「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「二十二社巡り」八坂神社・京都府京都市東山区祇園町にある神社

2017-09-09 08:03:47 | 温故知新
「二十二社巡り」八坂神社・京都府京都市東山区祇園町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社。主祭神・中御座:素戔嗚尊・東御座:櫛稲田姫命 - 素戔嗚尊の妻・西御座:八柱御子神- 素戔嗚尊の八人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称・全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする約二千三百社の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。七月の祇園祭で知られる。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応四年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。配神・ 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻・ 稲田宮主須賀之八耳神/・牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の八人の王子であり、暦神の八将神に比定された。また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅龍王の娘で今御前と呼ばれる。または、ヤマタノオロチが変化したものとも考えられている。社伝によれば、斉明天皇二年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。貞観十八年(876年) 僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称した延長四年(926年) ある修行僧が祇園天神堂を建てた承平四年(934年) 祇園感神院を建てた創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王であったことは確実である。


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「西国四十九薬師巡り」龍泉院・高野山真言宗・和歌山県伊都郡高野

2017-09-09 08:01:25 | 温故知新
「西国四十九薬師巡り」龍泉院・高野山真言宗・和歌山県伊都郡高野町高野山・●弘法大師雨請いの霊場・高野山は海抜約千メートルの山上に広がる東西六キロ・南北三キロの盆地で、内八葉外八葉の峰々に囲まれている。ちょうど蓮台の形のようなこの地は、いにしえ古より紫雲棚引く霊山として信仰されてきた。若き日の弘法大師空海も、山嶽修行者の仲間に入り山野を跋渉し修行に明け暮れていた頃に、訪れたこともある高山深嶺の地であり、中国より密教を持ち帰った空海が、弘仁七年(八一六年)嵯峨天皇よりこの地を賜り、真言密教の一大修行道場である伽藍諸堂の建立に着手したのが、高野山金剛峯寺のはじまりである。高野山は、開創以来厳しい修行道場のため女人禁制が敷かれ、明治五年(一八七二)に解除されるまでは、いかなる女性といえども女人堂より内に入ることは許されなかった。現在は不動口の女人堂だけが残り、かつての厳しい女人禁制の名残を留めている。高野山上には約百二十の寺院があり、僧侶だけでも約千人が生活しています。世界に類をみない山上宗教都市で、平成十六年には世界遺産に登録され、国内はもとより海外からも参拝者や観光客が多く訪れている。龍泉院は承平の頃(九三一年頃)真慶律師によって開創され、弘法大師がかつて日照りが続いた際に善女龍王を勧請し祈雨の修法を行われた霊池が傍らにあることから、院号が付けられた。また弘法大師の高弟の真雅僧正が、当院において阿字観を修せられた霊験あらたかな古刹であり、鎌倉との由緒深く、毛利元就、佐々木高綱、楠正成等の帰依厚く、織田家、源家等の檀縁が深い。本尊の薬師如来像(重文)は藤原時代末期の作。寺宝の弘法大師御作の真言八祖・りゅう龍みょう猛菩薩像は、毛利元就が当院に寄贈したもので弘仁仏として有名です。当院は高野山真言宗総本山金剛峯寺の北側に位置し、金堂、根本大塔等の諸堂がある檀上伽藍や、女人堂も近い。山門を入った正面に本堂があり、左側に護摩堂、大師堂と並び、右側に庫裡、玄関がある。

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『江戸泰平の群像』25・鈴木 正三(俗名の諱まさみつ、道号:石平老人、天正7年1月10日(1579年2月5日

2017-09-09 07:58:38 | 温故知新
『江戸泰平の群像』25・鈴木 正三(すずき しょうさん、俗名の諱まさみつ、道号:石平老人、天正7年1月10日(1579年2月5日)- 明暦元年6月25日(1655年7月28日))は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。本姓穂積氏で、三河鈴木氏の一族。通称九太夫、号を玄々軒、正三は法名である。法名に関しては、俗名の読み方を改めただけと言われているが、俗名は重三で、正三は筆名であるとの異説もある。天正7年1月10日(1579年2月5日)に三河国加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市(旧足助町))にある則定城主、鈴木重次の長男として生まれる。長男ではあるが家を継がず、別に一家を興している。鈴木家は弟重成が継承した。父の代から徳川家康に従い、初陣は関ヶ原の戦いの際に本多正信隊に参加して徳川秀忠を護衛した時であり、その後の2回の大坂の陣でも武功を挙げて200石の旗本となった。三河武士であった正三は常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降、仏教に傾倒し、職務の間を縫って、諸寺院に参詣した。1619年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖』を書いてこれに反論し、翌年42歳で遁世し出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、正三は主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済んだ。正三の家も秀忠の命により養子の重長を迎え存続が許されている。臨済宗の大愚宗築や曹洞宗の万安英種らに参禅した後、故郷三河に戻って石平山恩真寺を創建して執筆活動と布教に努めた。島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆して切支丹(カトリック・キリスト教)の教義を理論的に批判した。日本仏教史においては、江戸時代には宗門改などのいわゆる檀家制度によって「葬式仏教」へと堕落して思想・理論的には衰退したとされているなかで、正三の『破切支丹』は優れた仏教思想書として高く評価されている。晩年は江戸の四谷の重俊院、牛込の了心院を拠点に布教活動を続け、天草住民への重税に抗議して切腹した弟の重成の後を継いだ自分の実子の重辰を後見し、天草の復興事業にも尽力し、明暦元年6月25日(1655年7月28日)に亡くなった。その武士時代から常に生死について考えてきた正三は、より在家の人々に近い立場で仏教を思索し、特定の宗派に拘らず、念仏などの教義も取り入れ、仁王・不動明王のような厳しく激しい精神で修行する「仁王不動禅」を推奨し、在家の人びとには『萬民徳用』を執筆して、「世法即仏法」を根拠とした「職分仏行説」と呼ばれる職業倫理を重視し、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利用し、『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草子』などを執筆して分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。



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『歴史の時々変遷』(全361回)286“生類憐みの令”

2017-09-09 07:55:56 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)286“生類憐みの令”
「生類憐みの令」江戸時代の元禄期に出された多数のお触れ(法令)のことである。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)に殺生を禁止する法令を制定した。「生類憐みの令」は、1本の成文法ではなく、135回も出された複数のお触れを総称する。何度も発せられたのは出しても守られなかったためである。24年間で処罰された事件は69件。犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などにまで及んだ(犬ばかりに限らず、惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事)ため、「天下の悪法」とも言われる。★発布の理由には諸説ある。綱吉が丙戌年生まれのため特に犬を保護した。長寿祈祷のため。横行する捨て子への対策(捨て子これ有り候はば、早速届けるに及ばず、その所の者いたはり置き、直に養ひ候か、または望みの者これ有り候はば、遣はすべく候。急度付け届けるに及ばず候事)。綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで発布。当初は「殺生を慎め」という訓令的お触れだったが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。地方では、生類憐みの令の運用はそれほど厳重ではなかったようである。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったものと思われる[2]。また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったとみられている。長崎町年寄は、元禄5年(1692)および元禄7年(1694)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた。綱吉の死後、正徳の治により宝永6年(1709)に早速犬小屋の廃止の方針などが公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止された(ただし、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護などは継続した)。★年表・先述の通り、生類憐れみの令は複数のお触れに及ぶが、その流れは以下の通りである。貞享4年(1687)2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)貞享4年(1687)4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)貞享4年(1687)4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠流処分貞享4年(1687)6月26日:多々越甚大夫(旗本・秋田采女季品の家臣)が、徳川家綱の命日である5月8日に、吹矢で燕を撃ったため死罪。これに参加した同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。元禄元年(1688)5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される。元禄元年(1688)10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される。元禄2年(1689)2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪。元禄2年(1689)10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門。元禄4年(1691)10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止。元禄8年(1695)5月23日:大久保・四谷に犬小屋が作られる。住民は強制的に立ち退き。元禄8年(1695)10月16日:鉄砲で鳥を殺し、その鳥で商売をしたとして大坂与力はじめ10人が切腹、1人が死罪。元禄9年(1696)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。元禄13年(1700):鰻、ドジョウの売買禁止が出された。

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「平安京物語」52“前九年の役”奥州を舞台に繰り広げられた安

2017-09-09 07:53:28 | 温故知新
「平安京物語」52“前九年の役”奥州を舞台に繰り広げられた安倍氏と清原氏の覇権をめぐる戦いで、安倍氏は滅び清原氏が覇者になった戦いであった。平忠常の乱が平定されて二十年後の永承(えいしょう)六年(1051)に起きたのが安倍頼良の反乱であった。陸奥の土着の有力な豪族安倍氏は陸奥国の奥六郡に城砦(じょうさい)を築き独立勢力を形成をしていた。十一世紀半ば、安倍氏(陸奥の土着した)が朝廷への納税を怠るようになった為に、永承六年(1051)陸奥守藤原登(なり)任(とう)が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みた、両者の間に戦闘が勃発した。
この戦闘で舞台となった玉造郡鬼(おに)切部(きりべ)の地名から「鬼切部の戦い」と呼ばれている。
この戦闘に秋田城介の平繁成も国司軍に加勢をしたが、結果安倍軍の圧勝に終わった。敗れた登任は更迭され京に戻された。そこで朝廷は河内源氏の源頼義(平安の武将源頼信の子、平忠常の乱には父に伴って追討に参加)を陸奥守として事態の収拾を図った。所が陸奥に赴任した翌年に後冷泉天皇の祖母、上東門院(中宮藤原彰子)の病気祈願の大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪が許されると、安倍頼良は陸奥に赴いた頼義に饗応(きょうおう)し頼義と名が同音であることに遠慮し頼時と改めた。そして頼義は鎮守府将軍になった。
頼義が任期の三年で終る、天喜四年(1056)阿久利川事件と呼ばれる事件が起きた。その事件とはこう言った経緯である。頼義が鎮守府から国府に戻る為に阿久利川の河原に野営をしている時に、密かに頼義の許に密使が来て、「藤原光定と元貞が野営をしていると夜討ちに遭い人馬に被害が出た」という情報が知らされた。
頼義が光定に呼びその事情を問いただしたところ、以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚をしたいと申し出があったが、自分は安倍のように賤しい一族にはやれないと断った。今回はその時の仕打ちに違いがないと言った。そこで頼義は貞任を呼び出し、こと次第を問いただそうと呼び出したところ、頼時は貞任の出頭を拒否したために再び安倍氏と戦いに入ったと言う。天喜五年(1057)頼義は一進一退の戦況の打開のため、安倍氏を挟み打ち作戦を講じ気仙郡司金爲時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を取り込み味方に入れることに成功、それを知った頼時は慌て富忠らを思い留まらせようと津軽に向かうが富忠の伏兵に襲撃され深手を負い衣川目前に横死してしまった。
頼義は朝廷に頼時の戦死を報告し、論功行賞を願い出たが受けることが出来なかった。再び陸奥国府に戻った頼義は出撃し貞任に決戦に挑んだ。この時の頼義の兵力は多く見積もっても国衙兵二千人程度と傘下の武士五百名程度と推測される。
これに対して貞任は河崎柵に四千名程兵力を集め、黄海にて頼義軍を迎撃した。冬季の遠征で疲弊し補給も乏しく戦力で劣っていた頼義軍は惨敗、頼義と長男の義家を含む僅かな手勢で戦線を離脱するのが精一杯であった。
頼義軍は佐伯経範、藤原景季、和気致輔、紀爲清らの有力中心を失い大打撃を受けた。
頼義が体勢を立て直すべく間に安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の税の徴収でなく、白札の貞任の税に徴収をするほどの勢いであった。
康平五年(1062)頼義の任期切れの為に、後任の陸奥守に高階経重を派遣したが、群司らは頼義に従って経重には従わず、経重を解任し再び頼義を陸奥守に就任させた。
苦戦を強いられていた頼義軍は中立を保っていた出羽国の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に贈り物を送り続け参戦を依頼した。また朝廷の参陣の要請を強く求めた。これを聞きいれた光頼は弟の武則を総大将として軍勢を派遣した。第一陣の息子の武貞から第七陣の清原武道率いる軍まで、一万人と推定され、内源頼義率いる軍は三千人ほどであった。
清原氏の参戦によって一気に形成は逆転し朝廷側が有利になった。小松柵から頼義軍は優勢になって安倍氏側の拠点厨川柵、嫗戸柵(おうなと)陥落。貞任は深手を負って捕まり頼義の前に引き出され一喝をされて息を引きとった。経清は苦痛を長引かせ錆びた刀で斬首された。清原参戦で僅か一カ月で安倍氏が滅亡したことには安倍氏と清原氏との裏取引があったとされ、清衡の助命と引き換えの密約があったと囁かれていた。
頼義は騒乱を平定し上奏した。論功行賞では頼義の意に反して陸奥守ではなく、伊予守であった。貞任の身内らは筑前の宗像に流され、武則は戦功により従五位下鎮守将軍に補任され奥六郷を与えられ、清原氏が陸奥の覇者となった。頼時の息女は敵の武則の妻となり、経清の遺児、後の藤原清衡(きよひら)(奥州藤原の祖)は共々清原氏に引き取られていった。
この処置が今後の陸奥の大きな後三年の役の伏線になる。
★源頼義(よりよし)(988~1075)頼信の子。一時期、小一条院に仕えるなど都での生活を送ったが,地方での暮らしが多かった。前九年の役では相模守から陸奥守に起用され頼義が鎮守府将軍も兼ね、子の義家と共に俘囚(ふしゅう)の長、安倍頼時の反乱を苦戦の末に平定、戦功によって頼義は伊予守、子の義家が出羽守に任じられた。赴任で坂東武士とのつながりを深め。評価は冷静沈着にして武略に長けている『陸奥和記』に載っている。故郷の河内の通法寺を創建、この寺迹に墓がある。
★藤原経(つね)清(きよ)(?~1062)奥州藤原初代清衡の父、陸奥権守、貴族で国府官人として赴任したものと思われる。安倍頼時の娘を娶って生まれたのが清衡、前九年の役では最初源頼義に付いたが永衡が内通した嫌疑に処刑されるのを見て離反、以後安倍氏側で戦って御厨川柵戦いで剥ぶれ,斬首された。
★清原武則(たけのり)(生没年不詳)出羽国の俘囚の長。光方の子。前九年の苦戦中の頼義から支援の要請を受け、軍平を率いて陸奥国に赴く、清原一族の参戦で一期に頼義軍が有利となって安倍軍は壊滅、武側は鎮守府将軍に任じられた。
★安倍頼(より)時(とき)(?~1057)陸奥の豪族、祖父忠頼は俘囚の長で元は蝦夷と考えられている。安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命を祖とするが『新選姓氏録』安倍比羅夫が東北経営から関係したことからでた附会である。
★安倍貞(さだ)任(とう)(1029~1062)平安後期の陸奥国の武将、奥六郡の俘囚の長。安倍時頼の嫡男。武勇を持って鳴り、父頼時の死後安倍一族の総師として、前九年の役を指導した。黄海の戦いで陸
奥守頼義を破り、以後数年間は圧倒した。五年後の出羽山北の戦いから敗戦が続き、御厨川柵が陥落後、敗死をした。
◆平忠常の乱*下総・上総・安房に勢力を伸ばした平忠常は安房守惟忠を殺害し公然と反乱をした。東国で忠常と敵対する右衛門尉平直方が追討使に任じられ、討伐にあったが、忠常の抵抗抗戦に遭い安房一帯が荒廃し、直方は解任された。後任に源頼信が追討使になるや、以前に頼信の家人であった忠常は降伏し京に護送中に美濃で没した。
※東北の混乱で坂東武士たちは「雲如く雨の如く来た」と表され、前九年の変の陸奥周辺は不安定で、朝廷の権力も威光も届きにくい状況であった。
この物語の展開は複雑で理解しがたいが、結局は河内源氏の台頭と、奥州の藤原一族の覇者への布石の序幕と前段になってしまった。
その当時都から遠く置かれた僻地の武士に、誰もが混乱に乗じて一旗揚げようとする野心満々の兵者揃い、安定をした土着氏族も無い、ある意味下剋上の末世状態であったのだろう。
そんな状況下でも身内、同士族の団結は深く、一族の誰かが浮上すれば引っ張り上げてもらえる、支え合う棟梁集団の利害関係が生じ戦いになって、淘汰されていく。中央の朝廷は支配の及ばない地域での税の徴収には、地域の状況を考えて出ないと円滑にゆかない。
陸奥、東北政策は遠距離操作、指令から中央への報告と再度命令と気の遠くなるような工程を経て進められ、前九年の役はこうしてはっきりしないままに収束していく時代ではなかったろうか。朝廷は巧みな論功行賞と階位と大役を任命し人臣の心を揺さぶって行くのである。
解決したはずの「前九年の役」は次の「後三年の役」の火種を残して時代は移って行き新たな氏族の出現となるのである。


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「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音九番札所・天冠山智識寺中

2017-09-09 07:50:25 | 温故知新
「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音九番札所・天冠山智識寺中門観音寺、 略して観音寺は、柏原太平寺集落の 東側山手にあって、もと「河内 六大寺」の一つである智識寺の一 堂宇、観音堂のなごりといわれ ています。河内六大寺とは智識 寺のほか、山下、大里、三宅、家 原、鳥坂の合わせて六つの大寺 院が、いずれも奈良時代、河内 国大県郡内の山麓沿いに堂塔 をきそうように建ち並んでいた と考えられるものです。河内の 仏教文化の華がここに咲いてい る―まことに壮観であったと想 像されます。柏原の地が難波か ら平城への交通の要衝にあり、一 泊休憩する場所であったことも 重要な意味をもつと考えられ ます。天平十二年(七四〇)に聖武 天皇は難波への行幸の折、智識 寺に安置されていた丈六(一丈六尺)の盧舎那大仏を参拝し、当 時日本最大の大仏に感動、深 く印象づけられます。このこと が機縁で天平十五年(七四三) 十月に東大寺大仏の造立を発 願されることになったと伝えら れています。智識寺はもと七堂 伽藍をそなえた大寺院で、西塔・ 東塔のある薬師寺式の伽藍配 置であったと考 えられていますが、 平安時代の応徳三年(一〇八六) 落雷のために倒壊、再建されな いで今日に至っています。柏原市 大字太平寺二丁目付近が寺跡 と推定されるところ。現在東搭 の心礎は、近くの石神社の境内 に残されていて、自由に見学す ることができます。この東搭心 礎の柱穴の直径は、約一・二メー トルもあり、このことから智識 寺の搭は、高さが五十メートル はあったと推定されます。

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