「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「一ノ宮巡り」備前国一ノ宮・吉備津彦神社・祭神大吉備津彦命

2016-12-19 04:16:55 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」備前国一ノ宮・吉備津彦神社・祭神大吉備津彦命
岡山県岡山市一宮1043・旧国弊小社
主祭神に大吉備津彦命に相殿には孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇・崇神天皇の四天皇に天足彦国押入命・吉備武彦の六柱が祀られている。
古代信仰とされる御神体の吉備中山と広大な境内を持ち、神池には鶴島と亀島の二つの島がある。巨大な磐座郡には元宮奥宮で天御中主大神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神が鎮座し、山頂の吉備中山の茶臼山と名付ける所に、祭神の吉備津彦命の祖廟がる。
社殿前には東洋一と言われる大きな石燈篭がある。
社伝に依れば推古朝に創祀されたと言う。歴史的検証から大化改新以後の創建と考えられている。
他の吉備津神社同様に朝廷に崇敬されてきた。
承和七年(840)には一品の神階を授けられた。長保年間、応徳年間。天永年間、勅営による社殿改修が行われた。
やはりこの神社も中世の神仏習合の時勢には正宮・本宮・摂社などと神宮寺・神力寺・常行堂・法華堂も建てられて総括され吉備津宮と称し、一品一宮吉備津大明神として崇敬されている。
ただこの神社に訪れて感じることは、朝鮮の影響を受けた形跡があると言うことである。韓式の鳥居が有り、中国張道陵が開祖した道教が入り磐座神社ある。鳥居も神宮も渡来氏族の影響が窺える。
江戸時代になると岡山藩主池田氏の崇敬も厚く度々改修が行われた。
この付近には古墳群が存在し古代吉備国を象徴する。
★吉備国平定後は崇神天皇六〇年には武淳川別命ともに進んで出雲を征し、当時の出雲タケル、出雲振根を倒した子孫が吉備氏であると言う説もある。
岡山の名物「吉備団子」は西道将軍としての吉備津大明神と桃太郎伝説がる。何らかの古代吉備国に謎を秘めたものではないかと言われている。
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「一ノ宮巡り」淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮・祭神伊奘諾尊・伊奘冉尊 兵庫県淡路市多賀740・式内社・旧官幣大社

2016-10-31 04:04:24 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮・祭神伊奘諾尊・伊奘冉尊
兵庫県淡路市多賀740・式内社・旧官幣大社
『記紀』の神話によると淡路島に鎮座する伊奘諾神宮の祭神のイザナギ神とイザナミ神は日本の国の生みの親になる。
『記紀』によれば国生み、神生みを終えてイザナギ神は最初に国生みを行なった淡路島の多賀後に幽宮(くりのみや)(終焉の御住居)に鎮まった。
当社の起源になる。イザナギの終焉の地として滋賀の多賀大社がある。『古事記』であは「近江」「近淡海」とあるが淡路島は「淡海」の淡道は誤写とする説もある。『日本書紀』はあくまで「淡道」として「近江」に該当しないとしている。
記述に依れば大同元年(806)神封十三戸が充てられ、天慶三年(940)官封で五戸加増された。『延喜式神名帳』に「淡路国津名郡九座、大一座、小八座、淡路伊佐那伎神社、名神大」と記載されている。
平安時代から鎌倉時代にかけて徐々に一ノ宮の記述が現れ出し、一の宮として崇敬され認められるようになっていった。また『淡路国大田文』から鎌倉時代の初期から神宮寺が有ったことが分る。
当社の神宮寺であった妙京寺の記録に依れば、弘安三年(1280)坂上田村麻呂の子孫の田村経春は社殿を再興した。武田勝頼との戦いで先陣を命じられたが従わず切腹となった。
次に江戸時代には徳島藩主蜂須賀家に崇敬され元和七年(1621)黒印状で一宮供領十石を得ている。
その後、当社の管理を廻り、寺家と社家の主導権争いで宝暦年間に六年にも及ぶ『一宮の唯一騒動』の記載が残されている。檀家を持たず一宮領分を配分して祭礼を勤める社家六坊と別当の妙京寺の末寺六坊の存在が分る。この社家六坊は神宮寺と考えられる。その後神宮寺の改宗で法相宗とも真言宗とも言われた神宮寺が日蓮宗に改宗されそれに従わない社僧は追放されたと言う。昭和七年にイザナミ神を合祀した。又昭和昭和二十七年に伊奘諾神社を伊奘諾神宮に改められた。★『古事記』では伊邪那(いざな)岐(ぎ)神(かみ)・(国生みを命じられた神、男神でイザナミ神と夫婦、イザナミ神が出産で火傷を負って亡くなり黄泉の国に行ってしまって後を追って行くが連れ戻せなかった。黄泉国から帰還し穢れた体を禊をして多くの神を産む、最後に神生みを行なって三貴公子を産む。) 伊邪那(いざな)美(み)神(かみ)・(イザナキ神と国生み神生みをして火の神の子カグツチを産んで死んだ。黄泉の国に行った。伊邪那岐神と夫婦神 女神)※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・日前神宮・国懸神宮・祭神日前大神・国懸大神 和歌山県和歌山市秋月365・式内社・旧官幣大社

2016-10-30 04:49:20 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・日前神宮・国懸神宮・祭神日前大神・国懸大神
和歌山県和歌山市秋月365・式内社・旧官幣大社
神社の近くで場所を聞くと「にちぜんさん」と教えてくれた。
紀伊国一ノ宮は二社で左に日前神社、右に国懸神社になっている。
日前神宮の祭神は日前大神、日像鏡を神体とする。相殿には思兼神・石凝(いしころ)姥(とめの)命(みこと)、右の国懸神社は主祭神国懸大神、相殿日矛鏡を御神体とし玉祖命・明立天御影命・鈿女命で御神体の鏡は伊勢神宮の神宝の八咫鏡の同等のものとされる。
八咫鏡が伊勢神宮の神体とされていたので、日前宮・国懸宮は重要な神として皇祖神に準じた扱いを受けてきた。
朝廷は神階を送らない特別な神宮とされてきた。『日本書紀』には天照大神の岩戸隠れの際の、石凝姥命が八咫鏡の鋳造した鏡を日前宮に祀られている。
神武天皇の東征後、紀伊国造家の祖神である、天道根命が八咫鏡に先立って鋳造された鏡であると言うことで日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前神宮の神体に、日矛鏡を日懸神宮の神体にした。
創建鎮座については、もとは名草郡毛見郷浜宮にあったものを垂仁天皇に御世に現在地に遷座されたと言う。
もう一つの一ノ宮伊太祁神社は現在地にあった所、紀伊国の国譲りで、今の伊太祁神社後に遷座をしたと記されている。朱鳥元年(686)国懸神社に奉幣したと伝えらえている。『延喜式神名帳』には紀伊国一宮とされた。
持統年間に紀伊大神奉幣と見え、嘉祥三年には「左馬助従五位下紀朝臣貞守を遣わし紀伊国日前、国懸大神社に向かわしむ」と記す。
中世には熊野詣での途中で参拝されたと言う記録が残されている。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収され、その際に社殿が取り壊され境内は荒廃した。江戸時代には紀州徳川藩主により再興された。
★御神体が日矛鏡・日像鏡の御神体について《即ち石凝を以て冶工として 天香山の金を採りて、日矛をつくらしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽(あまの)鞴(はぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即と紀伊国に所坐す日前神なり》日前・国懸神宮の社伝では、日矛とは矛であはなく日矛鏡と言う名のかがみである。三種の神器の一つである八咫鏡に先立って造られた「日像鏡」と「日矛鏡」の次に作ったのが、八咫鏡であると言う内容である。
現在まで日像鏡と日矛鏡は天照大神の前霊として日像鏡は日前神宮、日矛鏡は国懸神宮の御神体として奉斎されると伝わる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・丹生都比売神社・丹生都比売神かみ 和歌山県伊都かつらぎ町上天野230・式内社・旧官幣大社

2016-10-28 04:18:55 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・丹生都比売(にうつひめ)神社(じんじゃ)・丹生都比売(にうつひめ)神(かみ)
和歌山県伊都かつらぎ町上天野230・式内社・旧官幣大社
この神社に訪れて感銘を受けたのは、かつらぎ町はまるで桃源郷のような場所にあることで、紀ノ川から急な道を上り詰めた所に盆地が広がる。そして優美な社殿が迎えてくれる。
全国に一八〇社ある丹生都比売神社の総本社である。
別称天野神社、祭神は丹生都比売大神・高野御子大神・大食津比売大神・市杵島比売大神の四柱である。
この神社は高野山の北西にあって、高野山とは関わりが深く、空海が金剛峯寺を建立にあたって、神社が神領を寄進したと言い伝えがあって、高野山御入口にあって、当社の背後の尾根上には高野山への参道である「高野山町石道」が通っており、高野参りの前に、まず当社に参拝をして高野にゆく習わしがあった。習わしであった。
祭神は四所明神と言われ、第一殿は丹生都比売大神、第二殿は高野御子大神、第四殿は大食津比売大神、第四殿は市杵島比売大神である。
丹生都比売大神についてその性質は二説に別けられる。
一つに水神と見るもので、貴志川・有田川・丹生川・鞆淵川の流域と神域が重なる。もう一つに社名にある丹生の「丹」すなわち朱色は朱砂、朱色の水銀の採掘に携わる人々によって祀られたとする説である。また丹生都比売神はイザナギとイザナミの御子神であるとしている。
同じ神の稚日女尊と同一神とも言われている。
またこの神が高野山創建に関わった説話に「空海への土地譲り」伝説がある。高野山金剛峯山寺の建立に当り、地主神による当社から神領を譲ったと言う話による古記録として『金剛峯寺建立修行縁起』がる。
弘仁七年(817)、空海は「南山の犬飼」と言う二匹の犬を連れて猟師に大和から宇智郡から紀伊国境まで案内され、後に山民の山へ導かれたと言う。以上の説話は『今昔物語集』にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神の化身と言われている。
『丹生祝氏本系帳』には丹生氏が元狩人の神の生贄ために二頭の犬を連れて狩をした伝承があり、この説話が高野山開設に取り入れられたと言う。空海の死後弟子たちによって当社の神領が高野山の寺領になって行った。当社が国史での初見は『日本三代実録』貞観元年(859)従四位下勲八等の神階が授与された記録がある。『延喜式神名帳』紀伊国伊都郡に「紀伊国神名帳」には天神として「正一位勲八等、丹生津比咩大神」と記載あり、高野山開設後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として、高野山の鎮守となっている。平安時代かの二座から四座になったとみられる。仁平元年(1151)文書に「第三神宮」とある。正応六年(1293)天野四所明神の三大神号蟻通神が神託見え、第三殿に「蟻通神」が祀られた。 祭神の追加については時代は前後するが『高野春秋』によれば承元二年(1208)北条政子の援助で行勝上人と天野祝により気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵比売神が勧請された。
これによって高野山荘園に当社が勧請され、各地に丹生神社が誕生していった。また神仏習合の影響で当社の境内には多くの仏教伽藍、諸堂が建立されていった。やがて山岳修行の修験者の拠点にもなって行った。この様子は「弘法大師・丹生高野両明神象」に当社の境内も描かれている。その後公家、武家から多くの崇敬を受け、紀伊国一ノ宮を称するようになっていった。紀伊国には古くより日前宮・日懸宮は一宮として存在していたが、「一宮」の呼称自体はなく、他の社で一宮を称したのは伊太祁曽神社がある。
中世に多くの社領を受けていたが天正検地で没収された。近世には増々神仏習合で高野山学侶領から二〇二石の分与をされたが、明治の神仏分離令によって、丹生都比売神社は高野山から独立をした。
★この社の祭神について丹生都比売神はイザナギとイザナミの間に生まれた御子とされる一方、古代豪族の丹生氏の祖神と考えられ、地域的に見て貴志川・丹生川・有田川など水に携わる氏族であり、朱、丹生氏の氏名に関係する水銀を採取する氏族だったのだろう。また高野御子大神は狩場明神の別名で先住氏族の、地主神として考えらえないことはなく、両神は類似した地域氏族だったのかも知れない。他の二神は意図的に北条政子らの執権者が勧請した神々で直接的に丹生都比売神社と関連性は薄いと考えられる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「一ノ宮巡り」上賀茂神社・山城国一ノ宮・賀茂別雷神社・祭神賀茂かも別わけ雷いかづち大神おおかみ 京都府京都市北区

2016-10-26 04:26:54 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」上賀茂神社・山城国一ノ宮・賀茂別雷神社・祭神賀茂(かも)別(わけ)雷(いかづち)大神(おおかみ)
京都府京都市北区上賀茂本山339・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・ユネスコ「世界遺産」登録されている。
加茂川上流に位置して京都では最も古神社の一社。御神体の神山は神武天皇の御世に裏山の御蔭山に降臨(こうりん)したと伝えられている。賀茂御祖神社(下賀茂神社)と共に古代氏族を祀る神社である。
創建には諸説があるが、天武天皇七年(678)と社伝に伝えられている。
国史では文武天皇二年に賀茂祭の騎射が禁じられた記述が有り、天平勝宝二年には御戸代田一町が寄進された記録がある。
元明天皇和銅四年(711)より山城使いとして参向、聖武天皇御世には官弊が奉じられた。
付記すれば上下賀茂同じような後鳥羽上皇、亀山天皇の参篭が有って、建武年間には賀茂伝奏が置かれた。
神領は下社より多く二千百石(下社は五十四石)が寄せられた。
延暦十三年(794)の平安遷都の後は、王城鎮護の神社として尚一層の崇敬をうけた。
賀茂祭は勅祭とされ、『延喜式神名帳』には名神大社と列せられ、名月祭・月次祭・新嘗祭(にいなめさい)・相嘗祭などの各祭の幣帛(へいはく)に依ると記されている。
 『山城国風土記』には玉依(たまより)日売(ひめ)が加茂川の上流から流れてきた丹塗矢を床に置いた所懐妊し、そして生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依(あにたまより)日(ひ)古(こ)の子孫である賀茂県主が一族の奉(ほう)斎(さい)としたと伝える。
丹塗矢の正体は乙訓郡の火雷神の大山咋神とも言った。
 玉依日売とその父の賀茂建角身命は下賀茂神社に祀られている。 平安遷都では王城(おうじょう)鎮護(ちんご)の神社として一層の朝野の崇敬を受け正一位の神階を受けている。
 境内には三十四棟の国宝・重文の建造物がある。中でも細殿の前に円柱形の砂立ては御神体の神山を模ったもので、一種の神籬(依り代)である。
★『古事記』に登場する玉依日売と大山咋神について下記の様に記されている。
◎玉依日売タマヨリヒメは綿津見大神の子で豊玉姫の妹である。天孫(てんそん)降臨(こうりん)の編と草葺不合尊の編でも登場する。
何より、海宮に行った山幸彦の説話は起伏に富んで面白く描かれている。
また身に神霊を宿す女の通称。魂の憑かれる姫・巫女。
◎また玉依日売を妊娠させたと思われる火雷神・大山咋神は大年神とアメノチカルミズヒメの間に生まれた子である。
咋(くらう)は杭を打つ神、すなわち大きな山に杭を打つ神、大山咋神は日枝山(比叡山)は日吉大社と大きな関わりが有って、日吉大社に勧請された大物主神が西宮に祀られ、大山咋神は東宮に祀られている。
賀茂別雷神社の御神体が神山とあって、日吉大社・松尾大社にも巨大な磐座が有って共通点がある。
 何れにせよこち一帯が賀茂一族の先住地域ではなかっただろうか、また神山から神社の間には縄文土器や石器が多く発見されている。
◎賀茂(かも)建(つ)角(み)身命(みこと)は日本神話に出てくる神で、山城の賀茂氏(賀茂県主)の祖師である。賀茂御祖神社(下賀茂)の祭神である。『新選姓氏録』に依れば賀茂建角身命は神魂命の孫である。
また神武天皇の東征の際天照大神・高木神の命を受けて日向の曾の峰に天下り、大和は葛木山に至り、八咫烏に化身をして神武天皇を先導した。
その後『山城風土記』には、大和から葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、高野川と鴨川の合流点に鎮まった。賀茂建角身命には二柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主になる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神を床の近くに置いていた所、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を妊娠した。 ※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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一ノ宮巡り」伊勢一ノ宮・都波岐神社・奈加等神社・祭神猿田彦大神・天椹あまのくに野の命みこと・中筒之男命 三重県鈴鹿市一ノ宮町

2016-10-25 04:18:44 | 一宮探訪

「一ノ宮巡り」伊勢一ノ宮・都波岐神社・奈加等神社・祭神猿田彦大神・天椹(あまのくに)野(の)命(みこと)・中筒之男命
三重県鈴鹿市一ノ宮町1181・式内社・県社・伊勢国には一ノ宮は二社がある。都波岐神社・奈加等神社とも式内社で旧県社、相殿で祀られている。社伝によれば、雄略天皇二十三年、勅により造高雄束命が伊勢国河曲群中跡村に社殿を二つ造営し、それぞれ都波岐神社・奈加等神社と称したのが起源とされ『延喜式神名帳』に両者とも小社に列した。また弘法大師が参篭し、獅子頭二つを奉納をした。承暦三年(一〇七九)には神階正一位を授けられ、白河天皇から宸筆の勅額を授けられた。その後永禄年間に信長に伊勢平定で焼失し旧記も失われたが、寛永年間、神戸城主一柳監物によって再建された。
★祭神の猿田彦大神は『古事記』に登場する、天孫ニニギ命の天下りの道案内役を引き受け、この地に鎮座した経緯は椿大神社と同じである。ただ相殿の祭神天椹野命はニニギ命を防衛(ふさぎもり)する三十二人の一柱で中跡直等の祖とされている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命 広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社

2016-10-20 04:11:13 | 一宮探訪

「一ノ宮巡り」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命
広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社
祭神は大吉備津彦命で第七代孝霊天皇の第三子、四将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定した。
相殿には大日本根子彦太瓊命・父孝霊天皇・細比売命(孝霊天皇の皇后)、稚武吉備津彦命(大吉備津彦命の弟)この神社は備中一ノ宮から分祀されたものと思われる。
伝承に依れば吉備国が三国に分国された際に大同元年(806)に吉備国一ノ宮から勧請された。
この神社は『延喜式』に記載されていないので、実際の創建はもっと後年であろうと思われている。
長和三年(1014)には神仏習合の時代背景もあって褞日と言う修行僧が社前四方利益のやめの法華八講を行なった。この時代、神祇官に年貢を納める慣例になっていて、その点で中央に良く知られていた。
後白河天皇の歓喜元年(1229)に起った社殿焼失事件が「百錬抄」に記載されていたりする。
武門の時代になっても深く崇敬され社領を寄進され、強力な神人を従えて、時として近隣の豪族と衝突することが有った。
貞和二年(1346)高師泰が守護佐々布次郎に吉備津神社の神人の横暴を止めるべく命令を下している。
室町時代には神仏習合の影響で僧持範によって三重塔が建立されて、天文九年(1540)には八尾城主によって梵鐘が寄進された。
慶長五年(1600)には福島正則によって、元和五年(16199)には水野勝成によって社領が寄進された。
★祭神の大吉備津彦命は『記紀』ともキビツヒコで表記は『日本書紀』彦五十狭芹彦命・吉備津彦命で『古事記』では比古伊佐勢理毗古命・大吉備津日子命となっている。
第七代孝霊天皇の夜麻登登母母曾毗命の間に生まれた御子である。『古事記』では孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命と共に四将軍の一人として派遣されたとし、播磨(針間)の氷川之前に忌瓮をすえ播磨の道を平定された。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」丹波国一ノ宮・出雲大神宮・祭神大国主命・三穂津姫尊 京都府亀岡市千歳町千歳出雲・

2016-10-19 04:03:17 | 一宮探訪

「一ノ宮巡り」丹波国一ノ宮・出雲大神宮・祭神大国主命・三穂津姫尊
京都府亀岡市千歳町千歳出雲・式内社・旧国弊中社・京都府亀岡市にある神社で別称は元出雲・千年宮とも言われ、「大八洲国国祖神社」と言った。亀岡盆地の東に立つ御蔭山の山麓に鎮座し御蔭山を御神体とする。「元出雲」の別称は、出雲大社は当社からの分霊とする説に由来をする。今現在の出雲大社は明治時代まで杵築大社と呼ばれていた。江戸時代末までは出雲神社と言えば当社を指した。社伝によれば和銅二年(709)社殿が建てられたとする。『記紀』によれば国譲りの神事が行われたと云うが丹波国は出雲、大和の中間点にあって勢力の接点があって、国譲り由縁で祀られた。境内に横穴式石室や後期古墳や付近に丹波最大の前方後円墳が有り、古くより先住し土着した氏族の崇敬した御神体と考えられる。『続日本後記』『三代実録』には神階は正応五年(1292)正一位の叙せられた。寿永三年(1184)源頼朝は院宣によって玉井四郎資重の乱行を停止させた。当時は丹波国一ノ宮として、蓮華王院の御領として平安から鎌倉期にかけて相当の社勢を誇ったものとみられる。北条泰時は神領安堵を下知し、足利尊氏は貞和元年(1345)社殿を修理、修補をしている。★祭神大己貴神は『古事記』には大国主神として最も多く登場する神ので国津神の代表格である。出雲国の主神、スサノオ神の子とも六世の孫とも言われ、少彦名神と共に協力して葦津中国を開き平定した。説話の大黒さんとして、医薬の道などを教え、国土を天孫ニニギ神に譲って杵築の地に隠退、出雲大社に祀られている。説話に因幡の白兎が有名である。三穂津姫は日本神話に登場する神である。高皇産霊尊の娘で、大国主神の后。『日本書紀』の葦原中国平定の場面のみ登場する。高皇産霊尊が大物主神にたいして「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫に為にお譲りせよ」と詔した。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神 兵庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社

2016-10-17 04:00:55 | 一宮探訪

「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神
兵庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社
兵庫県は宍粟市ある播磨国一宮伊和神社の主祭神は大己貴神である。
播磨の神と大己貴神とは同一神と見なせる。配神に少彦名神・下照姫神で主祭神の大己貴神は出雲国から来たと言う。
「伊和」の語源については「神酒」から或いは「於和」の国造りが終わったと言う意味からと言われている。
創建については欽明天皇の御世の創建と伝える。『延喜式』には「伊和坐大名持魂神社」とあり、正暦二年(991)正一位の神階に叙せられている。
播磨国一ノ宮とされ、幾度か火災に見舞われ焼失の度に朝廷に国司、守護職赤松氏、近隣の藩主などの庇護を受けて再建された。
また地元の豪族に伊和恒郷に大己貴神から「我れ祀れ」の神託が有った。恒郷は西の野で一夜に木々が群生し。大きな白鶴が二羽が石の上に北向きに眠っていたのを見て、そこに北向きの社殿を造営した。鶴石は本殿裏に祀られた。
★この社の祭神は大己貴神、配神は少彦名神・下照姫神は『古事記』ではこの様に記されている。
大己貴神は諸国を平定国造りしていた所、波間に天の船に乗り、蛾の皮の被服を着て近づく小さな神がいた。
名も聞いても答えず、諸神に聞いても分らず、ヒキガエルが案山子に聞けば知っている。そこで案山子に聞くと「神産巣日神の御子の少名毗古那神(古事記)と分かった」そこで大己貴神が神産巣日神に質すと、確かに自分の子で手からこぼれ落ちた子であると言う。
そこで大己貴神と兄弟の契りを結んで国を造り固めよと言った。そこで少彦名神も一緒に国造りを助けたが、少彦名神は途中で常世の世界に行ってしまった。そこで大己貴神は最後まで国造りを終えた時に天津神の天孫から国を譲るように求められた。
国譲りに応じて条件として「我が住むところに、皇孫の住処のように太く深い柱で、千木が空高くまで届くような立派な宮殿を造り頂ければ、そこにお隠れしよう」これに従い出雲の「多芸志の浜」に天之御舎を造った。
★祭神の大己貴命は『古事記』に出てくる大己(おおなむ)貴(ぢ)命は多くの名前を持つ大国主神の事で・大穴牟遅(おおなむぢ)神・大穴基持(おおあなもとも)神・大汝(おほなむち)命・大名持(おおなもち)神・八千代(やちよほこ)神・葦原醜男・葦原色許男(あしはらしこを)神・大物(おおもの)主(ぬし)神・大国(おおくに)魂(たま)大神・伊和(いわ)大神(おおかみ)・杵築(きつき)大神(おおかみ)などがある。※HP『川村一彦の歴史館』フェスブック「史跡探訪の会」もよろしく。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神) 和歌山県和歌山市伊太祈曽558・式内社・旧官幣中社

2016-10-14 03:58:19 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神)
和歌山県和歌山市伊太祈曽558・式内社・旧官幣中社
祭神は五十猛(いたけるの)命(みこと)・脇宮大屋都比売(おおやつひめの)命(みこと)(妹神)・脇宮都麻津比売(とまつひめの)命(みこと)(妹)で何れもスサノヲの子神である。
創建についての初見は『続日本紀』の文武天皇の大宝二年(702)に「是日分、遷伊太祁曽、大屋津比売、都麻都比売三神社」記されている。
古くは日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇十六年に日前宮と国懸宮がその地に祀られることで、いわば土地を明け渡した。両社は互いに、同じような内容を伝えている。
その際に現地点の近くの「亥の杜」に遷座をした。和銅六年(713)現地に遷座をした。『延喜式神名帳』には名神大社に列し、紀伊国一ノ宮とされた。
神階は嘉祥三年(850)従五位下、貞観元年(859)従四位上に叙され、その後、延喜六年(906)正四位上に叙せられた。
名神大社として、月次、相嘗、新嘗の官幣を預かる。
天正年間に豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収されたが、秀長の時代になって所領は回復され社殿も建立された。
★『日本書紀』には三神が木種を分布し、天降っては韓地に植えず、筑紫から始め国内全部を青山に播植したと伝える。
五十猛命は『古事記』では大屋毗古、『日本書記』には五十猛命と呼ばれている。
父神スサノオと共に多くの樹木を新羅に降臨したが、日本に渡り植林をした。また五十猛神は大国主命を助けている、因幡の白兎を助けた大国主命は八上比売と結婚をしたが兄弟神の嫉妬らいろんな仕打ちに遭い、母神に助けられたりしたが、最後に追い詰められた時に、大木の蔭に隠れる。
矢で射られて殺されそうになった時に木の股から五十猛神の許に逃れる。
抓津姫神は日本神話に登場する女神で父スサノヲ神、兄に五十猛神で五十猛神と共に全国の山々に木々の種をまき、紀伊国に戻って住んだと言う。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「一ノ宮巡り」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂 三重県志摩市磯部町上之郷

2016-10-12 04:09:27 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂
三重県志摩市磯部町上之郷374・式内社・皇大神宮別宮・皇大神宮の別宮の一社、渡会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大神の遥宮」と呼ばれる。伊雑宮は内宮の別宮で、内宮の背後の鳥路山を越えた志摩市磯部町の上之郷にある。伊勢神宮別宮で十四社の内伊勢以外のものは伊雑宮のみで神田を持つ唯一の別宮である。明治以降、式年遷宮の為にお木曳行事が伊勢神宮に準じて二十年に一度行われる。
祭神は「天照坐皇大御神御魂」創建は延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世まで祭神には諸説が有って伊雑宮の神職の磯部一族の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命の二柱と考えられてきた。その後、記述の確認で“天照大神分身”の箇所記されている事で明治以降は伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされた。鎌倉時代に成立したとみられる『倭姫命正紀』に依れば、伊勢神宮が内宮を建立した時に倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地を探していた所、志摩国の伊佐波登美命が御贄地を選定し伊雑宮を建立された。通説にはこの説が伊勢神宮にとって都合の良い説ではあるが、この説には未だ確証が得られていない。創建は不詳とされ、伊雑宮付近は水田、稲作に適したことから、志摩土着の海洋信仰とする説など謎が多く残されている。また伊勢平家にまつわる源氏との確執で、平安期には治承・寿永の乱で戦禍を被り、伊勢平氏の伊勢に源氏の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備をした。伊雑宮は熊野三山が源氏の支持を得られた勢いで攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われた。勢いに乗った熊野勢は山を越えて伊勢国に攻め込んだが反撃で退却をした経緯が有って、時代の趨勢に翻弄された面が有った。伊雑宮は伊勢神宮に社殿が類似していて、入って右に宿衛屋があって、正殿は南面にして建ち、周囲に内に瑞垣、玉垣で二重で、正殿は神明造り、屋根の鰹木は六本、東西両端に内宮と同じ千木が高く聳(そび)えている。参拝をして感想は今までにない特異な形式の一ノ宮であった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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>「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神 大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・

2016-10-10 03:59:18 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神
大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・
大阪の都心の中心にあって地域の守護神社として、南御堂の西側に隣接し、入り口に大小三つの「三つ鳥居」が見える。祭神は生井(いくいの)神(かみ)・福井(さくいの)神(かみ)・綱(つな)長井(ながいの)神(かみ)・波比祇(はひきの)神(かみ)・阿(は)須波(すはの)神(かみ)の五柱を神武天皇が高皇産霊神と天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされている。
創建は徳天皇の難波高津宮の皇居であり、宮中の地霊を祀る為に鎮座されたと言う。
社名について「坐摩巫」には都下(つげ)国造(くにのみやつこ)の七歳以上の童女を充てるとされ、西からくる穢れを祓う儀式が行われるのに由来をしているのではないかと思われる。
都下については淀川の河口一帯を指すとされ、世襲宮司の渡辺氏が、この都下国造の末裔であり。嵯峨源氏の流れを汲むものと言われている。
『延喜式神名帳』では摂津国西成唯一の大社に列し、住吉大社と同一に摂津一ノ宮を称している。
天正十一年(1583)大阪城築城に際して、西横堀川に近い現在日に遷座をしてきた。
また境内には「陶器神社」があって江戸時代には、この界隈には陶器問屋が軒を連ねていた。その名残に末社に「冬季神社」を祀っている。
明治以前まで、府社に列していたが昭和十一年に旧官幣中社に昇格した。しかしその時の新社殿も大阪大空襲で焼失し現在のような鉄筋に建て替えられた。
近年上方落語の発祥の地として初代桂文治が寄せを開いた故事に則り、境内に「上方落語の発祥の地」の石碑が建立された。
★創建については『古事記』にある神功皇后の三韓征伐より帰還した時に淀川河口に坐摩神を祀ったことに由来する。
今日でも旧社地に坐摩神社の行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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「一ノ宮巡り」枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神

2016-10-09 04:05:00 | 一宮探訪

「一ノ宮巡り」枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神
大阪府東大阪市出雲井町7の16・式内社・旧官幣大社
元春日として春日大社が、この枚岡神社の祭神を勧請し春日大社が創建された。また春日社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し春日神を祀った。
第一殿に天児(ままのこ)屋根(やねの)命(みこと)、第二殿に比売神、第三殿に武甕槌命、第四殿に斎主命を祀る。
社伝に依れば、神武天皇紀元前三年に神武天皇の侍臣の中臣氏の祖の天(あめ)種子(たねこ)命(みこと)が、天皇の命で神津岳の頂きに祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされる。
天児屋根命は『記紀』に依れば宮廷の祭礼を務める神で、中臣氏のあと藤原氏の祖神である。
中臣の支族平岡連は河内国に栄え祀ったのがこの社である。
枚岡の梅林はかおり風景百選の一つ、昔は東高野街道から一直線に参道が有った形跡を見ることが出来る。その参道を横切るように近鉄奈良線の枚岡駅が遮るように、駅のホームから枚岡神社を望める。
平岡(枚岡)の社名は神津嶽の頂が平らだったからによる。また中臣氏の支流平岡連の氏神とされ、白雉二年(650)に平岡連によって中腹の現在地に遷座された。旧鎮座地には奥宮がある。
★『古事記』では天児屋根神は興(こご)台産(とむす)霊(ひ)の子、天の岩屋戸の前で祝詞を奏でて天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司った。中臣・藤原氏の祖神とする。
経津主神は磐筒男神・磐筒女神の子。天孫降臨に先立ち武甕槌神と共に葦原中国を平定し、大巳(おおなむ)貴(ち)命(みこと)(大国主命)を説得し、葦津中国を皇孫のニニギ命に譲らせた。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物主神奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・

2016-10-06 04:08:28 | 一宮探訪

「一ノ宮巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物(おおもの)主(ぬし)大神(おおかみ)
奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・神武東征の以前よりこの地域纏向一帯に勢力を持った、先住氏族の磯城彦(しきひこ)が崇拝し、代々族長によって引き継がれた磐座(いわくら)祭祀(さいし)の儀式が行われたと思われている。皇室の崇敬も深く融和の為に外戚関係にあった。旧来は「大神大物主神社」と呼ばれてきた。大神神社には本殿がない、三輪山自体が神体としており、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体の御神体を仰ぎ見る「古神道」(原始神道)の形を残している。三輪山の祭祀は山や山麓に留まらず、初瀬川、巻向川に挟まれた地域から望拝して行われた。大神氏の同族は各地に点在し活躍したことは国史によって知られることで、天平神護元(765)神封一六〇個の内、大和三五戸、摂津二五戸、遠江十戸、美濃五十戸、長門三十戸、と各地に神封を得ている。また各地にミワ神社が祀られている理由が窺える。『延喜式』には名神大社、月次、相嘗、新嘗などの祭の幣を預かる。中世には大和国一ノ宮として二十二社の一に数えられ朝野の崇敬を受けた。拝殿の奥には三つ鳥居は明神鳥居三つを一つに組み合わせた特異な形をしている。鳥居から辺津磐座まで禁足地で、4,5世紀の布留式土器、須恵器など勾玉、臼玉などは出土され、大半の須恵器は堺市の泉北古窯で焼かれたことが判明され、何らかの関係が有ったのかと思われている。★
『古事記』に大国主神が国造りに少彦名神と共に精を出して平定をしていたが、ある時、少彦名神は常世国に行ってしまい途方に暮れておる時に海原の彼方から現れた「幸魂奇魂」であり、大和国の東方の山に祀れば国造りを手伝いと言った。その山とは三輪山(御諸山)に鎮座する大物主神であった。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」住吉大社・祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命 大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89・摂津国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社

2016-10-04 04:09:56 | 一宮探訪
「一ノ宮巡り」住吉大社・祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89・摂津国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社・住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉』として賛否者も多く、中でも摂津の国一ノ宮住吉大社は全国二千三百社の総本社である。主祭神は海の神として住吉三神に神功皇后の息長足姫命を合わせて四柱・第一本宮・底筒男命。第二本宮・中筒男命・第三本宮・表筒男命が祀られている。
創建は仲哀天皇の御世、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(堺市七道)付近に帰還した時、神功皇后の神託により天火明命の流れを汲む一族の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀ったのが始まりという。
住吉大社の古代大和王権の外交渡航の関連した神社で、遣唐使・遣隋使の守護神であった。特に津守氏遣唐神主として乗船をした。大社の南部は細江川。古代の細江に当り仁徳天皇が開拓をさせた住吉津、「住之江津」から発展をする。『延喜式神明帳』には「住吉坐神社、四坐」と記され、名神大社に列せられた。現在の社殿は海岸線より離れ街中にあるが、江戸時代までは境内馬場は海に面し、白砂青松の風光明媚な美景の名所だった。★『古事記』には住吉大神が多く記載されている。【イザナキ大神は水中に入って黄泉の国に行って身に付いた穢れからは八十(やそ)禍津(がまつ)日(ひ)神(かみ)・大禍津(おおがまつ)日(ひ)神(かみ)が出現をした。また禍を直そうとして生まれた神は神禍毗(かんなび)神(かみ)、大直毗(おおなび)神(かみ)、伊豆能売(いずのめ)の三神。水の底です過ぎ生れた神は底筒之男(そこつつのおとこ)神(かみ)、底津(そこつ)綿津(わたつ)見(み)神(かみ)、水の中程で生まれた神は中筒之男(なかつつのおとこ)神(かみ)、中津(なかつ)綿津(わたつ)見(み)神(かみ)。また水面で漱ぎ生まれた神が上筒之男(うえつつのおとこ)神(かみ)、上津(うわつ)綿津(わたつ)見(み)神(かみ)が生まれた。それぞれの神々は氏族の祖先神に底、中、上筒之男神は住吉三座の大神になった。最後に『古事記』の源流になった三貴公子が左から天照大神・右目から月読命が鼻から建速須佐之男(すさのをのおとこ)命が生まれた。】★『古事記』には神宮皇后の新羅征伐に記されている住吉神は。
【この国を統治される御子は、皇后の体内におられる。御子は男女の分けの問いに「男子である」のお告げ、この神託の御心の問いに、天照大御神と住吉神三神である。西の国に求めるならば、住吉大神三神と諸神に西征の船に祭、充分な供え物と、大海に浮べて航海すればよいと、お告げがあった。そこで、大神の教えの通り、軍勢を整え、船を並べて、海を並べて航海された時に、海の魚の大小、全て一緒に御船を背負って渡った。すると強い追い風が吹き起こり、御船は波に乗った。その御船に押し進めた大波は新羅の国に寄せあがり、国土の半ばまで来た。その国王は恐れはばかり「今からは天皇の仰せのまま、新羅は天皇の馬の飼育掛となり、毎年船を連ね、船の腹を乾かさず、棹・梶の乾く間もなく、天地のある限り、絶えることなくお仕え申します」と申した。そうした次第で新羅国を御馬飼いと定め、百済国を海彼の屯家を定めた。
そして皇后は、御杖を新羅の国王の城門を衝きて立て、住吉大神の荒(あら)御魂(みたま)が国を守る神として鎮めて、海を渡りなさった。】この様に摂津一ノ宮の住吉大社は『古事記』にも重要な部分に登場し、地域の崇敬を集めた。




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