「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「神仏霊場巡り」多武峰・談山神社・ 

2017-09-07 11:45:06 | 温故知新
「神仏霊場巡り」多武峰・談山神社・        
多武峰と言えば談山神社、春に桜、秋の紅葉と建築美の絶景は西の日光と言われる。また談山神社は普通の神社と光景が違う、寺院の様式が漂う境内の社殿は朱塗りで重厚で絢爛豪華にして荘厳さ、誰もが見過ごす参道には高麗門様式の「東大門」は「女人禁制」の石碑がこの「多武峰」の歴史と伝統を伝える。急な勾配に隆盛期の堂塔跡と僧兵の屯所跡、石塔籠の数々に十三重の塔は、これは鎌足の次男の不比等(淡海公)の墓である。その先に二ノ鳥居に入り長い石段を登ると朱塗りの楼門(国文)が建ち、回廊を通り拝殿へ(旧寺護国院の国文)拝殿は舞台造りに宗塗りの高麗に軒先の釣り燈篭、本殿の祭神は鎌足公と天神地祇八百万の神々(旧聖霊院は国文)は、東殿(旧妙法堂は国文)神廟拝所(旧講堂は国文)権殿(旧常行三昧堂は国文)これら社殿の西に神社に似つかわしくない木造の十三重塔(国文)何もかも今では見られない神仏習合の寺社なのである。談山神社の二の鳥居前の参道を西に登ると、増賀堂、西大門跡に至り、やがて明日香村の石舞台に達する。古代は飛鳥時代より「多武峯」の地名が度々登場する要の地である。 この多武峰の最高峰、御破裂山(六〇七メートル)に、鎌足の長男の定慧は出家して入唐し帰国後、摂津の茨木の阿威山にあった鎌足の遺骨をこの地に改葬したのである。この多武峰の地に改葬した後、十三重塔と堂を建立し「妙楽寺」と号し、「大宝元年」には聖霊院と惣社の神仏習合の談山権現の勅号が下賜されたという。「御破裂山」に至る“談所の森”は中大兄皇子と鎌足が入鹿を打つ為の「談い」の場所と伝えられ「談山」地名の由来になっている。  その後時代の盛衰に多武峰は寺社一体で、鎌足を祀る神仏習合の寺院として「多武峰寺」としてまた談山神社もその一環として祀られていたが藤原氏の祖廟にも拘らず、興福寺の敵対する比叡山の延暦寺の支配傘下にあった。永保二年三月には興福寺の僧徒が多武峰に襲撃を掛け民家を焼き払う。これに対して多武峰の僧兵は対抗し興福寺の横暴を入京し強訴をしている。
大和の強権「興福寺」との諍いが絶えず、僧兵が衝突を繰り返し堂塔は悉く戦禍に遭ったがその都度再建されたが、明治の神仏分離令までは寺社一体で運営されていたが廃仏毀釈の嵐に仏教色は一掃され「談山神社」として存続された。
波乱の時代に残された伝統ある参道の石灯篭の数々や、参道口の両袖つき高麗門の東大門、女人禁制の石碑は往時の人々の信仰の厚さを測り知ることができる。回廊の社殿も聖霊院にも、その聖地、霊地参りの信者の宿坊が軒を連ねて人々の賑わいが遺跡から垣間見ることができる。
この多武峰の境内の社殿などの建立物は国宝、文化財の宝庫ではあるが、魔尼輪塔、石灯篭の他「大和国栗原寺三重塔伏鉢(国宝)絹本着色大威徳明王、紺紙金泥法華経宝塔曼荼羅図、他太刀など多くの文化財を有している。



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「京都古社寺探訪」高山寺・、京都市右京区梅ヶ畑栂尾

2017-09-07 11:42:32 | 温故知新
「京都古社寺探訪」高山寺・、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀五年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安三年(1173年)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、九歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。

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『江戸泰平の群像』23・狩野 長信

2017-09-07 11:39:27 | 温故知新
『江戸泰平の群像』23・狩野 長信(かのう ながのぶ、天正5年(1577年) - 承応3年11月18日(1654年12月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師の一つ表絵師・御徒町狩野家などの祖。初め源七郎、あるいは左衛門と称す。号は休伯[1]。桃山時代の風俗画の傑作『花下遊楽図屏風』の作者として知られる。狩野松栄の四男として生まれる。兄に狩野永徳、宗秀など。松栄晩年に生まれたため、血縁上は甥に当たる狩野光信・孝信より年下である。幼少の頃から父松栄や兄永徳から絵を習ったと推測される。両者が相次いで亡くなると次兄宗秀についたと思われるが、宗秀も慶長6年(1601年)に没すると、光信に従いその影響を受ける。さらに、長谷川等伯ら長谷川派からの感化を指摘する意見もある。一時、本郷家に養子に出たが、後に狩野家に戻りその家系は庶子となった[1]。慶長年間(1596-1615年)京都で徳川家康に拝謁、次いで駿府に下り、その御用絵師となった。狩野家で江戸幕府に奉仕したのは長信が最初だという。慶長10年(1605年)頃徳川秀忠と共に江戸へ赴き、14人扶持を受ける[1]。慶長13年(1608年)光信が亡くなると、狩野探幽の側で狩野派一門の長老格として後見した。寛永期には、二条城二の丸御殿・行幸御殿・本丸御殿の障壁画制作に参加、台徳院霊廟画事に従事、日光東照宮遷宮に伴う彩色にも加わるなど第一線で活躍し、寛永2年(1625年)法橋に叙される[2]。墓所は江戸谷中の信行寺。主な作品は下記のとおりであるが、二条城二の丸御殿白書院障壁画を、従来は狩野興以筆とされたが、近年は画風や狩野派内の序列から長信とする説が有力である。また、作者不明の『相応寺屏風、『伝本多平八郎姿絵屏風』(共に徳川美術館蔵、重文)、『彦根屏風』(彦根城博物館蔵、国宝)を『花下遊楽図屏風』と比較し、狩野派正系に連なる高い画技や表現力、全て遊郭が主題、毛髪への異常なほど執着的な描写、道具類の破綻なく細部に及ぶ精緻さ、顔貌が酷似する横向きのおかっぱ髪の禿が全てに登場する、などの理由から長信筆とする説がある。



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『歴史の時々変遷』(全361回)283“野村騒動”

2017-09-07 11:28:20 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)283“野村騒動”
「野村騒動」江戸時代中期に伊勢桑名藩で起こったお家騒動である。伊勢桑名藩主・松平定重の時代は50年の長きに及んだが、度重なる水害や火災に見舞われた。特に天和元年(1681)の洪水による被害は激しく、定重は家臣の減給、176人の家臣のリストラを断行した。もともと元禄時代に入ると領主の経済力が落ちてきて支配体制が揺らぎ富裕商人が台頭しだす傾向が全国的に見えてきたのだが、元禄14年(1701)には桑名城下で大火災が起こり、1500軒が焼失し、天守閣も類焼してしまった。このため藩財政は極度に悪化し、桑名藩では幕府より1万両を借用して復興に当てた。宝永4年(1707)には長雨で稲作が不作となり、窮乏した農民は郡代に訴え、さらに桑名城の北大手門に押しかけるなどしたため、藩でも武士の給米を大幅に減額してその場をしのぐしかなかった。定重はこの苦境を打開するため、藩政改革に取り組むことを決断し、そして改革に抜擢されたのが野村増右衛門という郡代であった。野村はもともと8石3人扶持(2人扶持[2])という微禄の小者に過ぎなかったが、定重は野村の実力を評価して登用した。野村は改革で倹約をはじめ、元禄大火による城郭並びに城下の復興再建、幕命による津藩との相模酒匂川の大工事の完成、領内町屋川下流の新田開発、員弁郡宇賀川改修による農地の開発、神社仏閣の造営修理、道路河川の修復、地場産業の開発などに寄与するなどの政策を実施して次第に頭角を現し、750石取りの郡代という異例の昇進を遂げた[2]。宝永7年(1710)3月、豪商山田彦左衛門の世話で藩金2万両を調達するため、野村は江戸に向った。だがその留守中に桑名では公金の横領や農民の搾取、豪華な私生活、一族親族の登用その他様々な嫌疑の訴状が家老などの連名で出され、野村は逮捕されて糾問されることとなった。野村は10数ヵ条にわたって出された訴状に対してほとんどは的確に弁明したが、わずかに会計に関する些細なことで間違いがあり、それが有罪とされて野村は死罪を宣告された。5月29日、野村は死罪に処され、さらに一族44名が死刑となり、関係者に至っては370人余(一説に571人)に及ぶ大粛清事件になった。しかも野村一族の死刑では、2歳から6歳の幼児12名(養子も含む)という厳しく残酷なものであった。関係者の処罰でも勘定頭や普請奉行、台所賄頭から馬廻りに至り、罪状に至っても「朝夕野村へ心安く致せし故なり」とされており、野村と親しいだけで処罰(追放・所払い)された者も少なくなかった。この事件は直ちに幕府に知られて公儀巡検が行われ、幕府は閏8月15日に定重に対して「桑名藩今度の騒擾天下の評議よろしからず」として越後高田藩に移封された。石高に変化は無かったが、山間の地である高田に追いやられて実高は大きく後退し、桑名の良港を失うことになったのだから、事実上の減封・左遷であった。定重は騒動の2年後に家督を5男の松平定逵に譲って隠居し、江戸の藩邸に引き篭もった。また当時この事件と移封に関する落首が次のように詠まれた。竹は8月、木は切ろ9月、野村増右衛門は5月斬り文政6年(1823)、松平定永が白河藩から桑名へ戻ってきた時、久松松平家は正式に野村や一族など370名余の赦免の沙汰を出し、事件から113年後に野村は無罪とされて供養塔も建立された。




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「平安京物語」50“平忠常の乱”東国で将門の乱から一世紀近

2017-09-07 11:25:12 | 温故知新
「平安京物語」50“平忠常の乱”東国で将門の乱から一世紀近く経って、万寿五年(1028)上総権介平忠常が安房守惟(これ)忠の館を襲撃して惟忠を焼き殺し、続いて忠常は上総国の国衙を占拠してしまう。上野介県犬養(あがたいぬかい)爲(ため)政(まさ)の館を占拠して受領を軟禁した。
県犬養爲政の妻子が都に逃れ、これを見て上総国の民は忠常に加担し反乱は房総三国に広まった。これは上総の「国人」「州民」が受領の妻子の帰京に反発をして起きた事態だった。
この事件は広範な在官人などが参加し凶党の蜂起であった。これを平忠常が住国上総を越えて反受領の指揮をしたのは上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)など数カ国に広まっていた。
坂東諸国は将門の乱以来荒廃し、受領たちの使命は公田の復興、荒廃公田の再開発に反発をしたのは国衙役人や在庁官人・田堵(平安時代の荘園を荘田や公田を経営し年貢・公事を納付する農民)らの反発を吸収し平忠常が蜂起した。
しかし平忠常は朝廷に敵対する意思はなかったと思われる。蜂起をしたものの何らかの妥協案を模索し朝廷の出方を見守っていた。
一方平忠常の蜂起の知らせを聞いた朝廷は驚き、直ちに追補の決断、公卿たちの会議で伊勢前司源頼信を推挙、受領としての実績と、武勇の名声、行動の慎重さが公卿たちの信頼を得ていたのだろう。所が後で一条天皇の追討の勅定によって検非違使の検非違使平直方であった。追討次官に中原成通に任じられ、多数の公卿を抑え変更されたか、追討には二派の意向が働いた。関白頼通の強い働きかけ、もう一つは政界の長老右大臣実資の意向、二人は一応協調関係であった。
実資が天皇、頼通、が直方を指しそれを同意して勅定となった。
こうして追討に任命された平直方・中原成通は国衙指揮(地方の国の役人)・兵糧米徴収権等九か条に及ぶ権限の付与を求めた。
それに対して実資は申請項目を短く三箇条に短縮することを求めた。こう言った申請には自分も私腹を肥やせる機会とみて好条件を引き出そうとしたからである。それを熟知をしていた実資は権限を抑制したのである。実資の指示を拒んだ成通と、指示に従った直方は不和となって、成通は母の病状を理由に追討使の返上をした。この間に平忠常の複数の密使が宮廷工作に密書を持って入京した。検非違使の尋問に密使は、忠常は二、三〇騎程の兵力で夷灊山(いしみやま)に立て籠もっている情報を得た。またその密使は忠常が籠る夷灊山の届けて欲しいと言った。
朝廷側は交渉などする気が無く、それに対して『小右記』には追討の成通と直方は二百人の随兵を引き連れて熱狂の中、坂東に向かった。また成功すれ英雄の内に熱狂的に迎えられるはずだった。
朝廷は同時に追討軍の支援の手立てを打った。上総介に直方の父維時、武蔵守に平公雅の孫致方、甲府守に支援されるべく候補の頼信、安房守に維衡(これひら)の子平公雅とそうそうたる陣営である。
二度目の追討に直方軍は房総三カ国で激しく戦ったが、なかなか決着がつかなく直方は更迭が決まった。立て籠もった平忠常は消息が分からなくなって出家をしたとか噂が流れ、人伝に直方に「志」の贈り物送ってくる始末、おまけに坂東の有力武士たちは追討官符にも応じず、その間平忠常は夷灊山に籠って神出鬼没で追討軍をほんろうした。
二年間合戦らしい合戦をせず、坂東の追討の為に公田は荒廃し、兵糧米は底をつき疲弊をして行った。平忠常の蜂起勃発後、三年にして改めて長元三年(1030)甲斐守源頼信が追討使に任命された。追討に赴いた頼信は忠常の子息法師を使者を立て粘り強く説得をした。そこで忠常は四則法師ともなって甲斐の頼信の許に来て降伏し、名簿を捧げて従者になる事を誓いった。
忠常は上洛する途中で重病になり、美濃国で死去した。頼信は国衙に検視をさせて、首を切り忠常の従者に持たせて入京させた。
この乱の処理に朝廷は頼信に恩賞を与え、常昌らの追討の赦免を決定された。
★平忠常(?~1031)葛原親王の曾孫村岡五郎平良文を祖父に、陸奥介忠頼を父とする。下総に多くの領地を所有、上総介、武蔵国押領使となって勢力を上総・下総・安房に伸ばした。藤原教通の従者に、平頼義の家人となるが国衙に敵対し、安房国司を殺害、追討使平直方と三年間戦った。その後頼義の追討に降伏し護送の途中で病死をした。子孫は処罰を受けず千葉氏・上総氏として繁栄をした。
★平直方(生没年月日不詳)惟時の子、摂関家の家人として武力を担う。桓武平氏北条流、上総介、従五位上・検非違使右衛門尉(うえもんじょう)、平忠常の追討使に任じられた、三年に渡る忠常との戦いに激しい抵抗に遭い鎮圧が出来ず更迭された。変わって忠常を鎮圧した源頼信の子、頼義を婿とし、東国経営の拠点の鎌倉を譲る。義家の外孫にあたる。
※平忠常の乱は上総・下総・安房の国々の国衙への不満と将門の乱から荒廃し統制の執れない事態に、国衙役人の妻子が京に逃れようとしたことに端を発した。不満は国人、洲民から農民や荘園に従事する者から官庁官人までの不満を吸収した忠常は遂に蜂起をした。
当初事の次第によっては妥協し事の治まることを模索していたが、この事態に朝廷は忠常の反乱と決めて追討使に平直方を派遣した所が、平直方を派遣しても成果が上がらず、逆に坂東武士の反目に遭い協力が得有られず、更迭をさせられた。
次に派遣されたのは甲斐国源頼信であった。頼信は粘り強く説得した結果、降伏に応じた。忠常は京に護送される途中尾張で病死をした。
奥州経営は土着の民、俘囚の民から豪族の意向を無視しては統治はできないことを思い知らされた。




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「河内史跡巡り」神宮禅寺・河内西国観音十八札所

2017-09-07 11:22:44 | 温故知新
「河内史跡巡り」神宮禅寺・河内西国観音十八札所・由来は、その昔、土地の有力者であった豊門長者の信頼が厚い直宗和尚が、丹波の守(万祥院殿四品瑞山紹運大居士)を開基とし、豊門長者の屋敷跡地に創建したのが始まりです。開山直宗和尚が亡くなって三百年になるというこの寺の本尊は聖観音像。門前には、当時長者の屋敷に出入りした人々が馬を洗ったという池(馬洗池)があり、池にかかる石橋を渡ったところには付近の住民が絶えずお参りする稲荷の社があります。ちなみに当寺の本山は京都の妙心寺です。
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