「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『河内史跡巡り』大聖勝軍寺・大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山

2016-12-07 12:51:20 | 河内古社寺探訪
『河内史跡巡り』大聖勝軍寺・大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている。由来については用明天皇の御代に排仏派と崇仏派が戦った古戦場であった。大聖勝軍寺は戦勝記念の寺である。587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定められる。
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河内古社寺探訪」大通寺・

2016-06-28 04:11:27 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」大通寺・当寺の起源は古く、聖徳太子が物部守屋との戦いの際、戦勝祈願をしたと伝わる。教興寺の塔頭寺院であったが、戦火に遭い荒廃をした。元禄年間に融通念仏宗となり、大通上人により再興された。寺名も大通寺と改められた。大通上人は大坂平野に生まれ、元来大通上人の生家は融通念仏宗の檀家で信仰に厚かった。在家の頃より天台・禅などを学び、出家後四十五世良観に仕え、修行の後に大念仏寺四十六世融観に就任した。境内には近松門左衛門の「曽根崎心中」の有名な「お初徳兵衛」供養塔がある。
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「河内史跡探訪」神宮寺小太郎伝説

2016-06-22 04:16:30 | 河内古社寺探訪
「河内史跡探訪」神宮寺小太郎伝説・お恩智には昔より、神宮寺小太郎伝説が残っている。母より子供の頃より,神宮寺小太郎と言う豪族が恩智左近と共に南朝方の楠正成に属した「八臣の一人」である。活躍ぶりは地元に言い伝えられ、正成の湊川の合戦の討ち死に後、子正行とともに四条畷に出陣に討ち死にし、神宮寺城も落城した。城跡は南東の馬乗山の字垣内山にあって、東西五町、南北三町の武器を蓄えた城であった。遺跡は発掘され破壊されたという。


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「河内史跡探訪」河内七墓と行基

2016-06-21 04:17:55 | 河内古社寺探訪
「河内史跡探訪」河内七墓と行基・奈良時代の日本で、行基によりに河内国に作られたとされる七箇所の墓地。行基菩薩河内七墓ともいう。大阪府東大阪市の長瀬有馬、岩田、額田と八尾市の神立、垣内、恩智神宮寺、植松晒の7箇所の共同墓地総称である。盆の14日に七墓参りをすると迷惑を掛けずに極楽往生できるとの言い伝えがあり、中河内地域では盆の月にお年寄りが七墓参りをして先祖供養をする風習がある。行基が三十七歳のころに薬師寺を飛び出して民衆に仏教の布教を始めた当時、中河内一帯は天候不順による飢餓と疫病の蔓延で多数の死者が出、死体は供養されずに野晒しにされる状態であったと伝えられる。それを憂いた行基は民衆に呼びかけ、遺棄・放置された死体を共同で集めて荼毘に付し、供養したのが河内七墓の起源とされる。現在も各地域周辺の共同墓地として存続している。
★長瀬有馬墓地・現在の長瀬墓地で、旧長瀬村全域と旧布施村のうち岸田堂、太平寺、三ノ瀬地区の共同墓地。墓地内に市立斎場がある。墓地内にある阿弥陀院に鎌倉時代の作と伝えられる阿弥陀如来座像が安置されており、東大阪市文化財に指定されている。また、融通念仏宗中興の祖である法明上人有馬御廟がある。所在地:東大阪市長瀬町2丁目
★岩田墓地岩田・西岩田・瓜生堂地区の共同墓地。墓地内に市立斎場がある。墓地内に行基菩薩像が安置されている。所在地:東大阪市岩田町5丁目
★額田墓地所在地:東大阪市南荘町7丁目
★神立墓地現在は神立共同墓地。すぐ西に愛宕塚古墳がある。所在地:八尾市神立4丁目
★垣内墓地現在は垣内共同墓地。所在地:八尾市垣内5丁目
★恩智神宮寺墓地現在は来迎寺墓地。神宮寺墓地ともいう。ただし恩智神社近くにある神宮寺観音院とは無関係。八尾市大窪にある来迎寺とは関係があったとされる。南は柏原市に接する。神宮寺・恩智・法善寺地区の共同墓地。所在地:八尾市大字神宮寺
★植松晒墓地・現在は植松共同墓地。八尾街道と旧奈良街道の交点の東に位置する。植松共同墓地由来碑文と行基菩薩墓がある。所在地:八尾市相生町4丁目
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「河内古社寺探訪」道明寺天満宮・

2016-06-18 03:56:36 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」道明寺天満宮・(梅の咲くころは必ずカメラ片手に訪れる梅の名所)学問の神、菅原道真を祭神とする道明寺天満宮は近鉄南大阪線は道明寺駅から歩いて数分の所に鎮座する。この辺りは菅原氏の祖先の領地と云われ、もとは古墳造営に関わった土師氏の氏神が祀られていた。天穂日命は土師氏の先祖神である。道真の出身母体の菅原氏は東の石川左岸にかけて一帯に、氏神の他土師寺の氏寺も建立されていた。土師八嶋が聖徳太子の発願に応えて、自宅を喜捨てした寺で規模は東西320メートル・南北640メートルの広大境内の中に塔・金堂・講堂は一直線に並ぶ天王寺式の伽藍であったことが遺構で確認された。道真が大宰府に流される際に同寺の伯母覚寿尼に訪れ別れを惜しみ自分の姿を刻んで残したという。その後も道明寺と天満宮は一体となって栄えたが、戦国時代に兵火で焼失し、信長、秀吉の寄進と德川家からの一七四石寺領で安堵された。明治の神仏分離令後、寺と神社が別けられた。

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「河内古社寺探訪」壺井八幡宮・

2016-06-14 16:48:34 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」壺井八幡宮・羽曳野市にある壺井八幡宮は河内源氏の発祥の氏神である。祭神は源氏の氏神の譽田別尊(応神天皇)仲哀天皇・神功皇后、配神に玉織姫・武内宿祢を祀る。源義家が愛用した武具、美術品を伝わっている。社家の高木氏は河内源氏の八幡太郎義家の五男の子孫と云われている。この辺り一帯は河内源氏の本拠地で寛仁四年(1020)に源頼信が河内国国司に任じられ以降、頼信、頼義、義家の三代に渡り当地に居住したという。康平七年(1064)前九年の役に戦勝し凱旋した源頼義が現在地に社殿を造営した。祭神については石清水八幡から勧請したのが始まりという。この地の地名香呂峰から壺井に改められた。戦国時代には度々戦火に焼失したが柳沢吉保が再建をした。
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「古社寺探訪」四条畷神社

2016-06-12 05:20:06 | 河内古社寺探訪
「古社寺探訪」四条畷神社・大阪府四条畷にある神社で建武中興の十五社の一社である。南軍の将として戦い、四条畷の戦いに敗死した楠木正成(大楠公)の息子楠木正行を祀る神社である。主祭神に楠木正行を祀り、二四柱の相祀楠木政時、楠木正家子息、和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門子息、大塚惟久、畠山興三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息、金岸(某)金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息、河邊石菊丸、譽田(某)阿間了願、青屋刑部を祀っている。由来は河内国賛良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。明治期に明治政府によって南朝が正当化され、正行は父である正成が大楠公と崇められ、その子の正行は小楠公として「小楠公御墓所」として拡充され、飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となって、楠木氏らの祀る神社の創建の願いを願い出た。明治二三年(1889)神社設立と別格官幣社四条畷神社の社号を宣下が下され翌年、住吉平田神社の南隣に創建をした。その後この地に大阪から浪速鉄道が四条畷駅まで開通し神社周辺は大いに栄えた。

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『河内古社寺探訪』八尾神社

2016-05-27 04:14:55 | 河内古社寺探訪

『河内古社寺探訪』八尾神社・大阪府八尾市にある神社。『延喜式神名帳』河内国若江郡の「栗栖(くるす)神社」に比定され(式内社)、社格は旧村社。旧若江郡西郷、木戸両村の氏神である。近世には「牛頭天王社」と称していたが、明治維新後に『延喜式』に従って「栗栖神社」に改称し、明治四十一年(1908年)に更に現社名に改称した。「栗栖」は現鎮座地一帯の旧称であろうとされる。祭神・宇麻志麻治命(うましまぢのみこと)・品陀和気命・近世には「牛頭天王社」の社名が示すように牛頭天王を祭神としていたが、享保二十年(1735年)の『河内志』以来式内「栗栖神社」に比定され、「栗栖」は現鎮座地一帯を本貫とした古代氏族、栗栖連氏に因むものと考えられ、その祭神も『新撰姓氏録』に「栗栖連。同じき神(神饒速日命)の子、于摩志摩治命(うましまぢのみこと)の後也」(河内国神別栗栖連条)とある栗栖連の祖神、于摩志摩治命(宇麻志麻治命)とされたために、明治維新後に宇麻志麻治命に改めた。また、品陀和気命は明治五年に合祀された旧木戸村の氏神である八幡社の祭神である。鎮座地は長瀬川(旧大和川)に沿い、周囲よりはやや高い土地で弥生時代から集落があったと考えられ、創祀年代は不詳であるものの、八尾市跡部には物部守屋の阿都の別業(『日本書紀』用明天皇二年(587年)に営まれたとされるように、八尾市一帯は物部氏及びその同族に深く関係した地であるため、物部氏の同族でこの地を本貫とした栗栖連が祖神を祀ったのに創まり、その時期は古墳時代に遡るとされる。貞観四年(862年)に正六位上から従五位下に昇叙され、同年11月11日に官社とされ(『日本三代実録』)[3]、延喜の制で官幣小社に列した[4]。中世以降の詳細は判っていないが、鎮座地一帯は八尾荘と呼ばれ、当神社は史料に欠くもののその中心的な神社として崇められたと思われる[2]。南北朝時代には当神社から西方200mにある常光寺の僧顕幸(八尾別当と称した)が寺を中心に八尾城を構えて南朝方に与したが、湊川の戦い後北朝方が城を入手したため、延元二年(1337年)に攻め寄せた南朝方の兵火に遇っている。当時の当神社は常光寺の鎮守とされた可能性もあり、常光寺とともに八尾城の一郭に組み込まれていたと推定されるため、この兵火で罹災したと思われる。また、八尾荘は室町時代の末期にも河内国守護の畠山氏の内紛のために戦乱の地となっており、この際にも罹災したと思われる。近世には牛頭天王社として天徳寺を神宮寺とする西郷村の氏神とされたが、明治初めの神仏判然令を受けて天徳寺を廃寺にして社名を「栗栖神社」に改め、明治五年(1872年に木戸村の八幡社を合祀、西郷・木戸両村の氏神として村社に列した。明治四十一年に萱振村(現萱振町)の加津良神社と八尾中野(現西山本町)の八阪神社を合祀して現社名に改称したが、戦後に加津良、八阪の両神社は復祀している。

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「河内古社寺探訪」・枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神

2016-05-22 05:13:37 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」・枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神
大阪府東大阪市出雲井町7の16・式内社・旧官幣大社
元春日として春日大社が、この枚岡神社の祭神を勧請し春日大社が創建された。また春日社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し春日神を祀った。
第一殿に天児(ままのこ)屋根(やねの)命(みこと)、第二殿に比売神、第三殿に武甕槌命、第四殿に斎主命を祀る。
社伝に依れば、神武天皇紀元前三年に神武天皇の侍臣の中臣氏の祖の天(あめ)種子(たねこ)命(みこと)が、天皇の命で神津岳の頂きに祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされる。
天児屋根命は『記紀』に依れば宮廷の祭礼を務める神で、中臣氏のあと藤原氏の祖神である。
中臣の支族平岡連は河内国に栄え祀ったのがこの社である。
枚岡の梅林はかおり風景百選の一つ、昔は東高野街道から一直線に参道が有った形跡を見ることが出来る。その参道を横切るように近鉄奈良線の枚岡駅が遮るように、駅のホームから枚岡神社を望める。
平岡(枚岡)の社名は神津嶽の頂が平らだったからによる。また中臣氏の支流平岡連の氏神とされ、白雉二年(650)に平岡連によって中腹の現在地に遷座された。旧鎮座地には奥宮がある。
★『古事記』では天児屋根神は興(こご)台産(とむす)霊(ひ)の子、天の岩屋戸の前で祝詞を奏でて天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司った。中臣・藤原氏の祖神とする。
経津主神は磐筒男神・磐筒女神の子。天孫降臨に先立ち武甕槌神と共に葦原中国を平定し、大巳(おおなむ)貴(ち)命(みこと)(大国主命)を説得し、葦津中国を皇孫のニニギ命に譲らせた。

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「河内史跡探訪」富田林寺内町

2016-05-08 04:25:50 | 河内古社寺探訪
「河内史跡探訪」富田林寺内町は、大阪府富田林市にある寺内町。江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄三年(1560年)、西本願寺派興正寺第14世・証秀が、石川西側の河岸段丘の荒芝地を百貫文で購入し、周辺四ヶ村(中野・新堂・毛人谷(えびたに)・山中田)の「八人衆」の協力で、芝地の開発、御堂(興正寺別院)の建立、畑・屋敷・町割等を行い、富田林と改めたことに始まるという(興正寺御門跡兼帯所由緒書抜)。 由緒書には上記のように記載されているが、由緒書は江戸時代の編纂物であることから確固たる信憑性を得ることは叶わない。八人衆は、この功により年寄役となり、寺内町の自治を行った。織田信長と石山本願寺による石山合戦時には、本願寺・御坊側につかなかったことから、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得ることにより、平穏を保った。しかし、近年では寺内町内部に御坊派と穏健派がいたことも示唆されている。 そして石山合戦終戦後において、織田信長から再度書状を得たがそこには「河州石川郡之内富田林」と記載されていることから寺内町を否定した。 正確な否定は豊臣秀吉が1584年に蔵入地化してからという指摘もあることを留意しなければならない。江戸時代は公儀御料となり、酒造業で栄えた。また、幕末期には、19名の大組衆(杉山家、仲村家、奥谷家などの有力町人衆)により自治が行われていた。現在も多くの町屋が残り、大阪府で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、1986年(昭和六十一年)八月に、中心部を南北に縦断する城之門筋が建設省の日本の道100選(道の日制定記念)に選定されている
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『河内古社寺探訪』恩智神社

2016-05-05 04:06:53 | 河内古社寺探訪
『河内古社寺探訪』恩智神社は、大阪府八尾市にある神社である。式内社で、河内国二宮であると伝える。旧社格は府社。現在の主祭神は、大御食津彦命、大御食津姫命である。当初は天児屋根命を祀っていたが、後になって枚岡神社に遷座し、現在の祭神を祀ることになる。大御食津彦命は天児屋根命の五世代の孫、大御食津姫命は伊勢神宮外宮に祀られる豊受姫大神の別名であるとされる。大御食津彦命・大御食津姫命は第一殿に祀られ、第二殿には春日辺大明神、第三殿には天児屋根命が祀られている。雄略天皇の時代(470年頃)、藤原氏により祖神の天児屋根命を香取神宮から勧請して創建された。天児屋根命はその後、枚岡神社を経て春日大社に祀られるようになったことから、当社は「元春日」と呼ばれる。創建当初、社地は天王森と にあった。旧社地は「天王杜」と呼ばれて当社の頓宮があり、現在もムクの大木が生い茂っている。710年(和銅3年)に周防国の玉祖神社から高安の玉祖神社へ天明玉命の分霊を勧請した際、分霊を一旦恩智神社に祀ったとされている。859年(貞観元年)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜った。延喜式神名帳では河内国で四社のみの名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記載されている。室町時代初期・建武年間に恩智の豪族、恩地左近満一が居城(恩智城)を神社の東に建てたため、神社を下に見下すことになって不敬であるとして、神社は城よりさらに高い所にある現在地に遷座された。現在の本殿は明治年間に立て替えられたものである。建築様式は王子造(流造の一種)
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「河内古社寺探訪」道明寺

2016-05-04 02:11:10 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」道明寺・大阪府藤井寺市にある真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。1575年(天正3年)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。1872年(明治5年)の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。
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「河内古社寺探訪」法雲寺

2016-04-29 04:27:32 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」法雲寺・大阪府堺市美原区今井にある黄檗宗の仏教寺院。山号は大宝山。本尊は釈迦如来。河内西国霊場第六番札所。前身は、空海開基の神福山長安寺(ちょうあんじ)という名の真言宗の寺院であったが、元和六年(1620年)に、狭山池の堤防が決壊し、西除川の洪水により、寺地及び寺は流出した。明暦年間(1655年~1657年)頃に、曹洞宗の僧・宗月が、長安寺の寺地と寺を今井村中から譲り受け、寛文十一年(1671年)に地中より観音像を掘り出し、草庵に安置して再興した。翌、寛文十二年(1672年)に、宗月は宇治・黄檗山万福寺の開祖の隠元隆の弟子である慧極道明(えごくどうみょう、1632年~1721年)に寺地と寺を譲り、寛文13年(1673年)に慧極は幕府の許可を受け、寺号を大宝山法雲寺と改め、黄檗宗の寺となった。慧極は、延宝五年(1677年)に禅堂を、延宝8年(1680年)に鐘楼を建立し、その後、三十年をかけて大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣などの二十数棟を整備した。元禄10年(1697年)に、狭山藩(後北条氏の末裔が藩主)の5代藩主北条氏朝は、慧極と師弟の約を結び、以後、北条家の菩提所となった。墓地の中央には、第十一代藩主北条氏燕の墓がある。
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「河内古社寺探訪」顕証寺

2016-04-28 04:31:05 | 河内古社寺探訪

「河内古社寺探訪」顕証寺・大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。伝承によれば、久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺八世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は六男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。文明二年(1470年)、蓮如は河内国渋川郡を訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文十年(1541年)頃に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。その後の本願寺東西分裂の際も顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。
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「河内古社寺探訪」西芳寺

2016-04-15 04:22:19 | 河内古社寺探訪

「観音巡拝紀行」西方院、”新西国8番札所“大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向山、寺号は法楽寺。本堂 - 本尊・阿弥陀如来像(聖徳太子作との寺伝がある)、三尼公木像、聖徳太子御二歳像安置・観音堂 - 本尊・十一面観音菩薩像(恵心僧都作との寺伝がある)安置・寺伝によれば、創立は推古天皇三十年(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は司馬達等の娘で、出家したのは敏達天皇十三年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥の豊浦寺である。江戸時代初期の寛永十六年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称は西方院と改められた。山門前から聖徳太子廟がある叡福寺を望むことができる。
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