「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神

2017-09-05 06:55:21 | 温故知新
京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2-15-13・山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立であります。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和九(1623)年には八條宮の御領地となり、度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろびろと広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する「キリシマツツジ」が多数植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。

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「西国四十九薬師巡り」久安寺・高野山真言宗・大阪府池田市伏尾

2017-09-05 06:52:06 | 温故知新
「西国四十九薬師巡り」久安寺・高野山真言宗・大阪府池田市伏尾町・●近衛天皇の勅願所として再興。久安寺は、神亀二年(七二五)に僧行基によって開かれたと伝えられ、天長年間(八二四~三四)には、弘法大師が真言密教の道場として中興、安養院と呼んでいた。久安元年(一一四五)には、賢実上人が近衛天皇の勅願所として再興、楼門、金堂、搭などの伽藍と、四十九の坊舎を建立し、久安寺と号した。豊臣秀吉はここで月見や茶会を楽しんだと言われている。そのときの手植のかや榧の木や腰掛石が残されている。江戸中期には、歌人の平間長雅がこの寺に在住し、寺の興隆に力を尽くしました。現在は霊園事業を基に昭和の興隆事業を起こし、曼荼羅思想によって諸堂や庭園を整備している。お参りは、国の重文に指定されている楼門から始まり、楼門は久安元年に建立されたもので、近衛帝の勅願額を掲げている。昭和三十四年(一九五九)に解体調査をされ、室町初期に大修理されたことが分かり、室町の彫刻である金剛仁王尊を安置している。楼門をくぐれば、苔むす石垣、楓の老木が古刹の雰囲気を漂わせ、参拝の方々を迎えます。楼門から北に三百五十メートルの参道が金堂跡まで続いています。一万坪を越える境内には、季節の花々が咲き乱れ、趣き深い庭園が広がる。薬医門の奥には、小坂院が本坊として残っています。小坂院は、賢実上人が再興した四十九の坊舎の一つで、往時を偲ぶことができる。

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『江戸泰平の群像』21・牧野 忠成

2017-09-05 06:49:19 | 温故知新
『江戸泰平の群像』21・牧野 忠成(まきの ただなり)(1581~1655)は、上野大胡藩の第2代藩主、のち越後長峰藩・越後長岡藩の各初代藩主。戦国武将から近世大名への過渡期の牧野一族とその家臣団を導き、譜代大名の地位を確立した。その結果、越後長岡藩の立藩を果たして、以後250年に及ぶ長岡藩政の礎を築いた。天正9年(1581年)、三河国宝飯郡の牛久保(愛知県豊川市牛久保町)に生まれる。父に同じく徳川家康に仕え、その継嗣徳川秀忠に付属する(諱の忠成は秀忠の偏諱拝領という)。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに備え、父康成と共に徳川秀忠の軍勢に具奉して上田城の真田氏を攻める(関連→下欄の「逸話」を参照)。同9年(1604年)、父康成は公事を辞し大胡城に閑居。ゆえに忠成は父の職務を代理する。同10年(1605年)2月29日、徳川秀忠将軍宣下につき上洛。同4月従五位下駿河守叙任。同14年(1609年)12月、父康成死去につき大胡藩2万石の跡式と大胡城を継承(大胡藩第2代藩主)。同19年(1614年)10月、大坂冬の陣に徳川軍五番備えにて参陣。同20年(1615年)の大坂夏の陣にも四番備えにて参陣し奮戦、5月8日麾下の壮士等首級27を挙げ、大坂落城に寄与。元和2年(1616年)春、大御所徳川家康死去。忠成は7月に越後国長峰5万石に加増移封、長峰築城。同4年(1618年)3月、同国長岡に6万余石に加増のうえ再転(越後長岡藩立藩)、堀直寄の居城を拡充完成し長岡城とする。5年(1619年)、広島城主福島正則改易につき花房正成と共に上使を承り、江戸芝愛宕下の福島屋敷にあった正則にその旨を伝え、広島城開城を命ずる文面を正則直筆の墨付きで取る[2]。この年、官職名をまた右馬允とする。同6年(1620年)、前年の上使を首尾良く勤めた功により越後国古志郡栃尾に1万石加増[3]、併せて7万4千余石となる。同7年(1621年)に念無上人とともに江戸三田台町に浄土宗寺院済海寺を創建し、その開基となる。寛永2年(1625年)10月、領地の朱印状を秀忠より発給された。同7年(1630年)6月、初めて領地長岡に入る。同11年(1634年)7月、徳川家光に具奉して上洛、従四位下侍従に叙任される。承応3年(1654年)、駿河守再任。同年12月16日、江戸屋敷にて死去。享年74。長岡藩領内古志郡栖吉村(現長岡市栖吉町)の曹洞宗普済寺。なお、同寺には牧野忠成の木像が安置されている(同寺は2004年の新潟県中越地震で大被害を受けた。倒壊した牧野忠成墓塔は2006年に復元、本堂も大破したが修復され、木像も残っている)。

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『歴史の時々変遷』(全361回)281“貞享騒動”

2017-09-05 06:45:34 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)281“貞享騒動”
「貞享騒動」1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である。中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれる。1686年の安曇平における作柄は、例年と比べて不作であったが、松本藩は年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行った(1斗=18.039リットル、1升=1.8039リットルに換算)。周辺藩の基準は1俵あたり2斗5升であり、1.4倍以上(軽度の脱穀作業も求められたため)という著しい増税状態となった。安曇郡長尾組(組は藩領を分割する大単位、現在の長野県安曇野市三郷・堀金地域)中萱村の元庄屋、多田加助(嘉助)を中心とした同志11名は、ひそかに中萱の熊野神社拝殿に集まり百姓たちの窮状を救うための策を練った。その結果松本の郡奉行所へ行って直接郡奉行に1俵あたり2斗5升への減免等を求める5か条の訴状を提出することになった。実行日は10月14日。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなった。当時の藩主、水野忠直は、参勤交代のため不在であった。事態を重く見た城代家老は、早々に騒動を収拾するべく、10月18日に多田加助ら百姓側の要求をのむとして引き取らせた。そして、翌19日の夜組手代らに年貢減免するとの回答書を手渡した。一方、江戸表の藩主に早馬で注進。藩主の裁可を得た上で年貢減免の約束を反故にし、翌月関係者の捕縛に臨んだ。最終的には11月22日、多田加助とその一族、同志は、安曇郡(中萱村、楡村、大妻村、氷室村)の者は勢高刑場で、筑摩郡(三溝村、堀米村、浅間村、岡田村、梶海渡村、執田光村)の者は出川刑場で、磔8名(加助、善兵衛含む)、獄門20名の極刑に処された。処刑された者の中には加助の参謀格であった小穴善兵衛の16歳になる娘しゅんも含まれる(当時の習慣としては女子が処刑されるのは異例)。さらに、善兵衛の妻さとが正月明けに出産した男児にも死刑宣告が下された(ただし、翌月にその男児が病死したため処刑とはならなかった)。騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められなかったが、元通りの3斗に引き下げられることになる。一説には、江戸詰であった鈴木伊織という一藩士が多田らへの仕置きに反対し、藩主から処刑中止の許しを得たという。鈴木は自ら騎馬で伝達に走ったが、松本に入った付近で乗馬が倒れ、鈴木自身も昏倒したために処刑に間に合わなかったという。馬が倒れた場所は「駒町」として地名に残っている。鈴木は領民保護に尽力した事で知られ、その徳を讃え名付けられた「伊織霊水」という井戸が松本市内に復元保存されている。また、勢高刑場は現市立丸ノ内中学校付近もしくは敷地内であり、校長室には嘉助騒動で処刑された遺体の発掘状況を記した模型が存在する。なお、中学校は松本城を見下ろす高台にあり、敢えて松本城を望む状況で処刑されたことが分かる。多田は刑死の際に松本城を睨みつけ、その瞬間に天守閣が傾いたという伝承が残る。1725年、時の藩主水野忠恒が江戸城内で刃傷沙汰に及び改易となり、知行権が戸田松平家に移ったのを契機に義民の顕彰が始まった。事件発生後50年を迎えた1736年、多田家では加助や処刑された一族を祀る祠を屋敷神として敷地内に建てた。また、貞享騒動五十年忌の供養塔も地元の人々によって楡(小穴善兵衛の地)の精進場に建てられた。騒動二百年祭(1880年)に際しては多田家の祠を旧郷倉跡に移し、社殿を造営。これが加助神社の始まりである。その際、多田家以外の義民も合祀された。なお、明治になって水野家から加助坐像と金一封が加助神社に寄贈された(この坐像は騒動後、「加助のたたり」を怖れた元藩主水野氏が作らせて邸内に置いてあったもの)。またこの際、水野忠直も合祀された。


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「平安京物語」48 “強権道長の人間像”藤原一族の他氏家

2017-09-05 06:38:18 | 温故知新
「平安京物語」48 “強権道長の人間像”藤原一族の他氏家の追順を許さない独占は、今度は藤原家の摂関の主導権争いは兼通と兼家の兄弟争いへと、身内の勢力争いへと変化をして行った。
中でも緻密(ちみつ)・老練で周到な手法で政権の頂点に上り詰めて行った道長の人物像を検証した。
権力争いは道長の先代の父兼家とその兄兼通の時代から熾烈(しれつ)な戦いで勝利した、道長の父兼家であった。代が変わって道長は五男でありながら並み居る兄達の有力候補を出し抜いて権力の座に就いた。しかも後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父に当る。
道長の父兼通(かねみち)は兼家より四歳上で当初は年の差だけ昇進をしていたが、冷泉天皇即位の時に兼家は兄を飛び越して参議になった。そして弟の大納言に対して兄の中納言の、所が形勢逆転、上の兄の伊尹が亡くなると意に反して兼家が関白内大臣になり兼家は据え置かれた。
関白になった兼通はこの時ばかりに弟の兼家の頭越しに従兄に相談したり起用したりして、弟の兼家の昇進を阻害するよう言動にますます溝が深まり増悪ばかり増幅されていった。
その犬猿の仲の例として、或る時に兼通が病に臥していた時に、兼家の行列が兼通の邸の前に差し掛かり、仲たがいをしてもやはり兄弟かと見舞いを期待した。
行列は兼通の邸を通り過ぎ内裏に向かってと言う。兼通はがっかり、今度は兼通が病を押して天皇に次の人事「最後の除目を行います」と言って、兼家の兼職を剥奪するなどの行為に出て、その後安心してか一カ月後に五十三歳で没した。この仕打ちで兼家は半年は左遷させられて、出仕しなかったと言う。兼通の後を引継いだ頼忠とは兼家とは摩擦は起こらず、共に娘を後宮に送り込んだが、皇子を生んだのは兼家の娘だけだった。花山天皇が即位し、新東宮(次期天皇候補)に懐仁親王が選ばれた兼家の未来は外祖父として保障され開かれた。即位をした花山天皇は寵愛の大納言爲光の娘、忯子が病に臥し失意の中、兼家一家の道隆、道綱、道兼ら子供たちは揃って計画的に、継嗣の懐仁親王の即位をさせるためにも花山天皇の出家を勧めた。最後には強引に宮廷から誘いだし策略を講じて無理矢理に剃髪し,花山天皇を隔離した形で出家をさせてしまった。時に花山天皇十九歳、即位して在位二年間であった。
こうして権力を手にした兼家は摂関の職に四年間、病気の為に長男道隆に譲って六十二歳にして没した。家督と権力受け継いだ道隆は酒癖が悪く行儀も品もなく、評判は芳しくなく、露骨に身内ばかりを昇進させた。道隆は身内の重用で地盤固めは万膳と思われていた。
その内、後を継いだ道兼も没し、道隆の子伊周は十九歳権大納言への驚異の昇進をした。伊周と道隆の弟の道長の権力抗争へと移って行った。
病の道隆は子の伊周に関白を譲ろうしたが、十六歳になっていた一条天皇はこれを許さず、その内道隆は四十三歳で没し、後を道兼が引き継いだが、喜んだ道兼はすでに病のおかされ関白になってすぐの没した。後に残った伊周は内大臣、道長権大納言、両者叔父甥の関係であった。
天皇から見れば道長は叔父に当り、伊周とは従兄に当る。伊周と道長とは相性は悪く、甥が自分より先を越して要職は快いものではない。ここに介入してきたのが一条天皇の母、詮子で道長の姉で道長を指した。詮子の天皇への進言で道長に内覧(太政大臣に準ずる役職、天皇に替わって代弁し取り次ぐ)になって右大臣に昇進をした。これを見て伊周は不満と反発は尋常ではなかった。
伊周と道長との対立は激しく各公卿前で激しく口論になって、三日後には二人の従者まで乱闘騒ぎを起こしている。一週間後伊周の外祖父高階が道長呪詛の噂が流れ、その後伊周の軽率な行動、花山上皇との女性関係廻り、誤解から発し、伊周の従者の者が花山上皇の者に弓を引いてしまった。道長は慎重に事を進め、その後、大がかりな除目が行われ伊周は内大臣の席を外させ、検非違使に命じて伊周の家来を七,八人逮捕させた。一味の隆家の罪状を決定せよと蔵人頭などの突き上げに、公卿らはとうとう来たかと嘆声を上げた。
しばらくして詮子の病態がにわかに重くなったがこれも伊周の呪詛と決めつけられ、ついに公卿たちは召集され天皇の目の前で除目を行い。伊周を大宰府権に、隆家に出雲権守に流罪、左遷させられた。甥、叔父の戦いはここに叔父道長の勝利で面目を保てた。
道長を後押ししたのは一条天皇の母后、詮子は弟の道長を寵愛し、甥の伊周を疎んじた。
こうして強権道長は康保三年(966~1027)父兼家、母は藤原中正の娘、一条天皇が即位し父兼家が摂政となって少納言、参議を経ないで権中納言になった。
妻倫子は左大臣源雅信の娘、道子との結婚は道長二十二歳、倫子二十四歳で二歳年上である。左大臣源雅信は、行く行くは女御(天皇の側室に高位な女官)にしたいと思っていたが、その折には適齢の天皇がいなかったところに道長が熱心に通ったので源雅信はこれを許した。
この時代の結婚は通い婚だったので道長は源雅信邸に熱心に通い入り婿の状態だったかもしれない。だがこの婿徐々に頭角をおあらわし、雅信は由緒ある土御門邸を譲った。道長には他の女に源高明の娘明子がいたが、終生倫子と土御門邸で暮らした。
英明の天子、一条天皇は寛弘八年(1011)発病しそれが悪化するに、ついに東宮居貞親王に譲位して直ぐに三十二歳の若さで亡くなった。
辣腕道長も冷静で思慮深い一条天皇には政権の思惑も慎重に進めなければならなかったし、一条天皇も思った政治を執れなかったと思われる。
元々摂関は天皇が幼くして即位し政治の補助的役柄に、たてられて制度で大人になって、しかも英明な天子と言われた一条天皇は摂関の必要が無く、心の奥底には今までの因習で従ったに過ぎない制度、道長、一条天皇は気付かって、勝手な行動は取れなった。
道長を外祖父でも第一の臣下として扱い、生涯左大臣に遇し関白にはしなった。一条天皇が没し居貞親王が三条天皇として即位をしても関白は固辞をした。
三条天皇との確執があったが直ぐに譲位を仕向けた形で自分の娘彰子の生んだ後一条天皇にすることに成功、こうして意のままに天皇を据え替える道長の強権が後世に是々非々の論議を呼んだ。何と言っても一条・三条・後一条と中宮を出し絶大な権力をほしいままにした。
彰子を皇后にしたころから病気がちになって仏教に帰依していくようになり、東大寺で授戒金峰山に参詣し近年大峰山頂上に自ら書写した弥勒経などの埋経が史実通り発見された。
生存中にも法性寺・無量寺寿院などの建立に寄与した。強権道長も病死の苦しみにすがったのは仏教であった。
★藤原道長(966~1027)父藤原兼家、母は藤原中正の女、左大臣の源雅信の娘倫子と結婚し、翌年に彰子が生まれた。父兼家が没すると権大納言にその頃疫病で多数死亡し、長兄道隆が没するが、後を継いだ道兼も関白就任後没した。
その後後継で甥の伊周と対立したが、道長は内覧の宣旨を受け、ついに右大臣となった。翌年に伊周・隆家らの花山天皇に矢で射る失態をして左遷、道長の巧みな冷静沈着と周到な手法でライバルを凌ぎながら権力を手にして行った。
関白の地位を固持し、自由な立場で辣腕を振るった。
★藤原兼通(かねみち)(925~977)公卿、堀川殿とも称され、藤原師輔の次男、母は藤原経那の女、三男の兼家と摂関を争った。
出世争いでは弟に先んじられていたが、伊尹がぼっしるとい遺言により関白太政大臣になった。兄弟争いはその後も続き関白も氏長者も頼忠に譲った。
弟兼家を左遷してその後没した。
★藤原兼家(かねいえ)(929~990)公卿、大入道殿とも称され。藤原師(もろ)輔(すけ)の三男、母は藤原経那の女、兄弟に伊尹(これまさ)・兼通がおり、子女に道隆・道兼・道長・道綱・超子・詮子らがいる少納言、蔵人頭、左近衛中将を経て参議を越えて、兄の兼通を追い越して従三位になった。
翌年に中納言、大納言に出世し、摂政太政大臣の伊尹の病気を理由に引退すると、兄兼通と兄弟相克争いをした。兼通が勝利し、兼通が病気で辞した時に関白にはなれず、その後の機会にも関白に成れなかった。一条天皇の即位でやっと関白と氏長者に成れた。
★花山天皇(968~1008)冷泉天皇の第一皇子、母は藤原伊忠の娘懐子、師貞親王、二歳で皇太子、十七歳で即位した。関白藤原頼忠、政治の実権を握ったのは天皇の叔父伊忠の子、藤原義懐らで、その後兼家らの陰謀にかかり、二年足らずで内裏を出て山科の元慶寺に入って出家した。
★藤原(ふじわら)伊尹(これただ)(924~972)公卿、左大臣藤原師輔の第一子。母は藤原経那の女盛子。兄弟には兼通・兼家・安子らがいる、天暦五年(951)撰和歌所が設置され別当になる。以後昇進し、蔵人頭、参議、安和の変で左大臣から右大臣になり、摂政藤原実頼(さねより)が没すると、それを受けて摂政となった。
★藤原頼(より)忠(ただ)(924~989)公卿、父は藤原実頼(さねより)。母は藤原時頼の女。参議・中納言・右大臣になり927年に摂政太政大臣藤原伊尹が辞表をだし頼忠は兼通を支持し伊尹没後兼通が関白となった。今度は兼通が頼忠に関白を譲り、その後太政大臣となり娘遵子(じゅんし)を円融天皇に入内させ、皇子が生まれなく外戚にはならなかった。
★藤原伊周(伊周)(974~1010)公卿、藤原道隆の長子。母は高階成忠の女。父道隆が父兼家に継いで関白になった。叔父道長を越えて内大臣になって確執が続き、父道隆が病気につき、自ら関白の就任を願ったが許されず、病気中のみ内覧を許された。
道隆が没すると叔父道兼に下され、道兼が没ずると、関白は一条天皇の生母詮子の助言で道長に下された。
その後道長と対立が深まったが、自ら起こした不祥事で大宰府に流された、帰京後も呪詛事件の連座で凋落し回復することが無かった。
★藤原道隆(935~995)公卿、藤原兼家の長子、母は藤原中正の女(時姫)道兼・道長・超子・詮子らとは兄妹。花山天皇から一条天皇への譲位により、父兼家が実権を握ったことから昇進、内大臣・左大臣兼任し、定子を入内させ女御になった。
関白に成った後、職を子の伊周に譲ろうとしたが、内覧の代行に認められ、没後は弟道兼が関白となった。
★源雅信(920~993)公卿、宇多源氏。一条左大臣、鷹司殿と称される。宇多天皇の皇子の敦実親王の子、蔵人頭、参議などを経て右大臣になった。
花山天皇・一条天皇・三条天皇の皇太子時代の皇太子傳を務めた。その後左大臣になって重病の為に出家し、まもなく没した。
※摂関時代でも道長が摂関家の主権争うには情けは無用、相剋時代が熾烈で、例え兄弟と言ども突き落とし、策講じては機会を窺い、敵の失態に乗じて地盤を固め、天皇には女御の布石を着実に打つ、用意周到の者が覇権を握る。優雅な平安絵巻の裏側で繰り広げられたのが限られた藤原摂関一族の覇権の争いであった。

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「河内史跡巡り」玄清寺・河内西国観音二十三番札所・額田駅

2017-09-05 06:36:16 | 温故知新
「河内史跡巡り」玄清寺・河内西国観音二十三番札所・額田駅から緩やかな坂道を下って行くと、大きなシュロの木があるお寺が見えてきます。山門を入ると、中央に本堂と庫裡、向かって左側に観音堂、右側に鐘楼が建っています。ここ玄清寺は浄土宗の大寺で、慶長二年(一五九七)額田村の高内正定氏が聖誉上人を招いて開いたといわれています。正定氏は浄翁玄清居士と称したので、浄翁山玄清寺と称するようになりました。延宝年間(一六七三?八〇)教誉上人が当寺を中興し、第十世寂誉上人の時、享保二年(一七一七)三月に檀頭の高内氏首性一家が施主となって本堂が上棟されました。この時の棟札は大工頭梁、藤原正氏の子孫である藤田貞三氏が所蔵されています。現在の本堂は昭和四十六年、第二十九世清誉上人の時に建立されたものです。平成九年、開基四百年を迎えた玄清寺は第三十世芳誉上人の晋山式に加え、木造二階建ての庫裡を新築。本尊は阿弥陀如来坐像(像高九二センチ)で、木彫漆箔、来迎印を結び、舟形光千体仏を配し天蓋を垂れています。本尊右には浄土宗の基となる教えを説いた善導大師像、浄土宗開祖法然上人像を安置し、別に高内正定氏の木像もあります。
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