「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『江戸泰平の群像』41・井伊 直孝(

2017-09-03 10:49:42 | 温故知新
『江戸泰平の群像』41・井伊 直孝(いい なおたか)(1590~1659)は、江戸時代前期の譜代大名。上野白井藩主、近江彦根藩第2代藩主。井伊直政の次男。母は印具氏。井伊直勝の異母弟。正室は蜂須賀家政の娘・阿喜姫。子に直滋(長男)、松千代(次男、夭折)、直寛(三男)、直縄(=直時[1])(四男)、直澄(五男)。異母兄の直勝と同じ年に駿河国中里(焼津市)で出生し、幼名は弁之助といった。直孝の生母とされる印具氏(諸説あり)は直政の正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは慶長6年(1601年)であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。慶長7年(1602年)の直政の死後は江戸にあって徳川秀忠の近習として仕え、秀忠が2代将軍に就任した慶長10年(1605年)4月26日に従五位下掃部助に叙位・任官[2]。慶長13年(1608年)に書院番頭となり上野刈宿5,000石を与えられ、次いで慶長15年(1608年)には上野白井藩1万石の大名となり、同時に大番頭に任じられた。慶長18年(1613年)には伏見城番役となった。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名された。大坂城攻略では松平忠直と共に八丁目口の攻略を任せられたが、同じ赤備えの真田信繁勢の挑発に乗り突撃したところを敵の策にはまってしまい信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出す大被害を生じさせた(真田丸の戦い)。後に先走って突撃したことを軍令違反と咎められたが、家康が「味方を奮い立たせた」と庇ったため処罰はされなかった。井伊家では直政の死後、家督を兄の直勝が継いでいたが、直勝は家臣団をまとめ切れず、それを憂慮した家康の裁定によって慶長20年(1615年)、直孝は井伊家の家督を継ぐよう命じられ父の遺領18万石の内、彦根藩15万石を継承し、直勝には上野安中藩3万石が分知された。井伊家の家臣団は井伊谷以来の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは直孝に配属された。同年の大坂夏の陣においては藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将・木村重成と長宗我部盛親を打ち破り(八尾・若江の戦い)、冬の陣での雪辱を遂げた。また秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し発砲して自害に追い込むという大任を遂げた。戦後、5万石を加増され、従四位下侍従へ昇進した。大坂の陣での直孝の勇猛な様は大坂冬の陣屏風、大坂夏の陣屏風、大坂夏の陣図(若江合戦図)などに描き込まれている。寛永9年(1632年)、秀忠は臨終に際して直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍・徳川家光の後見役に任じた(大政参与)。これが大老職のはじまりと言われる。その後、家光からも絶大な信頼を得て徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた。徳川家綱の元服では加冠を務め、宮参りからの帰りに井伊家屋敷にお迎えした。これらと家康の遠忌法会で将軍名代として日光東照宮に名代として参詣する御用は、直孝が務めて以降先例として彦根藩井伊家固有の御用となった。朝鮮通信使の応接においても幕閣筆頭としての役割を担うなど、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。清に滅ぼされた南明政権の鄭芝龍の救援出兵要請を受けるかどうか幕府内で話し合った際は、その頃大量に発生していた浪人を送り込んで出兵すべきと主張した家光や徳川頼宣に対し、豊臣秀吉の朝鮮出兵を引き合いに出して強く反対し、出兵しないことに決まった。その後、鄭芝龍の息子・鄭成功からも出兵要請が幕府にあったが、棚上げにされた。長男の直滋は江戸で幼少の頃から秀忠・家光に寵愛され、何不自由なく育ったためか我が強い性格で、直孝とたびたび対立し、言い争うことが多かった。直孝死去の前年の万治元年(1658年)、直滋はみずから出奔して百済寺に遁世した。翌万治2年(1659年)4月、末子の直澄が世子となり、直孝によりその次の当主は直縄の嫡男・直興と定められた。同年6月に直孝が没すると同時に直澄が家督を継いだ。法名は久昌院殿豪徳天英大居士。墓所は東京都世田谷区の大溪山豪徳寺。


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「神仏霊場巡り」橿原神宮・奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久

2017-09-03 08:39:30 | 温故知新
「神仏霊場巡り」橿原神宮・奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治二十三年)官幣大社として創建された。1940年(昭和十五年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族の参拝がある。近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭および奉祝行事「春の神武祭」が行われる4月3日にも多くの参拝者が訪れる。畝傍山東麓は北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっている。県道を隔てた東側は奈良県立橿原公苑として整備されており、橿原公苑野球場や橿原公苑陸上競技場があり、スポーツ競技の奈良県予選決勝の舞台として頻繁に利用されている。公苑に隣接する施設として奈良県立橿原考古学研究所および付属博物館がある。また、付近は多数の陵墓が存在する。社務所に当たる組織は橿原神宮庁と呼ぶ。内拝殿が描かれた紀元二千六百年記念切手なっている

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「西国四十九薬師巡り」雲龍院・真言宗泉涌寺派・京都市東山区泉涌

2017-09-03 08:37:02 | 温故知新
「西国四十九薬師巡り」雲龍院・真言宗泉涌寺派・京都市東山区泉涌寺山内町・(私が訪れた時に写経を熱心に大勢の人たちが黙々と書いていた)●皇室ゆかりの写経道場・雲龍院は真言宗の総本山泉涌寺の別格本山で、境内の一番奥まったところにある。泉涌寺は、東山三十六峯の南端、月輪山麓の清らかな湧き水のほとばしる仙境にあり、約四万坪の広さを備えている。皇室のご菩提所として、特異な格調高い法域でもあります。諸宗兼学の道場として、壮大にして華麗な殿堂がいらか甍を連ねており、かの有名な楊貴妃観音像も大門を入ったすぐ左手の観音堂に安置されています。
当院へは大門を横切り、左奥へと上がって行きます。雲龍院は、北朝第四代後光厳天皇が、泉涌寺第二十一世竹巌聖皐律師の法徳を慕われ、応安五年(一三七二)に創建されました。後光厳院はたびたび行幸になり、律師に聞法受戒しておられ、引導を受けて当院の背後の山に葬られました。後光厳天皇の御子後円融天皇、御孫後小松天皇も深く聖皐律師に帰依され、雲龍院の発展のため厚いご配慮をされ、ご葬送も当山で行われました。後円融天皇は、康応元年(一三八九)如法写経を発願され、そのご宸翰により法要が盛んになった。現在も毎月二十七日の開山聖皐律師の命日と、四月二十六日の後円融天皇のご祥月命日頃に厳修されている。延徳四年(一四九二)は後円融天皇の百年忌に当たり、ご尊影を絵所預の土佐光信に画かせ、御所で叡覧に供した。今日重要文化財に指定されています。文亀元年(一五〇一)後柏原天皇は綸旨をもって御黒戸御所を雲龍院に賜り、如法修殿と名付けらた。現在の本堂であり、重要文化財に指定されています。慶長元年の大地震で堂宇は大破したが、如周和尚が修理し再興させた。信仰厚い後水尾上皇は、写経道具一式二百点を当院に下賜され、また上皇の第七皇女光子内親王が書写された法華経が宝塔におさめられて、写経会の本尊として奉安されている。江戸時代後期には、皇室とのご縁故はますます深まり、玄関・方丈・勅使門を賜り、次いで明治元年(一八六八)歴代のご尊牌を奉安する霊明殿が現在のように再建され、庫裡に祀られている大黒天は、俗に「走り大黒」と言われ、泉山七福神の第五番として信仰を集めている

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『江戸泰平の群像』19・戸田 氏鉄(1576~1655

2017-09-03 08:34:45 | 温故知新
『江戸泰平の群像』19・戸田 氏鉄(とだ うじかね)(1576~1655)、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。近江膳所藩第2代藩主、摂津尼崎藩主、美濃大垣藩初代藩主。大垣藩戸田家2代。戸田一西の長男。三河国二連木(現・愛知県豊橋市仁連木町)生まれ。はじめ徳川家康の近習として仕えた。文禄4年(1595年)10月21日、従五位下采女正となる(後に従四位下)。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに従軍。慶長8年(1603年)、父・一西の死により家督を継ぎ、近江膳所藩主となる。大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹し、戦後元和2年(1616年)摂津尼崎5万石へ移封される。寛永12年(1635年)7月28日、美濃大垣10万石へ移封された。寛永14年(1637年)の島原の乱では、寄せ手の一武将として出陣し、実戦経験の少ない幕府軍を率いて乱を鎮圧した。江戸幕府に対しては寛永10年(1624年)の大坂城修築、島原の乱においての戦功、4代将軍徳川家綱誕生の際の臍の緒を切断する箆刀の役を務めるなど奉仕する。一方、藩政においても新田開発や治水工事などに大きな成功を収め、大垣藩の藩政を安定に導いた。また教育にも力を注ぎ、修養を説いた『八道集』などを著し学問を充実させた。慶安4年(1651年)11月28日に隠居した後は、入道して常閑と号した。明暦元年(1655年)、80歳で大垣において死去。家督は長男の氏信が継いだ。藩政の成功を賞して、現在の岐阜県大垣市大垣公園(大垣城跡)に、氏鉄の銅像がある。父一西以来、代々の子孫は大垣の常葉神社にて祭神として祀られている。また、尼崎藩主として尼崎城築城と共に行った治水事業の功績が称えられ、兵庫県尼崎市と大阪市西淀川区佃の府県境を流れる左門殿川や左門橋として、その名を残している。明治42年(1909年)9月11日、贈従三位。
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『歴史の時々変遷』(全361回)279“シャクシャインの戦い”

2017-09-03 08:31:30 | 温故知新
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「シャクシャインの戦い」1669年6月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれる。シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来る。15世紀頃から交易や和人(大和民族)あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には、河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、和人から惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。シャクシャインや、『津軽一統志』に現れるイシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門やシリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。メナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)に拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であったが、カモクタインは1653年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。しかし1665年頃から対立が再燃、1668年5月31日(寛文9年4月21日) にはメナシクルによってオニビシは殺害される。アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。しかし17世紀以降、幕藩体制が成立すると幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなった。 これは松前家の事跡を記した『新羅之記録』より、まだ蠣崎姓の時代に、秀吉から、蠣崎に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが分かる。徳川時代では、徳川家の歴史を記した『徳川実紀』より、家康から黒印状を与えられ、独占権をより強固なものとする。幕府権力を背景にした松前藩では17世紀後半には対アイヌ交易は松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向きそこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。その商場に居住するアイヌ民族にとっては和人との交易が特定の知行主に限定される不自由な交易体制であった。この体制により交易レートは次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。このレートはシャクシャインの戦い前夜の1665年には松前藩の財政難から一方的に従来の米2斗(1俵=30kg)=干鮭100本から米7升(1俵=10.5kg)=干鮭100本と変更されアイヌ民族にとって極めて不利なものとなった。 このレートの上昇だが、全国的な飢饉が発生しており、まさに寛文年間がピークだった。蜂起が起こる二年前(寛文七年)、松前藩は米三千俵の拝借を言上している。また和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹待や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を切り開く行為、松前藩船の大網による鮭の大量捕獲がアイヌ民族の生業基盤を脅かし和人への不満が大きくなった。 もしアイヌが交易に応じなかった場合、「子供を質に取る」と脅していたことが、『津軽一統志』など、津軽藩士が聴き取り調査をしたところ、証言を得ている。シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に武器の提供を希望したが藩側に拒否されたうえ、サル(現日高振興局沙流郡)の首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせを、アイヌ人は「松前藩による毒殺」と流布した。この誤報によりアイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めた。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられる。対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となった。これが惣大将同士による天然資源の独占競争をもたらし、シャクシャインとオニビシの抗争の原因の一つともなった。また、不利なレートを嫌い、交易を拒否するアイヌに対し、和人が無理やり交易を強要する押買が横行しするなど、アイヌには和人への不満が広がっていた。 こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと移行した。1669年6月21日、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたった。シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたがシャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことや、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。9月5日には松前泰広が松前に到着、同月16日にクンヌイの部隊と合流し28日には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩と関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、幕府権力を背景に恫喝して恭順させアイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは結局この和睦に応じ11月16日、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。
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「平安京物語」46“刀伊の入寇”

2017-09-03 08:26:00 | 温故知新
「平安京物語」46“刀伊の入寇”(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てた物とされている。 15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되(そのまま「トイ」)として表れる。この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。
*日本沿岸での海賊行為頻発・9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。
*侵攻の主体・刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったことなどの情報を得た。
*日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族・「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる。13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている。
*刀伊の入寇までの北東アジア情勢・926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる。
しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている。
*対馬への襲撃・寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
*壱岐への襲撃・賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。
*筑前国怡土郡への襲撃・その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退された。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。
*高麗沿岸への襲撃・藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された。
*高麗との関係・上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。『小右記』では、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している。
日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。
*対馬の被害・有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した。
*壱岐の被害・壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された。さらに、女性は239人が連行された[3]。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった。
なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる。
記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。
*朝廷の対応・当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあってか、大宰府や朝廷は半信半疑であった。結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという[20]。この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは平将門の乱、藤原純友の乱(承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなった。ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされている。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされている。
*藤原隆家と九州武士団・藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。

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史跡巡り「弁慶の引き摺り鐘」当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作と

2017-09-03 08:21:16 | 温故知新
史跡巡り「弁慶の引き摺り鐘」当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。 良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、 また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。「園城寺古記」という戦国時代の記録には、文禄元年(1592)七月に鐘が鳴らなくなり 寺に何か悪いことが起るのではないかと恐れた僧侶たちは、 様々な祈祷をおこなったところ八月になってようやく音が出るようになりました。また建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、 これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、 まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されています。
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