「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「神仏霊場巡り」熊野那智大社・熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山・旧官幣中社・

2017-09-04 07:11:32 | 温故知新
「神仏霊場巡り」熊野那智大社・熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山・旧官幣中社・
当社の起源について諸説あって定かではない。一説には仁徳天皇五年の鎮座と伝えらえている。もう一つの説に裸行上人と伝えら、熊野那智大社と向かい合う西国観音一番札所青岸渡寺の創建の裸形上人と同じである。元々隣接している熊野那智大社も青岸渡寺も明治維新の神仏分離令まで神仏習合の霊地と一体であった。従って祭神が少々複雑、第一殿滝宮・大己貴命(千手観音)★この第一殿は133M大滝が御神体の遥拝殿を指し、★第二殿は証誠殿は家都御子大神(国常立尊・阿弥陀)★第三殿・中御前は御子速玉大神(伊奘諾尊・薬師)★第四殿の西御前は熊野夫須美大神(伊奘冉尊・千手観音)を祀る。この第一殿から第四殿までが主祭神で★第五殿の若宮に天照大神(十一面観音)★第六殿には禅師宮には忍穂耳(地蔵)聖宮には瓊瓊杵尊(竜樹)児宮には彦火火出見尊(如意輪観音)子守宮には草葺不合尊(聖観音)一万宮には国狭槌尊(文殊)十万には豊斟渟尊(普賢)勧請十五カ所には諸神・諸仏を一対づつ祀る。これら神仏習合の本地垂迹思想は平安から鎌倉に掛けて形成され、本来の境地の神道に迹から垂れる意味で法身上、神が仏の形を取って借りに現れることである。化身として表れることである。要するに神仏の融和の象徴で共栄共存の日本人の知恵だったろう。那智大社は熊野三山に二山と違って那智山中の一の滝、二の滝、三の滝の中でも三滝の大滝を信仰の対称としている。また早くから役子角は当地を第一の霊場と定めて修行をした。また花山法王が熊野御幸した時には滝籠りをされた。平安時代には蟻の熊野詣と云われ京都から公家、上皇、天皇まで列をなして熊野詣がなされた。

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「近畿三十六不動巡り」如意輪寺・(吉野は金峯山寺へ行く手前に

2017-09-04 07:09:02 | 温故知新

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『江戸泰平の群像』20・高力 忠房

2017-09-04 07:06:31 | 温故知新
『江戸泰平の群像』20・高力 忠房(こうりき ただふさ)(1584~1657)は、江戸時代前期の大名。武蔵岩槻藩2代藩主、遠江浜松藩主、肥前島原藩初代藩主。島原藩高力家2代。高力正長の長男として遠江国浜松に生まれる。父が早世したため、祖父清長に育てられた。慶長4年(1599年)、武蔵岩槻2万石を領する大名となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍した。関ヶ原の戦後、西軍に属した増田長盛の身柄を預かっている。慶長14年(1609年)、居城の岩槻城が全焼したが、復興に尽力して徳川家康の鷹狩用の宿として提供した功績を家康から褒め称えられた。慶長19年(1614年)、大久保忠隣が改易されたとき、安藤重信らと共に小田原城の受け取りを担当した。同年冬からの大坂冬の陣では秀忠軍の一員として参戦し、翌年からの大坂夏の陣では土井利勝に従って奈良で豊臣軍と戦い、戦後は残党狩りを担当した。その功績により、元和5年(1619年)に浜松3万石へ加増移封された。寛永2年(1625年)、寛永11年(1634年)には計1万石を加増され、合計4万石を領する大名となった。寛永16年(1639年)4月、3代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前島原4万石へ移封された。このとき、家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、さらに長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。忠房は家光の期待に応え、乱後で混乱していた島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの政策を採用して島原を見事に復興させた。忠房の移民政策により、島原には様々な地方の人々が集まったため、新たな方言が生まれたといわれている。明暦元年(1655年)12月11日死去。享年72。





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『歴史の時々変遷』(全361回)280“浄瑠璃坂の仇討”

2017-09-04 07:04:23 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)280“浄瑠璃坂の仇討”
「浄瑠璃坂の仇討」寛文12年2月3日(西暦1672)に宇都宮藩を脱藩した奥平源八が父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件。発端は、寛文8年3月2日(1668)、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要にて「七族五老」と呼ばれる重臣12家があった。忠昌の法要において、そのうちの2家の当主であった奥平内蔵允と奥平隼人の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に向かって抜刀したが、返り討ちにあって怪我を負ってしまった。居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃(1000石取)などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。藩庁へは、興禅寺での刀傷から「破傷風で死去」と報告された。藩の処分は事件から半年を経た9月2日(10月7日)に下された。隼人へは改易、内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡された。奥平家を追い出されるかたちでありながら、両者には大きな差があった。両成敗ならば隼人は切腹となるはずである。それが、源八たちへは即日退去を命じておきながら、隼人と、その父・半斎へは物々しい護衛を付けて送り出しているのである。その隼人の親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。そのためこの処分には喧嘩両成敗に則せず不公平である、と追放された源八とその一族に同情する者が続出した。なかには、奥平家を見限って浪人の身となる者さえ現れた。こうして源八の一党は、軽輩はもとより重臣の子弟までもが含まれる一団となり、源八一党は仇討を誓って3年余も雌伏することとなった。源八に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、40数名におよんだ[1]。仇討ちの作戦計画・立案・実行の首謀者は「桑名頼母という知られざる智謀の士であった」[2]という。源八に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、以下の通り。1,200石 - 夏目勘解由嫡男300石夏目外記とその家来五十部三郎兵衛門・平野長右衛門・斉藤孫左衛門・仲間 角右衛門、500石 - 奥平伝蔵(26歳)家来岡田八衛門・甚五右衛門、600石 - 平野左門 家来新家右衛門、400石 - 桑名友之丞・弟頼母・弟三七・家来池市郎右衛門、300石 - 白川八郎左衛門 大關信濃守浪人・外記伯父300石 - 後藤安衛門300石 - 菅沼治太夫・菅沼五郎屁兵衛250石 - 生田彌左衛門・長男久五郎・次男傅七郎・三男興四郎200石 - 細井又左衛門100石 - 細井嘉兵衛100石 - 三輪庄兵衛100石 - 上曽根甚五衛門15石 - 大内重太夫15石 - 武井傅兵衛15石 - 川俣三之助1200石 - 兵藤玄蕃・嫡男200石主殿事件の当事者を追放してまもなく、追腹一件を幕府から咎(とが)められた奥平家は2万石を減石されて出羽山形藩9万石への転封となっていた。寛文9年7月3日(1669)、源八ら一党は手始めに、追放処分を受けず奥平氏に留まっていた隼人の実弟奥平主馬允を出羽上之山で待ち伏せし、討ち取った。源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。源八らは10数人を斬るなど終始優勢であったが、隼人の父・半斎を討ち果たしたのみで、目的の隼人を探せなかった。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、隼人が手勢を率いて追ってきた。源八はとって返して、隼人と対決し、ついにこれを討ち取った。源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。文治政治への転換を進めていた徳川家綱の政権は、この行為をゆるさず、武士の私闘を悪として封じ込める策を採った[1]。ただし、源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為か、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、こののちは彦根藩井伊家に召抱えられた。他にも、他家へ召し抱えられた者がいた。源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。源八の一党は仇討ちを果たした後、自ら出頭しているが、赤穂浪士もこれに倣っている。徒党を組んでの仇討ちは禁じられており、本来ならば死罪に相当するが、源八らへの処分は見方によれば寛大なものであり、恩赦後、彼らは他家へ召抱えられた。この仇討ちは、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり、江戸の瓦版をにぎわせて「武士道の範」として世間に感銘をあたえ、歌舞伎や講談の題材としても取り上げられた。1955年(昭和30年)には「復讐浄瑠璃坂・二部作」(主演:嵐寛寿郎)として映画化もされている。のちに起こった赤穂浪士の討ち入りと合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多いが、近年では仇討ちの原因の分かりにくさや当事者の関係の煩雑さもあって、他の2つと比べて取り上げられることが少なくなっている。


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「平安京物語」47“永長の大田楽”(えいちょうのおおでんがく)

2017-09-04 07:01:46 | 温故知新
「平安京物語」47“永長の大田楽”(えいちょうのおおでんがく)とは、嘉保3年(1096年)の夏に京都で発生した田楽の流行のこと。ただし、同年冬に元号が永長と改元されたため、一般的には「永長の大田楽」と称されている。農耕儀礼に由来し、後に独自の芸能として発達した田楽そのものを京都で見る機会は過去に何度かあった。記録上では長徳4年(998年)を最古とし、嘉保元年(1094年)5月にも田楽の流行はあった。だが、永長の大田楽は京都の貴賤を熱狂的興奮に巻き込んだ現象として後世に伝えられている。その遠因は嘉保3年(1096年)3月に予定されていた松尾社の祭が穢れを理由に延期になったことに端を発する。直後から、松尾社の神が延期に不満を抱いているとの童謡が広まった。6月に祇園会が開催された頃から再び京都で田楽が流行し始め、京都市中のあちこちで田楽踊が見られるようになった。その勢いは上流階級までも巻き込み、公卿や院近臣の中にも楽器を演じたり踊りに加わる者が相次いだ。田楽は祇園会が終わり、翌7月に入っても収まらなかった。そして、同年7月12日、白河上皇も田楽観覧が好きであった愛娘・媞子内親王(郁芳門院)のために院御所六条殿及び内裏閑院殿・女院御所にて公卿・院近臣たちに華美な格好で田楽を行わせて内親王や堀河天皇とともにこれを楽しみ、これに市中の田楽踊も合流して3つの御所を中心として田楽踊が夜を徹して行われた。この勢いに大江匡房は『洛陽田楽記』(『朝野群載』所収)の中で白居易の漢詩を引用して「一城之人皆若狂(一城の人皆狂えるが如し)」と評している。ところが、8月7日に媞子内親王が急死し、衝撃を受けた白河上皇が出家すると、熱狂的な田楽流行にも水を差され、急速に鎮静化していった。その後も、嘉承元年(1106年)の祇園会をきっかけに再び田楽の流行があり、この際には参加者の間で武器を持っての乱闘も起きていることから、先の永長の時の媞子内親王急逝と白河上皇出家の件と合わせて、田楽の流行=下人濫行=政治的凶事の前触れとして受け止められるようになっていき、確立期の中世的政治体制を揺るがしていくことになる。この事件をどう解釈するかについては様々な見解があり、政治・社会の行きづまりによって鬱積した人心が当時の享楽主義的な風潮や低俗な迷信と結びついてそのはけ口を求めたとの見方や折からの伊勢神宮の遷宮に伴う課役に対する人々の不満を表明する政治的抗議の一環とする見方などがあり、またこの流行を自然発生的なものとは見ず、政治権力の介在[4]や民間宗教者の暗躍など背後にある存在を見出す見方もある。更に古代から中世への転換期に起きた永長の大田楽と近世から近代への転換期に起きたええじゃないかを比較・検討する研究もある。


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「河史跡巡り」常楽寺・河内西国観音二十五番札所・昔大和川支流

2017-09-04 06:54:07 | 温故知新
「河史跡巡り」常楽寺・河内西国観音二十五番札所・昔大和川支流、郡川の里辺にある観音は霊験あらたかで、俗に川辺観音と称し、近郷の人々に崇拝されていました。 この十一面観音は御本尊阿弥陀如来の前立として安置されています。 それからずっと時代が下って、南北朝時代より念佛聖の道場となり、江戸時代元禄二年(一六八九)には本堂が再建されました。のち、秀伝和尚の時、融通念佛宗となり今日に至っています。寺内には、十一面観世音菩薩、木造の釈迦牟尼世尊・文珠普賢大菩薩・十六羅漢像が安置され、融通大念仏縁起・一巻、大きな釈迦涅槃之図(縦二四〇cm、横一六〇cm)一幅、大般若経六百巻などが所蔵されています。激動する歴史の潮流に翻弄され、無住の時代を経て来たため、失われたものも少なくないと聞きます。
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