしていった。

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『江戸泰平の群像』29・小栗 正信

2017-09-13 12:34:14 | 温故知新
『江戸泰平の群像』29・小栗 正信(おぐり まさのぶ)(1589~1661)は、江戸時代の旗本、小栗流の創始者。通称は仁右衛門。名は信由(のぶよし)とも。徳川家康の小姓を務めた小栗忠政の次男。柳生新陰流の柳生宗厳に入門した。家康に小姓として仕え、御膳番を務めた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍し、佐久間実勝と共に伊達政宗の陣に赴き、旗を巻くようにという仰せを伝えた。翌年の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いにおいて敵兵の首を獲っている。元和2年(1616年)、家督を長兄・政信が継いだため、分知550石を武蔵国足立郡にもらって旗本になり、江戸柳生の柳生宗矩に学んだ。また、徳川秀忠の元で小姓組番士となる。寛永10年(1633年)2月7日、上総国長柄郡で200石を加増され、750石を知行する。関ヶ原の戦いや大坂の陣に出兵した経験から組討の必要性を感じ、駿河鷲之助と和術を編み出した。小栗流は刀術を表、和術を裏としている。正信の門人に山鹿素行や土佐藩士・朝比奈可長がおり、小栗流は土佐藩にも広まった。後に坂本龍馬も目録伝授されている。寛文元年(1661年)6月6日に73歳で死去。
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歴史の時々変遷』(全361回)291“加賀騒動” 「加賀騒動」江戸時代に加賀藩で起こったお家騒動のこと。伊達騒動、黒田騒動ま

2017-09-13 12:26:56 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)291“加賀騒動”
「加賀騒動」江戸時代に加賀藩で起こったお家騒動のこと。伊達騒動、黒田騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。加賀藩(前田氏)は100万石以上の外様の大大名であり、江戸幕府はその力を削ぐことに力を注いでいた。その一つが目付役として幕府より加賀藩に派遣された本多家の存在であった。藩主は背後に幕府の威光を背負った本多家の意向を尊重せざるを得ず、藩の運営は本多家をはじめとする年寄衆を含む重臣会議で決定されることになっていた。第五代藩主となった前田綱紀は藩主による独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。一方加賀藩の財政は元禄期以降、100万石の家格を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化の一途を辿っていた。享保8年(1723)、藩主綱紀が隠居し息子の前田吉徳が第六代藩主となった。吉徳はより強固な藩主独裁を目指した。足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を側近として抜擢し、吉徳・大槻のコンビで藩主独裁体制を目指す一方、藩の財政改革にも着手する。大槻は米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。しかし、それらにより藩の財政は悪化が止まったものの、回復には至らなかった。さらに、悪化を食い止めたことを良しとした吉徳が大槻を厚遇したことで、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や、倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募り、前田直躬を含む藩内の保守派たちは、吉徳の長男前田宗辰に大槻を非難する弾劾状を四度にわたって差出すに至った。延享2年(1745)6月12日、 大槻を支え続けた藩主吉徳が病死し、宗辰が第七代藩主となった。その翌年の吉徳の一周忌も過ぎた7月2日、大槻は「吉徳に対する看病が不充分だった」などの理由で宗辰から蟄居を命ぜられた。さらに延享5年(1748)4月18日には禄を没収され、越中五箇山に配流となる。その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、異母弟の前田重煕が第八代藩主を継いだ。ところが延享5年の6月26日と7月4日に、藩主重熙と浄珠院への毒殺未遂事件が発覚する。浄珠院は宗辰の生母であり、重熙の養育も任されていた人物である。藩内で捜査した結果、これは奥女中浅尾の犯行であり、さらにこの事件の主犯が吉徳の側室だった真如院であることが判明した。これを受けて真如院の居室を捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通の証拠として取り上げられ、一大スキャンダルとなる。寛延元年(1748)9月12日、真如院の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は五箇山の配所で自害した。寛延2年(1749)には禁固中の浅尾も殺害され、真如院と前田利和(勢之佐)は幽閉されていたが、真如院は自ら絞殺を望んでその通りに殺されたという。大槻一派に対する粛清は宝暦4年(1754)まで続いた。しかし実際には、真如院が主犯であったことを裏付ける証拠もなければ、真如院の居室で見つかったとされる大槻の手紙の内容もわかっていない。後の実録本では真如院が大槻と結託し、みずからの産んだ子である利和を藩主の座に着けることを狙った暗殺未遂であったとするが、当時の藩による取調べでは真如院は大槻との不義密通は認めたものの、毒殺未遂事件の関与については否定しており、また真如院を取調べる側も犯行の動機については追及することなく、うやむやにしている。そもそも不義密通についても、大名の妻妾が住む「奥向き」は江戸城の大奥同様、藩主以外の男子は立入りが禁じられており、大槻が人知れず真如院とそのような関係を結ぶことはありえなかった。さらに実録本では、毒殺未遂が大槻の指示により浅尾の手で起こされたとするが、当時大槻は既に五箇山に流され厳しい監視下にあり、そのような指示は不可能である。また、さかのぼって大槻が吉徳と宗辰もじつは殺害していたなどとも書いているが、自らにとって最大の庇護者であるはずの吉徳を失った後どうなるか、大槻に読めないはずはなく、これもあり得ない話である。現在では吉徳と吉辰の死に事件性はなく、重熙および浄珠院毒殺未遂事件も、守旧派の中心人物であった前田直躬らが大槻派を一掃するためにでっち上げたものだと考えられている。

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「平安京物語」56“院政の連脈”院政時代は後三条天皇の即位から

2017-09-13 12:23:56 | 温故知新
「平安京物語」56“院政の連脈”院政時代は後三条天皇の即位から、白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇・崇(す)徳(とく)天皇・近衛天皇・後白河天皇・二条天皇・六条天皇・高倉天皇へと続いて行ったが、必ずしも親、祖父の上皇・法王が政務を執れたわけでもないが、摂関家に権力を引き渡さなかった。
親政の新制は天皇が自ら政権を執る。それは摂関時代からの脱却にあった。親政は時として直系の親政に継がれなかった点があるが基本的に直系が優先され、その順位が狂った時に、特に後白河天皇から二派に別れ紛争の要因になった。
治暦四年((1068)後(ご)冷泉(れいぜい)天皇(てんのう)が死去し、長き四年間の皇太子の地位にあった尊(たか)仁(ひと)親王が三十五歳で後三条天皇として即位をした。
また長きに渡って藤原家の摂政から百七十年ぶりに親政が行われ長年の摂関に終始符が打たれた。摂政は常習化された天皇家に対し藤原家の縁戚を結び政権に関与し続けた構図があった。
それには従来通りの外戚頼通(がいせきよりみち)の皇位継承に親政への妨害を潜り抜けて、尊仁親王の立太子を擁立を強行し、ここに後三条天皇の誕生を見た。
後三条天皇の即位後は。摂関家は新たに次の外戚を画策、それも聡明な後三条天皇は対立することなく、皇太子時代から有能な近臣集団を形成し、摂関家と対立することなく懸案の「荘園整理令」など施策を講じて、生前幼い皇子に譲位をさせてすぐその直後に亡くなった。
次に皇位を継承した白河天皇も母を摂関家に持たない天皇であった。(摂関家の干渉を受けないためにも母が摂関家でない事が第一で、また摂関家でない妃から生まれた皇子の立太子擁立こそ難航を極めたようである。)
閑院流出身の中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女藤原茂子であったが、白河天皇は関白を置いたものの親政を行なったのは後三条天皇同様であった。
白河天皇は応徳三年(1086)に当時八歳の善仁(堀河天皇)に譲位して自ら白河院と称して、引き続き政務を執った。これが一般的に院政の始まりとされている。
嘉承二年(1107)に堀河天皇が没すると、その皇子四歳にして即位させ、自分の思い切った政務を執り行い、独自の院政を白河上皇は成功させた。
白河上皇以降、皇子は「治天の君」と言われた。
白河上皇の院政は幼く即位した皇子が早世し結果的にそうなっただけで、それを意図したことでない事は確かであろう。
院政時代は比較的に皇位が穏健に進められたのは、父権を持って皇位を決定できる点で、摂政による権力の思惑が働かない面が円滑に継承が行われた観がある。
白河上皇は鳥羽天皇の第一子(崇徳天皇)を皇位に就けた後に没し、今度は鳥羽上皇が院政を敷き、継ぐことになった。
鳥羽上皇は崇徳天皇と相性が合わず、疎んじ、第九子(近衛天皇)を継がせた。近衛天皇が没すると、今度は近衛天皇の兄の後白河天皇を立てた。
鳥羽天皇が没すると、譲位させられた兄の崇徳上皇と後白河天皇の間に戦闘が起こり、後白河天皇が勝利したのが「保元の乱」であった。
後白河天皇は保元三年(1158)は二条天皇に譲位すると院政を開始した。皇統の正統を意識した二条天皇は天皇の親政をめざし、後白河院と二条親政は生じた。強固でない院政を始めた後白河院政は二条天皇の時代には発言は強いものではなかった。
病に侵された二条天皇は永万元年(1165)に幼い六条天皇に譲位をした。二条天皇譲位直後に没してしまった。
ここに後白河上皇の院政が始まったが、結果武士の台頭を許し、平治の乱の清盛の登場に崩壊し、治承・寿永の内乱によって源氏の鎌倉幕府誕生を生む結果となった。
後年後白河上皇は清盛と対立し、鳥羽殿に幽閉をされ院政を停止されてしまった。この時点で高倉天皇が親政を成立させたが、高倉天皇は治承四年(1180)に安徳天皇に譲位し高倉院政が成立したが、その院政下で清盛に福原遷都をされて病弱な高倉天皇は帰京し直ぐに没した。
その後清盛が世を去って、清盛の後継者の平宗盛りは再び後白河院政を復活させた。
後白河法皇後は孫の後鳥羽上皇が院政を行ったが、時は鎌倉時代、将軍源実朝が暗殺されたことを好機と見て鎌倉幕府の討幕を試みたが自身が流罪になって執権北条氏の介入を招いてしまった。
その後の院政は皇権の威光も薄れ、南北朝の時代へと移って行き形だけの院政が試みられたがかえって複雑な構成と後継に弱体化していった。
★後三条天皇(1034~1073)享年四十歳・後朱雀天皇の第二子、尊仁(たかひと)親王。母は三条天皇の皇女陽明門院禎子内親王。長元九年(1036)親王宣下。父後朱雀天皇の譲位後兄後冷泉天皇の即位と同時に皇太弟に立てられる。
関白頼通は後冷泉天皇の皇統を維持しょうと後三条の皇大弟に反対したが、後冷泉天皇に嗣子がいなかったために唯一の後継者として強い立場で即位する。
即位後は関白との改善に后妃を摂関家に養育された馨子(かおる)内親王(後一条天皇の皇女)を妃にすることで改善しその後も摂関家系の妃をするなど融和図った。政策としては荘園整理令を発布など荘園公領政策などを展開をした。在位四年目で譲位し、長子貞仁親王に譲位をした。同時に次男の実仁に皇大弟とした。後三条はこの譲位半年後に四十歳で死去した。
★白河天皇(1053~1129)後三条天皇の第一子。生母は藤原茂子は実父は藤原公成、養父が藤原能信、摂関家の娘ではない。
白河天皇は即位後、譲位後も天皇三代に渡り長く大上天皇(上皇)として君臨し、院政の基礎を作った。父後三条から譲位されたと同時に異母弟の実仁親王が皇太弟に立てられた。この時点で自分の直系の天皇を立てられない状況になった。
即位後の翌年に後三条上皇が死去し、実仁が応徳二年(1085)に病死し、翌年に嫡男善仁を皇太子として擁立した。皇太子に立てたその日に譲位(堀河天皇)する異例のやり方であった。何故そのように急いだのか、それはなくなった実仁の弟の輔仁の存在があってのことである。
永長元年(1096)自ら出家し法王となった。
白河法皇の宿願の堀河天皇に嫡男(後の崇徳天皇)が生まれ安堵となって、鳥羽から崇徳へと筋道をつけることに実現させた。生涯通じて皇位継承を自分の意志で貫徹させた所に院政の本質があった。白河法王は摂関家の協力なしでは政務は進まないことを熟知、摂関家に協力者には緊密な関係を保ちながら、関白藤原忠実を失脚させ排除したが、それも鳥羽天皇が忠実と連携し自立を目指したため危機の回避のため、息子の関白忠通とは良好な関係を修復させた。
白河法王は荘園制度の改革に財源をうまく活用し、頻繁な熊野詣や、鳥羽殿の造営、北面武士の起用なども始めた。生涯思った政治と朝廷内を運用させ院政を運用した天皇の生涯を満足させつつ、大治四年(1129)死去した。
★堀河天皇(1079~1107)在位二十八年間。善仁親王、白河天皇の第二子、母は関白藤原師実の養女賢子(実父源顕房)親王宣下で父白河天皇より立太子即日践祚という異例の形で譲位された。最初の結婚十九歳年上の篤子内親王(白河の同母妹)が中宮としたが嗣子に恵まれず、藤原苡子を女御に男子(鳥羽天皇)が生まれる。1107年在位のままに死去。
★鳥羽天皇((1103~1156)堀河天皇の第一子。母は藤原実季の女苡子。誕生から7カ月で立太子、祖父の白河に養育され、父の死によって五歳で即位。永久五年(1117)に白河の養育されていた藤原璋子を女御とし、長男(崇徳天皇)が誕生した。その後藤原忠実の女泰子の入内を廻り白河と対立し忠実を失脚させたが、その後白河上皇に従ったが白河上皇の死後院政を開始、反白河の態度をあらわにした。藤原得子に男子が生まれると、生後三ヶ月で皇太子に立て、永治元年(1141)に崇徳に譲位した。その後崇徳から近衛に譲位させて、崇徳を排除した。近衛が死去すると後白河を譲位させ「保元の乱」を引き起こす要因になった。
★崇徳天皇(1119~11164)保安四年~永治元年(1123~1141)四歳で即位して十八年間在位した。鳥羽天皇の第一子、顕仁親王、母は藤原璋子(しょうし)曽祖父の白河法王の意向で即位したが白河法王が死去すると、たちまち立場が厳しくなって父の鳥羽上皇の愛妃美福門院が生んだ近衛天皇への譲位を余儀なくされた。
崇徳の皇子重仁に皇位に望みをかけるが、近衛天皇の死後は後白河が即位して立場はますます不利に、鳥羽法皇の死後を契機に挙兵するが破れ讃岐の国に流される。配流地での無念の最期に怨霊が余人に恐れられた。
★後白河天皇(1127~1192)久寿二年~保元三年(1155~1158)の三年間の在位、崇徳の自分の重仁皇子に継がせたい思いと藤原忠通と頼長が絡んで後継を廻る戦いで保元の乱を引き起こし、平清盛を味方につけ勝利をした。
三年間の在位後二条天皇に皇位を譲り、六条・高倉・安徳・後鳥羽と五代に渡って院政を揮った。
その後清盛の権力にしたたかに立ち振る舞い、源氏の挙兵で院政を画策するが清盛の死後、平氏・頼朝・義仲の使い分けで生き残りを模索するが、晩年は孤独で崇徳・頼長・安徳の怨霊に際悩まれ、建久三年(1192)六条院で念仏を唱えながら没した。
★二条天皇(1143~1165)父は後白河天皇、母は大納言藤原経実の娘懿子(いし)
在位七年間、母が出産直後没したために、美福門院得子に育てられる。久寿二年(1155)親王宣下、即日立太子。父後白河の即位は二条への中継ぎ、と云う鳥羽院と美福門院の意向が流布したため、即位以降父後白河院とは確執が絶えなかった。
★六条天皇(1164~1176)在位三年間。名は順(ぼぶ)仁(ひと)、二条天皇の皇子、母は伊岐致遠、1165年親王宣下、即日践祚(即位)父二条天皇が病気のための即位であったが、父二条天皇も亡くなり庇護者を失う。わずか三歳で即位五歳で退位、清盛の義理妹建春門院平滋子を母とする叔父高倉天皇が即位をした。六条天皇は十三歳で没し、二条天皇皇統が消えた。また元服以前の太上天皇は初例である。
★高倉天皇(1161~1181)在位十二年間、憲(のり)仁(ひの)。後白河天皇の第七皇子。母は平滋子。平清盛の娘徳子を皇后に立て、皇子は言仁親王(安徳天皇)後白河院と清盛の対立に融和を図り深く憂いた。治承の乱の寿永の乱の勃発で政情不安の中、二十一歳で没した。
※摂関時代からの脱却は、親政による政務と新制を施行にあった。それには摂関家とは摩擦を生まないように融和を持ってなされていった。摂関家の発言力の低下と逆の武士の台頭と活用によって、その存在が無視できなくなって来た。
「保元の乱」にしても「平治の乱」も武士団の活躍は顕著に表れている。一つに「検非違使」であり、「北面(ほくめん)武士(ぶし)」の存在である。
平氏の台頭で、また清盛と後白河院との駆け引きで摂関家より武家との覇権を廻り、源氏・平氏と使い分けるが、源氏頼朝の鎌倉幕府の樹立で武布の時代に移って行った。


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『河内史跡巡り』鴨高田神社・近鉄永和駅下車北側に鴨高田神社・当社は鴨(賀茂)氏の

2017-09-13 12:01:00 | 温故知新
『河内史跡巡り』鴨高田神社・近鉄永和駅下車北側に鴨高田神社・当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。 1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。  隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建である。
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「京都古社寺探訪」護王神社・京都府京都市上京区にある神社であ

2017-09-13 11:42:45 | 温故知新
「京都古社寺探訪」護王神社・京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。別称子育明神。和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀する。護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まる。正確な創建の年代は不詳である。和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874年)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫が孤児救済事業で知られることから、当社は子育明神と呼ばれるようになった。和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そのため亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。
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