「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「京都古社寺探訪」「宗像神社」京都府京都市上京区、

2017-09-02 07:50:07 | 温故知新
「京都古社寺探訪」「宗像神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社である。国史見在社で、旧社格は府社。宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命を主祭神に、倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀する。主祭神は『日本三代実録』に、筑前国の宗像神社(現宗像大社)と鎮座地を異にするが「同神」であると記されたり、「同神別社」であると記されている。配祀神の天岩戸開神も国史見在社(天石戸開神)を合祀したもので、『花山院家記』(『山城名勝志』所引)には合祀前の状況を「天石戸開神。大石也。霊有り」と伝えており、また倉稲魂神は藤原時平によって合祀されたと伝える。現在、御苑内の西南(裏鬼門)にあたる位置に鎮座するため、方除けの信仰を集めている。社伝によれば、延暦14年(795)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝えるが、当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられる。東京第は冬嗣の没後、東の花山院と西の小一条第に分けられたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せている[4]。小一条第は藤原内麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅であるが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで小一条第を買ってもらい、そこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためである。また、邸内の東北隅には天石戸開神も祀られていたようであるが、その由緒は不明である。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『江戸泰平の群像』18・渡辺 重綱/天正2年

2017-09-02 07:47:12 | 温故知新
『江戸泰平の群像』18・渡辺 重綱(わたなべ しげつな、天正2年(1574年) - 慶安元年10月1日(1648年11月15日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。尾張藩重臣、渡辺半蔵家第2当主。父は渡辺守綱。母は平岩親重の娘(平岩主計頭親吉妹)。正室は紀伊和歌山藩重臣水野左近大夫正重の娘。継室は杉浦忠右衛門七盛嗣の娘。子は渡辺小半蔵勝綱、渡辺忠蔵仲綱、旗本渡辺忠七郎忠綱、尾張藩家老渡辺飛騨守治綱、初代武蔵野本藩藩主渡辺丹後守吉綱、江戸南町奉行及び大目付を務めた旗本渡辺大隅守綱貞(三綱)、尾張藩重臣渡辺藤蔵長綱、石川伊賀守正光妻、松平三左衛門妻、稲葉右近正通妻。通称半蔵、忠右衛門。天正2年(1574年)三河国に生まれる。天正16年(1588年)徳川家康に出仕、小田原征伐、関ヶ原の戦いに出陣。慶長15年(1610年)父と共に家康の9男義直に付属せられ、大坂冬夏両陣では先鋒を務めた。元和6年(1620年)父・守綱の死去により、三河と近江の遺領を将軍秀忠より賜り、義直からも尾張に5000石の知行を賜る。後、同心の知行として7000石を加増される。寛永18年(1641年)執政(家老)となる。寛永20年(1643年)隠居して家督を四男治綱に譲り、隠居料として2000石を賜る。慶安元年(1648年)10月1日死去。享年75。長男勝綱は慶長15年(1610年)秀忠に仕え、大坂の陣に出陣、元和元年(1615年)父に先立って没した。次男仲綱は早世。三男忠綱は元和元年(1615年)秀忠に仕え、父より3000石の分与を受けるも、元和9年(1623年)父に先立って没した。五男吉綱は兄忠綱の名跡を継いで元和9年(1623年)秀忠に仕え、後に武蔵野本藩主となる。六男綱貞は徳川家光に仕えて従五位下大隅守に叙任、江戸南町奉行や大目付等を務めた。七男長綱は重綱の死後、その隠居料だった2000石を相続して尾張藩に仕えることになる。長綱は寛文八年(1668年)九月朔日に享年二十六歳で早世するが、長綱の長男基綱は大名渡辺家を相続して野本藩主及び和泉国伯太藩主となり、次男定綱は本家で尾張藩万石年寄の渡辺半蔵家を相続することになる。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『歴史の時々変遷』(全361回)278“伊達騒動

2017-09-02 07:45:54 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)278“伊達騒動”
「伊達騒動」江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧[1]であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩主池田光政、柳川藩主立花忠茂、宮津藩主京極高国[4]と相談の上、老中・酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。にもかかわらず綱宗の放蕩は止まず、ついに1660年(万治3年)7月9日に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。7月18日に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。なお、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる[5]。また、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士(母親同士が姉妹)であったために、仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説もある。一般に伊達騒動と呼ばれるのは、この寛文事件を指す。綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田宗輔もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重(涌谷伊達氏)と宗勝の甥にあたる伊達宗倫(登米伊達氏)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案[7]を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。寛文11年(1671)1月25日、柴田朝意は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望する。同年3月7日に伊達宗重、柴田と原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。同年3月27日に当初予定の板倉邸から大老酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われるが、その審問中の控え室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷した。聞役の蜂屋可広も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録があり、伝聞としては伊達宗重家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『徳川実紀』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また歌舞伎『伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となった。派閥は以下のとおり。役職は「仙台市史」より抜粋。反伊達宗勝派(柴田、古内、片倉、茂庭が宗重の国目付差出を一度妨害したり、古内と柴田が伊東重孝の死刑を上申したりしているので確固たる派閥とは言い難い)伊達安芸宗重(一門、反奥山派→反宗勝派)柴田外記朝意(奉行、宗勝から奥山派とされた)古内志摩義如(奉行、宗勝から奥山派とされた)茂庭周防良元(若年寄兼評定役)片倉小十郎景長、里見十左衛門重勝(小姓頭、旧反奥山派)伊東七十郎重孝、蜂屋(谷)六郎左衛門可広(聞役)、田村顕住(出入司、渡辺と原田から宗重派とされた)、主な伊達宗勝派、伊達兵部少輔宗勝(一門大名、後見役。当初は田村宗良同様に奉行の案を追認するだけであったが、後に実権を掌握)、奥山大学常辰、原田甲斐宗輔、津田玄蕃景康(若年寄兼評定役)、高泉長門兼康(江戸番頭)志賀右衛門由清(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる)浜田一郎兵衛重次(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる)今村善太夫安長(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人。寵臣の中心人物)横山弥次郎右衛門元時(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人)早川淡路永義・渡辺金兵衛義俊(目付→小姓頭。寵臣の中心人物)寛文事件が落着した後、藩主としての権力を強めようとした綱村は、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は綱村に諌言書を提出したが、聞き入れられなかった。このため1697年(元禄10年)、一門7名と奉行5名の計12名の連名で、幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みた。これに対し、伊達家親族の高田藩主稲葉正往は隠居願いを差し止めた。その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続いた。1703年(元禄16年)、この内紛が5代将軍徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。このため老中の稲葉正往は綱村に状況を説明し、隠居を勧告した。これに促され、綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、綱村には実子が無かったため従弟の伊達吉村が5代藩主となった。伊達騒動は綱村の隠居でようやく終止符が打たれることになった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「平安京物語」45”「源氏物語」の紫式部“

2017-09-02 07:42:24 | 温故知新
「平安京物語」45”「源氏物語」の紫式部“(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在する)ほか、姉がいたこともわかっている。三条右大臣・藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曾祖父で一族には文辞を以って聞こえた人が多い。幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝わっている。
父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。
長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく長保3年4月15日(1001年5月10日)宣孝と死別した。
寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。
なおこれに先立ち、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。源氏物語の解説書である「河海抄」や「紫明抄」、歴史書の「今鏡」には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。それらは伝承の類であり信憑性には乏しいが、他にも紫式部日記からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時為時は失職しており家庭基盤が不安定であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
現在、日本銀行D銀行券 2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。
紫式部の本名は不明であるが、女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と同母の兄弟惟規の官位によるとする説とがある。
現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「紫」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無くこのような名前で呼ばれるようになった理由についてはさまざまに推測されているが、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
婚姻関係、紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている[14]。
『尊卑分脈』において紫式部が藤原道長妾であるとの記述がある(後述)ことは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であった。しかしこれは『紫式部日記』にある「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」といった記述が存在することを根拠として「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」とした『尊卑分脈』よりずっと後になって成立した観念的な主張に影響された判断であり、一度式部が道長からの誘いを断った記述が存在し、たとえそのこと自体が事実だとしても、最後まで誘いを断り続けたのかどうかは日記の記述からは不明であり、また当時の婚姻制度や家族制度から見て式部が道長の妾になったとしても法的にも道徳的にも問題があるわけではないのだから、尊卑分脈の記述を否定するにはもっときちんとしたそれなりの根拠が必要であり、この尊卑分脈の記述はもっと真剣に検討されるべきであるとする主張もある。
○生没年・当時の受領階級の女性一般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため紫式部の生没年についてはさまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており定説が無い状態である。
生年については両親が婚姻関係になったのが父の為時が初めて国司となって播磨の国へ赴く直前と考えられることからそれ以降であり、かつ同母の姉がいることからそこからある程度経過した時期であろうとはみられるものの、同母の兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるのかも不明であり、以下のようなさまざまな説が混在する。また、没年についても、紫式部と思われる「為時女なる女房」の記述が何度か現れる藤原実資の日記『小右記』において、長和2年5月25日(1014年6月25日)の条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部について残された明確な記録のうち最後のものであるとする認識が有力なものであったが、これについても異論が存在し、これ以後の明確な記録がないこともあって、以下のようなさまざまな説が存在している。1014年(長和3年)2月の没とす。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音二十七番札所・石切神社境内

2017-09-02 07:35:46 | 温故知新
「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音二十七番札所・石切神社境内裏より西、近鉄けいはんな線、新石切駅から徒歩十分くらいのところに観音寺はあります。水走氏別当の地だったという付近一帯、昔は田んぼとあぜ道ばかりだったそうですが、寺の歴史は古く、かつて聖徳太子によって建立されたのが、後年兵火により焼失。鎌倉時代中期に、観音寺として再建されたと記されています。石切神社の近くで、薬草類も多く、医療施設のような役割を担っていた時代もあるとか。その後も幾度か無住寺の期間を経て、今日に至っているということです。十三重塔の他、開祖元興上人の墓と伝えられる石塔があります。本堂の元興和尚の一刀彫と伝えられる千手観音は本体十五センチ程の小さな観音像で、本尊、阿弥陀三尊の横に、三十三体観世音菩薩と一緒に祀られています。元興上人の石、こぢんまりとした境内に入って、先ず目を惹くのが、永仁二年(一二九四)の銘が刻まれた十三重石塔。鎌倉時代の優れた建造物のひとつと評され、現在屋根は十一枚ですが、もともと十三重塔であったのが欠落したものと考えられています。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加