「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『河内史跡巡り』鴨高田神社・近鉄永和駅下車北側に鴨高田神社・当社は鴨(賀茂)氏の一族が

2016-11-10 04:35:48 | 河内史跡巡り
『河内史跡巡り』鴨高田神社・近鉄永和駅下車北側に鴨高田神社・当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。 1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。  隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建である。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」長栄寺・河内西国観音三十三番札所・聖徳太子の開基と伝えられていますが、後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者

2016-11-09 04:42:17 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」長栄寺・河内西国観音三十三番札所・聖徳太子の開基と伝えられていますが、後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者が中興。ここで弟子たちと修行し、正法律(真言律)の復興を唱え、その道場としました。享保三年(一七一八)大坂中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた慈雲は、大阪南田辺の名刹真言宗法楽寺で得度。のち、二十七歳でこの長栄寺へ来たということです。以後高貴寺とともに正法律の一派として幕府に認可され、広められることになります。慈雲は宗派にとらわれず、それまで漢訳仏典でこと足れりとしてきた日本の仏教界を批判しました。梵学(サンスクリット学)をもきわめた彼はその後有馬、長尾の滝、京都、河内高貴寺などに転住しますが、この寺へはよく立ち寄り、大阪における説法は常に長栄寺でおこなわれました。尚、昭和二十一年より当寺は、新真言宗の寺となっています。永和駅より徒歩二〇〇メートル、鴨高田神社のすぐ北隣にあります。境内の庭園は四季折々の花で美しく彩られますが、とりわけ梅と桜が見事です。歴史を感じさせる風格のある広い境内ですが、戦後の改革で縮小されるまでは、今よりはるかに広大な地所を所有していました。この付近にはかつての寺院の威光の名残としての地名が、いたるところに点在しています。たとえば長堂という地名は、長栄寺のお堂があったことに由来するものだとか。また百済山という山号は、仏教伝来時この地域を中心に百済系渡来僧によってとくに教化されたことによるともいわれています。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」長栄寺・河内西国観音三十三番札所・聖徳太子の開基と伝えられていますが、後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者

2016-11-09 04:42:17 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」長栄寺・河内西国観音三十三番札所・聖徳太子の開基と伝えられていますが、後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者が中興。ここで弟子たちと修行し、正法律(真言律)の復興を唱え、その道場としました。享保三年(一七一八)大坂中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた慈雲は、大阪南田辺の名刹真言宗法楽寺で得度。のち、二十七歳でこの長栄寺へ来たということです。以後高貴寺とともに正法律の一派として幕府に認可され、広められることになります。慈雲は宗派にとらわれず、それまで漢訳仏典でこと足れりとしてきた日本の仏教界を批判しました。梵学(サンスクリット学)をもきわめた彼はその後有馬、長尾の滝、京都、河内高貴寺などに転住しますが、この寺へはよく立ち寄り、大阪における説法は常に長栄寺でおこなわれました。尚、昭和二十一年より当寺は、新真言宗の寺となっています。永和駅より徒歩二〇〇メートル、鴨高田神社のすぐ北隣にあります。境内の庭園は四季折々の花で美しく彩られますが、とりわけ梅と桜が見事です。歴史を感じさせる風格のある広い境内ですが、戦後の改革で縮小されるまでは、今よりはるかに広大な地所を所有していました。この付近にはかつての寺院の威光の名残としての地名が、いたるところに点在しています。たとえば長堂という地名は、長栄寺のお堂があったことに由来するものだとか。また百済山という山号は、仏教伝来時この地域を中心に百済系渡来僧によってとくに教化されたことによるともいわれています。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」「念佛寺」・河内西国観音二番札所・平野の大念佛寺の末寺で、一三四一年念佛寺として僧盤龍上人

2016-11-08 04:21:44 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」「念佛寺」・河内西国観音二番札所・平野の大念佛寺の末寺で、一三四一年念佛寺として僧盤龍上人によって創建されました。もともと久宝寺の末院であったというこの寺には、鎌倉時代末頃の作といわれる十一面観音菩薩がありますが、これは許麻神社の宮寺であった観音院の本尊として祀られていたものです。本堂となりには滝谷不動の流れをくむ不動堂があり眼病平癒の霊像として信仰されています。久宝寺寺内町のほぼ中央に位置し、向かいには八尾市まちなみセンターがあります★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」大林寺・河内西国観音五番札所・布忍駅から歩いてすぐ、かつて七堂伽藍

2016-11-07 04:25:03 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」大林寺・河内西国観音五番札所・布忍駅から歩いてすぐ、かつて七堂伽藍の広大な寺院であった永興寺の跡と伝えられる地域から、川を隔てたところに融通念佛宗の寺、大林寺があります。そこには平安後期の作といわれる木造十一面観音立像、室町時代の木造不動明王座像、江戸時代宝永~正徳にかけての肉筆による大般若経六百巻、江戸時代中期の十一面観音の版木などなど…永興寺の隆盛の名残ともいうべき、貴重な遺物、資料が残されています。永興寺は、奈良時代の僧永興律師によって草創され、布忍寺と名付けられたとされています。のち弘安年間(1278年~87年)に中興され、草創の永興律師にちなんで永興寺と呼ばれるようになったと伝えられています。その後も元禄三年(1690年)に再興され、幾度か衰退と復興をくり返しながら、明治六年ついに廃仏毀釈の動きの中で廃寺となるに至りました。その後本堂が、現存する唯一の建造物として柏原市法善寺の壺井寺に移築され、本尊とみられる十一面観音立像等いくつかの所蔵品がこの大林寺に移されたのである。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」壺井寺・河内西国観音七番札所・平安時代法禅寺という立派な寺院が建立されていたのが、兵乱のため堂塔すべてを焼失

2016-11-06 04:24:49 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」壺井寺・河内西国観音七番札所・平安時代法禅寺という立派な寺院が建立されていたのが、兵乱のため堂塔すべてを焼失、その後に再建されたのがこの壺井寺です。いまの本堂は明治二十年に再建されたのですが、これは、布忍の大林寺近くにあった永興寺の建物が当寺に運ばれ、そのまま移築されたものと伝えられています。永興寺はもとの名を布忍寺といい、七堂伽藍の大寺だったのですが、兵火にかかるなどして衰退、明治六年に廃寺となりました。現在、壺井寺本堂は、その永興寺の名残をとどめる建造物としては唯一のものです。また本堂としては珍しく寄せ棟造りで、そのことからもともとは観音堂であったと考えられています。さらにその中にかつて祀られていたのが、いま大林寺に安置されている十一面観音像だということです。当寺にはまた、避雷観音と称される本体一九・九センチの小さな聖観世音菩薩立像が、白鳳時代の貴重な銅像として、本堂の厨子に大切に祀られています。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音九番札所・天冠山智識寺中門観音寺、 略して観音寺は、

2016-11-03 05:21:12 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音九番札所・天冠山智識寺中門観音寺、 略して観音寺は、柏原太平寺集落の 東側山手にあって、もと「河内 六大寺」の一つである智識寺の一 堂宇、観音堂のなごりといわれ ています。河内六大寺とは智識 寺のほか、山下、大里、三宅、家 原、鳥坂の合わせて六つの大寺 院が、いずれも奈良時代、河内 国大県郡内の山麓沿いに堂塔 をきそうように建ち並んでいた と考えられるものです。河内の 仏教文化の華がここに咲いてい る―まことに壮観であったと想 像されます。柏原の地が難波か ら平城への交通の要衝にあり、一 泊休憩する場所であったことも 重要な意味をもつと考えられ ます。天平十二年(七四〇)に聖武 天皇は難波への行幸の折、智識 寺に安置されていた丈六(一丈六尺)の盧舎那大仏を参拝し、当 時日本最大の大仏に感動、深 く印象づけられます。このこと が機縁で天平十五年(七四三) 十月に東大寺大仏の造立を発 願されることになったと伝えら れています。智識寺はもと七堂 伽藍をそなえた大寺院で、西塔・ 東塔のある薬師寺式の伽藍配 置であったと考 えられていますが、 平安時代の応徳三年(一〇八六) 落雷のために倒壊、再建されな いで今日に至っています。柏原市 大字太平寺二丁目付近が寺跡 と推定されるところ。現在東搭 の心礎は、近くの石神社の境内 に残されていて、自由に見学す ることができます。この東搭心 礎の柱穴の直径は、約一・二メー トルもあり、このことから智識 寺の搭は、高さが五十メートル はあったと推定されます。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」法蔵寺・河内西国観音十七番札所・寛延元年(一七四八)土佐の長曽我部氏の子孫である好山和尚によって曹洞宗の寺

2016-10-22 04:33:35 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」法蔵寺・河内西国観音十七番札所・寛延元年(一七四八)土佐の長曽我部氏の子孫である好山和尚によって曹洞宗の寺として開山されました。本堂前の「大覚山」の扁額は好山和尚の筆によるものです。この地はかつて聖徳太子が物部守屋との戦いで砦を築き再起をはかった陣屋跡と伝えられ、その名残で法蔵寺への道は今も大道と呼ばれています。境内地にはふしぎな縁起をもつ水脈、神霊泉が湧き、八尾の豪族の墓碑群があります。またこの一帯では古代の古墳群が数多く発見されています。境内の東上には開山僧好山和尚の廟塔である清涼塔を中心に歴代和尚の墓が並んでいます。その下に開山塚と呼ばれる古代の円墳がありますが、これは巨大な石を使って築かれた貴重な遺跡。横穴石室は中に三十人入れるそうです。すぐ近くに弘法大師作と伝えられる石像観世音菩薩の祀られたお堂があります。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる
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「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音十九番札所・岩田 観音寺は宝暦五年(西暦一七五五年)、この地の人で、慈雲尊者に深く帰依

2016-10-20 04:32:47 | 河内史跡巡り

「河内史跡巡り」観音寺・河内西国観音十九番札所・岩田 観音寺は宝暦五年(西暦一七五五年)、この地の人で、慈雲尊者に深く帰依した高峰智興大尼が開基。正法律根本道場として弟子の教化につとめたと伝えられています。また慈雲尊者が河内巡回の折、よく当寺に立ち寄ったということです。その時書かれた梵字が尊者の足跡として瓦などにのこされており、その一つを本堂屋根の鬼瓦に見ることができます。六方石を枠にはめ、建てられたという山門の扁額も尊者の書によるものです。尚、本尊の十一面観世音菩薩像は弘法大師作と伝えられています※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」玄清寺・河内西国観音二十三番札所・額田駅

2016-10-19 04:23:36 | 河内史跡巡り

「河内史跡巡り」玄清寺・河内西国観音二十三番札所・額田駅から緩やかな坂道を下って行くと、大きなシュロの木があるお寺が見えてきます。山門を入ると、中央に本堂と庫裡、向かって左側に観音堂、右側に鐘楼が建っています。ここ玄清寺は浄土宗の大寺で、慶長二年(一五九七)額田村の高内正定氏が聖誉上人を招いて開いたといわれています。正定氏は浄翁玄清居士と称したので、浄翁山玄清寺と称するようになりました。延宝年間(一六七三?八〇)教誉上人が当寺を中興し、第十世寂誉上人の時、享保二年(一七一七)三月に檀頭の高内氏首性一家が施主となって本堂が上棟されました。この時の棟札は大工頭梁、藤原正氏の子孫である藤田貞三氏が所蔵されています。現在の本堂は昭和四十六年、第二十九世清誉上人の時に建立されたものです。平成九年、開基四百年を迎えた玄清寺は第三十世芳誉上人の晋山式に加え、木造二階建ての庫裡を新築。本尊は阿弥陀如来坐像(像高九二センチ)で、木彫漆箔、来迎印を結び、舟形光千体仏を配し天蓋を垂れています。本尊右には浄土宗の基となる教えを説いた善導大師像、浄土宗開祖法然上人像を安置し、別に高内正定氏の木像もあります。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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>「河内史跡巡り」常楽寺・河内西国観音二十五番札所・昔大和川支流、郡川の里辺にある観音は霊験あらたかで、俗に川辺観音と称し、

2016-10-17 04:18:02 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」常楽寺・河内西国観音二十五番札所・昔大和川支流、郡川の里辺にある観音は霊験あらたかで、俗に川辺観音と称し、近郷の人々に崇拝されていました。 この十一面観音は御本尊阿弥陀如来の前立として安置されています。 それからずっと時代が下って、南北朝時代より念佛聖の道場となり、江戸時代元禄二年(一六八九)には本堂が再建されました。のち、秀伝和尚の時、融通念佛宗となり今日に至っています。寺内には、十一面観世音菩薩、木造の釈迦牟尼世尊・文珠普賢大菩薩・十六羅漢像が安置され、融通大念仏縁起・一巻、大きな釈迦涅槃之図(縦二四〇cm、横一六〇cm)一幅、大般若経六百巻などが所蔵されています。激動する歴史の潮流に翻弄され、無住の時代を経て来たため、失われたものも少なくないと聞きます。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」野中寺・大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の仏教寺院。別称は中之太子。山号は青龍山。本尊は薬師如来

2016-10-11 04:28:38 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」野中寺・大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の仏教寺院。別称は中之太子。山号は青龍山。本尊は薬師如来。創建は飛鳥時代。伝承では聖徳太子建立48寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされる。また「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「中之太子」と呼ばれている。境内に残る礎石から、飛鳥時代~奈良時代前半には大規模な伽藍が存在したことは明らかで、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説もある。創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しているが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など法隆寺式伽藍配置を示す礎石を存留しており、「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定されている。中世までの沿革はあまり明らかでなく、一時期は廃寺に近い状況だったと見られる。現在の本堂は江戸時代初期の寛永~寛文年間(1624年-1673年)に、江戸時代には律宗の勧学院として、和泉神鳳寺(大鳥大社境内にかつて存在した)、槇尾西明寺とともに律院三大僧坊として栄えた。 明治時代中期に現在の宗派である高野山真言宗に転じている。大正7年(1918)に寺内の蔵から発見された像。毎月18日に開帳される。像高18.5cm。頭部が大きく、ウエストを絞ったプロポーションは、飛鳥時代~奈良時代の金銅仏によく見られるものである。頭部には大ぶりの三面頭飾を付け、裳や台座などの各所にはタガネで文様を刻んだ入念な作である。左脚を踏み下げ、右手を頬に当てて思惟の想を示すポーズはこの種半跏思惟像の通例であるが、右手の掌を正面に向ける点が珍しい。表情からは飛鳥時代の仏像にみられた「古拙の微笑」が消えている。本像台座の框(かまち)部分には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」(以上の読みには異説もある)という銘文が1行2字・31行(62字)に陰刻され、本像が丙寅年の四月に「中宮天皇」が病気になったとき「栢寺」の知識(信徒)らが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。丙寅年は西暦666年に当たる。この種の半跏思惟像は像名不明のものが多いが、本像は銘文中に「弥勒」と明記されており、制作年代の明らかな弥勒像の基準作として重要である。銘文にある「中宮天皇」については「天智説」「斉明説」「間人皇后説」などがあるが、定説をみない。「栢寺」についてもどの寺院に該当するかは定説がなく、「栢」の旁は「百」とは字形が違うという見解もある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に、

2016-10-09 04:27:52 | 河内史跡巡り

「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に、北へ緩やかな坂道を一キロほど下ると、田畑越しに雄大な大龍寺の屋根が見えてきます。生駒山系の中腹に位置し、黄檗山万福寺末寺としての伽藍配置と様式をよくとどめていることから、仏殿、斎堂、総門、開山堂は東大阪市の文化財に指定されています。季節の花々が美しく、深い緑を背景にした唐様建築、黄檗様式の風格ある建物が印象的。そして禅寺ならではの鳴り物―諸事の合図に鳴らされる「魚邦」と、雲の形をしていることから「雲版」と呼ばれるものが目を惹きます。魚邦は主に食事の合図に鳴らされ、斎堂に掛かっているもの。雲版は儀式、法要に用いられ、本来本堂にあるものだそうです。俗に「日下のかんのん」として崇拝されてきた十一面観音は、仏殿の本尊脇に安置されています。大龍寺は元禄四年(一六九二)大阪の豪商天王寺屋吉兵衛の寄進により建立され、泰宗元雄禅師がその師である慧極道明禅師を開祖に招き、開山しました。開山堂には、泰宗、慧極と檀越の天王寺屋浄悦居士の像が祀られています。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」菩提寺・河内西国観音二十九番札所・バス停、善根寺から徒歩十分。もとの寺号を善根寺といい、善根寺村

2016-10-08 04:18:10 | 河内史跡巡り

「河内史跡巡り」菩提寺・河内西国観音二十九番札所・バス停、善根寺から徒歩十分。もとの寺号を善根寺といい、善根寺村の地名のもととなった菩提寺。聖徳太子が祈願されたということですが、創立年代は不明。今の本堂は享保年間、一七二八年に建て替えられたもので、大龍寺や長栄寺と共に、東大阪市の重要な歴史的建造物です。香木の伽羅から彫られた十一面観音は、本尊脇に祀られています。本体一寸八分という小さな像ですが、そのダイナミックな構図が素晴らしく、ぜひ間近に拝観させて頂きましょう。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてく
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河内史跡巡り」観音禅寺・河内西国札所・所在地:東大阪市稲田本町3丁目1394年(応永元年)臨済宗妙心寺二世授翁宗弼が建立の大伽藍

2016-10-06 04:26:40 | 河内史跡巡り
「河内史跡巡り」観音禅寺・河内西国札所・所在地:東大阪市稲田本町3丁目
最寄駅:JR学研都市線「徳庵」下車南へ、線路と平行の道を
当山は、1394年(応永元年)臨済宗妙心寺二世授翁宗弼が建立の大伽藍であったが、兵火に遭い灰燼に帰した。
 のち大松の根元の土中より三尺八寸の聖観音出現し、1429年(永享元年)より四辻に御堂を設けていたが、1648年(慶安元年)播州三木城主であった鈴木三郎九郎重成を大施主に再興した、実兄の石平道人(鈴木正三)を開基とする。
 以来女人祈願多く、特に安産に霊験著しく、美濃岩村城主丹羽式部少輔氏定公の妻が当観音に祈願し、男児を得た欣びで報恩の為、唐金の寝釈迦像・涅槃図と梵鐘を寄進、境内に桃の木千数百本を植樹した。
 参拝した当日は幸いにも、この寝釈迦像と涅槃図が特別公開されており、拝観することが出来
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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