「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「京洛八社」文子天満宮・京都府京都市下京区にある神社

2017-09-08 09:30:28 | 温故知新
「京洛八社」文子天満宮・京都府京都市下京区にある神社(天満宮)。菅原道真と乳母多治比文子を祀る。天神信仰発祥の神社、上京区にある北野天満宮の前身と伝えられる。社伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903年)に59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正7年(1918年)に造営されたものである。毎年4月16日に近い第3日曜日に、例祭が執り行われる。

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「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺

2017-09-08 09:27:21 | 温故知新
「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、終焉の地当山は白雉二年(六五一年)天竺より渡来したとされる法道仙人によって開かれたと伝えられています。ちなみに西国三十三カ所の二十五番清水寺と二十六番一乗寺も、法道仙人によって開かれています。法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。後に花山法皇(人皇第六十五代花山天皇)は、西国三十三カ所観音霊場巡礼をご再興の後、当山に錫を留められました。
眼のあたりには秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめるゆうすい幽邃かんが閑雅の景色はいたく法皇の御感に召したのでしょう。この山こそ終生仏道修行に励む聖地として他に勝るものはなしと思い定められたのです。その御心は、御製に「名にしおう 我が世はここに尽くしてむ 仏の御国近きわたりに」(当山第二番の御詠歌)と詠まれたことが如実に物語っています。
そして寛弘五年(一〇〇八年)御年四十一歳でご崩御なされるまで、当地で仏道修行にご精進なされたのです。法皇亡き後、当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として、寺号を花山院菩提寺と称するようになりました。
法皇は後の人から西国三十三カ所観音霊場中興の祖として仰がれ、観音霊場を巡礼する人たちは、花山法皇への尊崇帰依の心を示すべく当山に参詣するのがその勤めとなり、薬師霊場であるこのお山が、西国三十三カ所観音霊場の番号外の札所となったのです。
なお麓には女官たちが花山法皇を慕い来たるも、その時代の出家僧の戒律では男女共に住むこと許されず、自らも尼僧となって生涯を過ごした女官たちの墓「十二尼妃の墓」があり、村の名前もにん尼じ寺村と称して哀史を今に伝えています。




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『江戸泰平の群像』24・板倉 重宗

2017-09-08 09:26:11 | 温故知新
『江戸泰平の群像』24・板倉 重宗(いたくら しげむね)(1586~1657)は、江戸時代前期の譜代大名で下総関宿藩の初代藩主。京都所司代。板倉家宗家2代。板倉勝重の長男として駿府で生まれる。永井尚政や井上正就と共に秀忠に近侍した(同時期の小姓組番頭は他に水野忠元、大久保教隆、成瀬正武、日下部正冬)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従った。慶長10年(1605年)の家康・秀忠の上洛に従い、秀忠の将軍就任に伴って重宗も従五位下・周防守に叙任された。大坂の陣では冬・夏の両陣に出陣し、小姓組番頭の職にあって家康・秀忠の間で連絡役を務めた。戦後、書院番頭に任命されて6000石を与えられた。元和6年(1620年)に父の推挙により京都所司代となり、2万7000石を与えられた。元和9年(1623年)11月19日に従四位下に昇位し、12月23日に侍従に任官される。寛永元年(1624年)4月に父が死去すると、その遺領を弟の重昌と共に分割して相続し、重宗は1万860石を継いで合計3万8000石となった。さらに4月21日には1万2000石を加増されて合計5万石となる。寛永3年(1626年)、第3代将軍・家光の参内に従う。家光の嫡男・家綱が生まれるとその元服・官位について朝廷と交渉した。正保2年(1645年)にはその功績により従四位上・右少将に昇位・任官された。承応3年(1654年)12月6日、30年以上にわたって在職した所司代職を遂に退任した。しかし重宗の影響力は絶大で、翌年11月まで次代の牧野親成を補佐した。その後は家綱の補佐、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之や井伊直孝ら大老と同格の発言力を持っていたという。明暦2年(1656年)8月5日、下総関宿5万石を与えられて藩主となった。しかし高齢もあって11月に病に倒れ、幕府から医師の派遣を受けるも12月1日に関宿で死去した。享年71。父の勝重が重宗と後に島原の乱で討死した弟の重昌に、ある訴訟の是非について答えよと言った時に、重昌はその場で返答したが重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという(名将言行録)。京都所司代として訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、傍らにはお茶を用意することによって、当事者の顔を見ないようにして心を落ち着かせ(人相などで)いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという。所司代として公務にあたって私心無く公平に処し、正直に決断することを常に心がけ、良臣として人々に広く高い評価を受けていたという(徳川実紀)。重宗は死刑の判決を下した罪人を常に呼び出し、「明日に刑を執行するが、申し開きあれば申せ」と述べた。そして罪人が申し開いたことは死刑を延期して何日もかけて調べ、全て言い分が無くなってから刑を執行したという(名将言行録)。父・勝重から所司代に推挙されたとき、重宗は固辞したという。だが父と秀忠の強い薦めがあって断りきれず、父に「なぜこんな大任を」と述べた。勝重は笑いながら「爆火を子に払うため」と答えたという(責而話草)。重宗が所司代を退任した際、難しい訴訟をわざと5つほど判決せずに残し、それらに自分の存念のみを書いたものを添えて後任の牧野親成に預けた。牧野は重宗の添え書きに従ってその通りに裁いたが、京都の町衆は「周防守(重宗)さえ裁けなかったものを新任の牧野がすぐに裁いた」と褒め称え、それまで侮っていた牧野を信頼したという(名将言行録)。
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『歴史の時々変遷』(全361回)284“天和の大火”

2017-09-08 09:23:45 | 温故知新

『歴史の時々変遷』(全361回)284“天和の大火”
「天和の大火」とは旧暦天和2年12月28日(1683)に発生した江戸の大火である。駒込の大円寺から出火とされ、28日(25日)正午ごろから翌朝5時ごろまで延焼し続けた。死者は最大3500名余と推定される。お七火事とも称されるが、八百屋お七はこの火事では被害者である。この火事では八百屋お七が放火したわけではない。この大火により焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、檀那寺(この寺については諸説ある)に避難した。避難先の生活の中で八百屋の娘・八百屋お七は、寺の小姓と恋仲になる。やがて店が再建され、お七一家はその寺を引き払ったが、お七の寺小姓への想いは募るばかり。そこでもう一度火事が起きたらまた同じように寺にいけるかもしれない、と寺小姓に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められぼやにとどまったが、お七は捕縛されて鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられた。このことから、天和の火災はお七火事とも呼ばれるようになった。
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「平安京物語」51“御願寺六勝寺”

2017-09-08 09:15:24 | 温故知新
「平安京物語」51“御願寺六勝寺”(ろくしょうじ、りくしょうじ)とは、平安時代後期から室町時代にかけて、洛外白河街区に位置した、法号に「勝」の字をもつ六山の御願寺である。白河天皇に続く院政の中枢部として大いに栄えたが、後世の維持管理は停滞し、応仁の乱以降はほぼ廃絶した。現在においては石碑や町名などに面影を残すが、寺域や伽藍配置などにおいて不明な点は多く、発掘による考古学的調査および復元作業が進められている。
平安京の洛東・白河の地域に造営された寺号に「勝」の字が含まれた6つの御願寺の事であるが、女院である待賢門院が建立した円勝寺は後から付け加えられたもので、当初は「五勝寺」と称されていた(『愚管抄』)。円勝寺以外の五勝寺は白河天皇以降の5代の天皇が「在位中」に建立を始めた寺院で、白河天皇や鳥羽天皇は退位後に上皇・法皇として多くの御願寺を建立しているものの、いずれの天皇も在位中に建立を開始した御願寺は五勝寺に属する1か寺しかなかった、すなわち「天皇の御願寺」であったのである。また、他の御願寺は御所などに付属する寺院として建立され、中心伽藍は阿弥陀堂であったに対して、「五勝寺」と円勝寺は中心伽藍として金堂を持ち、単独の寺院として存続していたことから特別なものとみなされ、以降これ程の規模の御願寺を建立される事は無かった。このため、5代の在位の天皇の御願寺である「五勝寺」と待賢門院の御願寺である円勝寺をまとめて六勝寺と称されるようになった。
○法勝寺・法勝寺(ほっしょうじ)。落慶は承暦元年(1077年)、左大臣藤原師実の寄進と白河天皇の御願による。鴨東白河の地において御願寺として最初に創建され、後に六勝寺の筆頭寺院として最大の規模を誇った。南庭には高さ80メートルに達する巨大な八角九重塔が聳え、東海道に京の権勢を誇示していた。しかし他の寺院同様、相次ぐ災害と院政の衰微により、応仁の乱以後に廃絶した。現在の京都市動物園は伽藍のほぼ南半にあたると考えられる。
○尊勝寺・尊勝寺(そんしょうじ)。供養は康和4年(1102年)、堀河天皇の御願による。杉山信三らの尽力により、六勝寺では最も発掘調査が進んでいる。
○最勝寺・最勝寺(さいしょうじ)。創建は元永元年(1118年)、鳥羽天皇の御願による[2]。現在の岡崎グラウンド西側から京都会館までの間に位置していた方一町(120m四方)規模の寺院であったと考えられる。
○円勝寺・円勝寺(えんしょうじ)。落慶は大治3年(1128年)、待賢門院(藤原璋子)の御願による。六勝寺では唯一の女院御願寺である。境内規模は方一町かそれ以上、現在の京都市美術館に位置していたと推定される。
○成勝寺・成勝寺(じょうしょうじ)。供養は保延5年(1139年)、崇徳天皇の御願による。保元の乱で流刑に処された院を慰撫するための御八講法要が行われた。推定地はほぼ京都市勧業館の敷地にあたる。現在は世田谷に「伏見山 成勝寺」として残る。
○延勝寺・延勝寺(えんしょうじ)。落慶供養は久安5年(1149年)、近衛天皇の御願による[2]。現在の京都市勧業館敷地西端から東大路通りの西端付近まで、東西二町、南北一町の規模であったと推定される。

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「河内史跡巡り」法蔵寺・河内西国観音十七番札所・

2017-09-08 09:13:27 | 温故知新
「河内史跡巡り」法蔵寺・河内西国観音十七番札所・寛延元年(一七四八)土佐の長曽我部氏の子孫である好山和尚によって曹洞宗の寺として開山されました。本堂前の「大覚山」の扁額は好山和尚の筆によるものです。この地はかつて聖徳太子が物部守屋との戦いで砦を築き再起をはかった陣屋跡と伝えられ、その名残で法蔵寺への道は今も大道と呼ばれています。境内地にはふしぎな縁起をもつ水脈、神霊泉が湧き、八尾の豪族の墓碑群があります。またこの一帯では古代の古墳群が数多く発見されています。境内の東上には開山僧好山和尚の廟塔である清涼塔を中心に歴代和尚の墓が並んでいます。その下に開山塚と呼ばれる古代の円墳がありますが、これは巨大な石を使って築かれた貴重な遺跡。横穴石室は中に三十人入れるそうです。すぐ近くに弘法大師作と伝えられる石像観世音菩薩の祀られたお堂があります。
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