「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『浪速史跡めぐり』教育塔・昭和九年西日本を中心に高知県は室戸岬に上陸した室戸台風は、大阪、神戸の間に再上陸、被害は死者二七〇二人、不明者三三四人

2016-12-19 04:34:42 | 浪速今昔百景
『浪速史跡めぐり』教育塔・昭和九年西日本を中心に高知県は室戸岬に上陸した室戸台風は、大阪、神戸の間に再上陸、被害は死者二七〇二人、不明者三三四人と関西に大被害をもたらした。枕崎台風、伊勢湾台風と三大台風に数えられ、そのうち戦前で最大の台風だった。四Mと言う高潮が発生し千九百人の人々が溺死した。その高潮は大阪城辺りまで灌水したと言う。瞬間最大風速60Mと言う暴風で神社や寺院は倒壊したが中でも各学校は比較的大きな建物であったために甚大な被害をもたらした。しかも午前8時前後の登校時に強風が直撃し木造校舎が一瞬に倒壊し中に居た児童や職員、迎えに来た保護者など多くの犠牲者を出した。小学校内での死者は職員七名、使丁二名、児童二五一名、保護者七名合計二六七名を出した。負傷者に至っては一五七一名を上回った。大阪城に台風による犠牲者の慰霊の為に一九三六年に立てられたものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『浪速史跡めぐり』天王寺塔頭・英霊堂・当堂は明治39年(1906)聖徳太子のご遺徳を奉賛する頌徳鐘楼として建立され

2016-12-08 04:49:33 | 浪速今昔百景
『浪速史跡めぐり』天王寺塔頭・英霊堂・当堂は明治39年(1906)聖徳太子のご遺徳を奉賛する頌徳鐘楼として建立され、重量4万2千貫の世界一の大梵鐘が作られたが、その大梵鐘は第二次世界大戦の中供出された。戦後平和の祈りとして、国の為に我が身を捧げられた英霊を祀るお堂として、英霊堂と改名されて建立された。ご本尊は比叡山西塔黒谷よりもたらされた阿弥陀如来像で、左右に持国天、増長天お祀りをしている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪花今昔百景」興徳寺・

2016-07-27 04:21:02 | 浪速今昔百景


「浪花今昔百景」興徳寺・JR玉造駅から西へ、真田山の上町台地の丘陵の一角に寺院の多い中古風なたたずまい山門をくぐると、本堂の前にはきれいに整備された庭園に植木に木々が多い繁り大きな鯉ゆったりと泳いでいる。都会の雑踏の道を少し隔てただけで静寂があるものだ。創建が聖徳太子といわれ、法円坂の「薬師院」として創建されたが、その後行基菩薩によって再建された機内四十九ケ寺の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻みこれを本尊とした。この辺りの寺は大坂夏の陣に戦火に会い、夏の陣以後、松平忠明が大坂の町の発展と城の防衛線の再整備のために、市内に分散されていた寺院を、小橋村、天満村、東西高津村の三カ所に集め、小橋村に寺号を「興徳寺」と改められて再建されたと言う。戦前までは大阪市内のお大師参りで賑わいを見せていたが、その後太平洋戦争で本堂を焼失し空襲で山門以外諸堂を焼失した。現在の堂塔は、檀家の浄財で今日の堂塔になったそうである。境内には北に大きな金銅の観音立像が祀られ、所狭しと諸仏がお堂に安置されている。
・JR玉造駅から西へ、真田山の上町台地の丘陵の一角に寺院の多い中古風なたたずまい山門をくぐると、本堂の前にはきれいに整備された庭園に植木に木々が多い繁り大きな鯉ゆったりと泳いでいる。都会の雑踏の道を少し隔てただけで静寂があるものだ。創建が聖徳太子といわれ、法円坂の「薬師院」として創建されたが、その後行基菩薩によって再建された機内四十九ケ寺の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻みこれを本尊とした。この辺りの寺は大坂夏の陣に戦火に会い、夏の陣以後、松平忠明が大坂の町の発展と城の防衛線の再整備のために、市内に分散されていた寺院を、小橋村、天満村、東西高津村の三カ所に集め、小橋村に寺号を「興徳寺」と改められて再建されたと言う。戦前までは大阪市内のお大師参りで賑わいを見せていたが、その後太平洋戦争で本堂を焼失し空襲で山門以外諸堂を焼失した。現在の堂塔は、檀家の浄財で今日の堂塔になったそうである。境内には北に大きな金銅の観音立像が祀られ、所狭しと諸仏がお堂に安置されている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」和光寺(あみだ池)・

2016-07-25 04:30:52 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」和光寺(あみだ池)・善光寺の本尊の阿弥陀仏はこの寺の「あみだ池」から端を発したと言う伝説の地が「和光寺」である。善光寺の本尊一光三尊の阿弥陀仏は欽明天皇の時代に百済より日本に、その後承久三年(一二二一)善光寺の僧ならびに伊豆の浄蓮上人のお告げがあり、本田善光がこの寺の一隅より阿弥陀如来をお救いになり、信州にお連れした縁による、特別の地だった。元禄時代堀江新地の開発の際、幕府の命により境内千八百坪を永代寺地に定められた。智善上人が信州信濃の善光寺本尊出現の霊地として寺堂を建立し、「蓮池山智善院和光寺」と称された。本尊出現の地として広大な境内には寄席、芝居、見世物小屋が常設されて賑わいを見せ、富くじや植木市も有名であったようである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」四天王寺、逢坂清水と融通地蔵

2016-07-24 04:37:46 | 浪速今昔百景

「浪速今昔百景」四天王寺、逢坂清水と融通地蔵・この井戸と融通地蔵は逢坂清水の井戸と呼ばれもともと一心寺の門前西、逢坂の途中にあったが、明治の末の電車通りが開かれて道路工事拡張の為に融通地蔵と一緒に四天王寺地蔵山に移された。『摂津名所図会』に記述がある。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」一心寺・ 

2016-07-23 04:34:47 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」一心寺・ 浄土宗別格本山 本尊阿弥陀如来 法然上人二十五霊場七番札所・大阪市天王寺区逢坂二の八の六十九 JR天王寺、地下鉄天王寺駅下車十分
都心にあって、交通の良く大阪の人にとり天王寺と一対に参ることが多い。
天王寺と同じく、お盆、彼岸には天王寺と一緒に御参りをするそんな習わしが何時の時代からか。当たり前になっている。「お骨仏の寺」として宗派を超えて「納骨」をする、一般常識を超えた大阪人の常識である。
大きな伽藍が立ち並ぶが建物は比較的新しいが、古い建物は戦災で焼失した。創建は寿永四年(1185)法然上人が四天王寺の西門に辺りで四間四方の庵を結び「日想観」の修行をしたのが始まりと言う。
現在の境内は、秀吉の夫人高台院から受領したもの、その後大阪夏の陣で主戦場になり三千人の供養の塚を造ったと言う。その後この地に堂塔を建立され供養された。第二次世界大戦で全て焼失したが、戦後の再建で、本堂、念仏堂、日想殿、開山堂と次々建立されていった。その他境内には、本多出雲守の五メートルの「おばけとうろう」に八代目市川団十郎の碑や、竹本隅太夫の墓など大阪の芸能人などの墓五千余りあり、また納骨で造った「阿弥陀仏」は江戸末より始められ、十年に一体造られる。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」四ツ橋・

2016-07-22 04:12:28 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四ツ橋・大阪市はビジネス街は交通の要所は四ツ橋であるが、昔は四方に橋があって観月や夕涼みの名所として知られていた。西横堀川と長堀川は交差する要所に、炭屋橋、吉野屋橋、上繋橋、下繋橋の架かっていることに由来し、水戸黄門が関西漫遊の時に、四ツ橋上で涼みながら、家々が開けっ放しに無用心だと話をしていると、そばにいた町奉行が夜盗と間違われてつかまったと言う伝説があるが、水戸黄門は城内から出たことがないと言うのは定説、大塩親子が逃亡の時、刀を橋の下に置いたと言うのは如何にも大阪の大事件を物語る。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」四ツ橋・

2016-07-22 04:12:28 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四ツ橋・大阪市はビジネス街は交通の要所は四ツ橋であるが、昔は四方に橋があって観月や夕涼みの名所として知られていた。西横堀川と長堀川は交差する要所に、炭屋橋、吉野屋橋、上繋橋、下繋橋の架かっていることに由来し、水戸黄門が関西漫遊の時に、四ツ橋上で涼みながら、家々が開けっ放しに無用心だと話をしていると、そばにいた町奉行が夜盗と間違われてつかまったと言う伝説があるが、水戸黄門は城内から出たことがないと言うのは定説、大塩親子が逃亡の時、刀を橋の下に置いたと言うのは如何にも大阪の大事件を物語る。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」近松門左衛門の墓・

2016-07-20 04:10:21 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」近松門左衛門の墓・大阪は上町台地、谷町筋に面した所に、古き浪速の文豪、元禄の文楽や浄瑠璃で有名な近松門左衛門(国史跡)のはがある。周りは近代的マンショと近代鉄筋の寺院が並び少し細い路地の中、この墓はこの地の寺院の中にあったが、戦後、谷町筋の拡張に伴い妙法寺(日蓮宗)は移転、大東市に移った。国史跡は動かされずにこの地に残された。近松門左衛門は、竹本座の竹本義太夫と共に語り物の浄瑠璃戯曲者であったが、晩年は座付きの作者として「国性爺合戦」「心中天編島」「曽根崎心中」などの多くの作品を残している。   

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪花今昔百景」旧陸軍第四師団司令部庁舎・

2016-07-19 04:14:26 | 浪速今昔百景
「浪花今昔百景」旧陸軍第四師団司令部庁舎・大阪の鎮台として歴史は古く、創建間もない頃、佐賀の乱、萩の乱、聖何の役とに従事した。大阪は商人の町、その商人の割合の多い大阪連隊は、切り込んでくる薩摩武士を相手に損害を出すが奮戦し、明治天皇より直々にその勇敢、勇戦さを賞された。日清戦争には遼東半島に上陸し警備に当たった。日露戦争には小川師団長の元、参戦し、太平洋戦争ではフィリッピン攻略に参加し、タイ、ビルマと転戦し終戦を迎えた。司令部は1931年の天守閣が再建と同時に、城内に分散していた司令部を集約一括し建設されたのが現在の残された建物である。これを機に一般民間の立ち入りが許されて公園と整備された。大坂城再建のために大阪市民から寄付が集められ、その一部80万円が寄付されて司令部本庁舎が完成した。戦後は進駐軍が接取し、大阪市警視庁(当時は大阪にも警視庁が置かれていた)、大阪府警本部として使用、その後大阪府警察本部が大手通りに移転し、大阪歴史博物館として移転した。その後大阪歴史博物館も移転し、今は戦争遺跡として残っている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」木村蒹葭堂邸跡の碑

2016-07-18 04:18:56 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」木村蒹葭堂邸跡の碑・地下鉄は長堀駅から南、大阪市立中央図書館南東角に木村蒹葭堂邸跡の碑が建っている。木村蒹葭堂は堀江の裕福な酒造家に生まれ、幼い頃から好学多芸で、十一歳で片山北海に漢学を学び後に混沌誌社に加わった。絵は狩野派の大岡春卜と池大雅に学び、小野蘭山に学んだ本草学(博物学)に精通し、オランダ語の得意であったと言われている。博識家と言えば木村蒹葭堂と言われるほど大阪随一の町人学者と言われた。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」松虫塚・

2016-07-17 05:01:36 | 浪速今昔百景
<f「浪速今昔百景」松虫塚・天王寺から阿倍野筋を南へ松虫通り、大阪で唯一路面電車に乗り、松虫駅を降り南に行くと松虫塚がある、この辺りは浪速からont size="4">熊野にかけての熊野街道であった。古い塚と祠のような雰囲気、後ろに大きな木々、石碑には松虫塚には色んな伝説があって、昔この辺り鈴虫、松虫の名所だったらしい所から、また七不思議の神木から、琴謡曲や、舞楽など芸能一般の名度、技術者まで習い事の成就する崇拝されてきた塚だったらしいが、もう一つの伝説が樹齢800年と言う古木には次のような伝説があった。後鳥羽上皇に仕えた鈴虫と、松虫の女官は、法然の念仏に発心し、法然が土佐に流される時に嘆き悲しんだ松虫が庵を造り、隠棲した所が松虫塚であるという伝説である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」了徳院(福島聖天)・

2016-07-15 04:29:16 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」了徳院(福島聖天)・JR福島駅より北西に行くと町中に、「福島聖天」の幟の旗が目に付く、境内は門が変形しいて入り口に向かって堂塔が祀られていて本堂には本尊は珍しいの准胝観音菩薩、創建は定かではないが、洪水のために流失し、元文元年(一七三六)に高野山の善集院より宥意上人が再建したと伝えられ、この寺の由来を見れば、浪速の豪商高田屋嘉兵衛、易学の大家、水野南北はこの寺の歓喜聖天を暑く信仰していたという。また俳人の松尾芭蕉もこの寺を訪れて「かきつばた」の美しく咲けることを述べている。「杜若 語るも 旅の一つ哉」と言う句の境内の弁天池に遺されている。そして歓喜天は古来伏見宮家の祈願所として「桔梗に十六枚匊花」許し賜っている。江戸時代から昭和の戦災まで浪速の一名所として賑わいを見せ線香の絶え間なかった。戦後焼失し衰退したが、信心深い商人や人々の願で堂塔が再建され、山門、鐘楼、聖天堂、観音堂、不動堂、地蔵堂、稲荷堂、絵馬堂など次々再建されていった。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」天下茶屋・

2016-07-14 04:19:20 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」天下茶屋・南海高野線は岸里玉出駅より直ぐ東に「天下茶屋」がある。こんもりとした太閤秀吉の祠を包むように楠の大木に石碑と由来の看板がある。説明によれば400年前の昔、大坂城から住吉大社参拝の時に、途中立ち寄って茶の湯を楽しんだことで有名、天下茶屋跡の一角である。戦時中空襲に合い広大な屋敷は焼失した、秀吉縁の「恵水」と名付けられた井戸や茶室、紀州藩を始めが参勤交代には諸大名が泊まったと言う。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「浪速今昔百景」聖天山古墳

2016-07-12 04:28:41 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」聖天山古墳は阿倍野区の西端、上町台地の南端に位置する小高い丘で、山の北側は公園になっており、古墳が残っている。山頂は「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれる聖天山 正圓寺の境内である。正圓寺は元禄年中(1690年頃)にこの地に移築再興された寺院であるが、それよりも遡る南北朝の頃、この付近には吉田兼好の庵があったと伝わっている。吉田兼好:1284年?~1350年?(弘安6年~正平5年:その生年と没年は諸説ある)鎌倉時代末期・南北朝時代の歌人・随筆家。 卜部兼好(うらべのかねよし)が正しいらしく、吉田兼好は後世の俗称。武士 として朝廷に仕え、のち出家。山城国山科小野荘に住み、随筆文学の傑作『徒然草』を書いた。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加